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祖父が『行方不明』になった、という知らせを受けたのは、うっとうしい梅雨空が続く中、ぽっかりと晴れ渡った抜けるような青空が、さわやかに夏の風を運ぶ暑い日のことだった。
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学校の校門を、手配されたタクシーに乗り込んで見送った僕は、大きく息を吐いた。
ついにこの時が来たか、と、半ば覚悟した思いと、なぜか、どこかほっとした思いが、ぽっかりと空いて何も浮かんでこない頭の中をくるくると巡っていた。
顔も覚えていないほど幼い頃に、両親と祖母を事故でなくした僕にとって、祖父は唯一といっていい肉親だった。
といっても、甘えた記憶も、甘やかされた記憶もない。
記憶にあるときから、文字通り、彼は岩のような男であり続けた。
黙して語らず、背中で導く。
親愛の情よりも、師に抱く敬虔の情と言ったほうがいいだろうか。
甘やかされた記憶もないが、不満に地団太を踏んだ葛藤もない。
それでも自分の目線が上へと昇って来るにつれて、反対に小さくなる背中は、僕に不安にも似た焦燥を抱かせていた。
祖父は、ハンググライダーで空を駆けることを日課としていた。
医師にいくら止められようと、周囲から諭されようと、その巌(いわお)の意思を変えようとはしなかった。
ボランティアの人たちに協力してもらって、祖父は飛び続けた。
老人特有の体の衰えを見せる頃になっても、ひたすらに飛び続けた。
――わしはな、薫………。
「――客さん、お客さん?」
「はい」
不意に自分を呼ばれ、僕は空想にも似た思考の渦から、ふっと浮かび上がった。
後部座席から見遣ったルームミラーの中で、タクシーの運転手は、気の毒そうな顔をしている。
「すいません、渋滞に巻き込まれてみたいで」
一刻も早く、連絡を受けた場所に向かいたいだろう、と慮るおもいやりが見え隠れしている。
はい、と僕は生返事をした。
仕方ないです、と声ばかりは落ち着いた対応を取る。
会話が途切れた車内の窓から、ふと外を見上げた。
抜けるような空は、悲しいほどに澄み渡っていた。
――わしはな、薫。
祖父が衰えかけた身体を引きずってハンググライダーを続けるのを、無理に止めようとは思わなかった。
けれど、一度だけ、そのせいで生死をさまようような事態に陥ったことがある。
幸いに一命を取り留めた祖父に、たまらず空を飛ぶのをやめるように頼んだ。
彼は、不思議に澄んだ瞳で僕を見返した。
いつも僕の『教師』のような肉親であり続けた祖父が、そのときだけ、『孫』としての僕に許しを求めるような表情をしたのだ。
わしはな、薫。
そう言って僕の名前を呼んだ祖父は、ぽつぽつと言の葉を落とし始めた。
■
祖父の生きていた青年時代に、第二次世界大戦と後に呼ばれる戦争があった。
戦争の末期。
資源を打ち切られ、戦士をひどく『消耗』した日本は、大学の学生であった祖父にも、『赤紙』と呼ばれる収集を出した。
彼は南の戦線に赴き、特攻隊に配属された。
特攻隊というのは、資源が底をつき、弾薬も飛行機も作れなくなった日本軍がとった、最後の手段だった。
『行き』の燃料だけを積んだ飛行機に乗り込み、敵の戦機に体当たりする。
文字通り、『決死の』攻撃だ。
だが、命を懸けても、戦果が得られるとは限らない。
日本の装備は疲弊していたし、『敵国』の装備は充実していた。
突撃する前に、打ち落とされたら、そこで『終わり』だった。
『無駄』なことに、なりかねなかった。
だが、それは、名誉なこととされた。
祖父がいた部隊も、ついに出航を命じられた。
祖父は、その前日、家族に手紙を書いた。
国のために死ねて、大変嬉しい、と震える文字でつづった。
そして、自分が翌日飛び立つ大空を見た。
南の国の澄んだ夏空は、不思議な青さをしていたという。
どこまでも届きそうで、決して届かない。
底の見えない、それでいて、どこまでも引き寄せられるような無音の水原が広がっていた。
だが、彼の飛行機は、飛び立たなかった。
彼の部隊のほかの青年たちは、次々と鳥のように散っていったのに、彼の飛行機は飛ばなかった。
飛べなかったのだ。
祖父は、仲間たちの飛行機が、碧色をした大空を舞っているのを、じっと見守り続けた。
だが、彼は飛べなかった。
日本軍の装備は、疲れ果てていた。
戦機の故障を修理する余力すらなかった。
そのまま、彼は空を飛ぶことなく、終戦を迎えた――
語り終えた祖父は、どこまでも澄んだ目で、空を見続けていた。
憧憬と無念と。
それが不思議なほど無邪気な光を湛えて、仲間たちが逝った空を、自分が発てなかった空を―― ひたすらに望み続けていた。
■
「栗原さん!」
タクシーがようやく現場についたのは、学校で連絡を受けてから一時間ほど経っていただろうか。
祖父が空を飛ぶ際に、いつも協力してくれているボランティアの女性のところへと、僕は駆けた。
振り返った栗原さんは、なんとも言えない顔をしている。
「それがね、薫君…」
「祖父は…」
「…」
息を切らした僕に向かって、何か言いかけた自分を一旦止めて、栗原さんは、深々と目を閉じる。
それは、いつものように順調に飛行している最中のことだった。
梅雨のうっとおしい曇り空の狭間に、不意に現れた夏空の日。
鳥のように羽ばたく祖父のはるか彼方に、白い太陽がさんさんと光っていた。
――それが一瞬曇った。
否、ものすごい突風が吹いたのだという。
栗原さんや、他の人たちも一瞬目をかばった。
その次の瞬間、祖父の姿が忽然と消えていたのだ。
風が連れ去って行ったかのように――まるで、悪い魔法にかかってしまったように、祖父の姿は本当に忽然と消えていた。
「………」
僕には何もいうことができなかった。
代わりに、空を見上げた。
悲しいほどに晴れ渡った六月の空は、雲ひとつないまっさらなキャンパスに、悠々と風の音を響かせていた。
どこに祖父を隠したんだろう。
目を細めた刹那、僕の視界に一筋の白い線が奔る。
「――鳥…」
誰かが呆然と呟くのを、僕は黙って聞いていた。
何ひとつない青い空を、颯爽と滑空した白い鳥は、くるくると弧を描いた後に水に溶けるように消えていった。
それは、鮮やかな残像となって、祖父が戦争中に見たであろう景色と吸い寄せられたように重なった。
といっても、それはもちろん僕の場合、拙い想像に過ぎないのだが…――
くるくると、舞うように散っていく、鳥にも似た、ヒトの姿…――
彼は、大空にさらわれる直前、その瞳の中に、かつての仲間たちを見ていたのだろうか。
雲ひとつないまっさらのキャンパスの中から、祖父が帰ってくることはなかった。
ただ、一片の鳥の羽が、名残を残すように空から舞い降りていった。
鳥になった老人の、願いを叶えた証のように。
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