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他に誰も居ない夜行電車で相乗りになった時に、何か常とは違うと、気付くべきだったかもしれない。
ただ実際、私はその時年甲斐もなく、期待と不安が入り混じった気分で浮ついており、深夜の奇妙な邂逅を気にする余裕は、てんでなかったのだ。
今思えば、どうして不気味に思わなかったのか、奇妙で仕方ない――随分と『ふざけた』格好をした人間だった。
底冷えのする如月の頃、気温が底を尽きかける丑三つ時に、長袖なのはいいとして、喪服といぶかしむほど漆黒の、黒い上下、黒い帽子、目元は帽子から下がったヴェールで不明瞭ながら、常に微笑を浮かべているかのような紅い口元。
老若男女。あらゆる類型に属していてもおかしくない雰囲気だった。肩を越すストレートの髪は、女性のものか。しかしそれでも定かではない。声でも聞けば、手がかりになるのだろうか。
(いや、多分ならないな)
窓越しに相手を観察しながらふとそんなことを思う。瞬間、その相手がくすりと笑ったので、かえって驚いた。
ばつが悪い。
なんとなく立ち上がって、なんとなく席を替わろうとした。丁度トンネルにさしかかった。木霊のノイズがなんとなく、二人の間を漂う。
「お手洗いにでも行かれるのですか?」
「!」
「ああ、すいません。不躾でしたか」
男とも、女ともとれない音色だった。
「いえ、その…なんとなく窮屈だったので」
つい本音が出てしまい、思わず臍をかんだ。相手はしかし、ただ笑った。風の音が痛かった。
「ごめんなさい。寂しがりやな性分で、つい傍に席をいただいてしまいました」
「いえ、…あの、こちらこそ」
なんとなく笑い合って、なんとなく席に戻る。
トンネルは終わらない。
ひょっとしたら、この目の前の不可思議な他人に、深夜の一人旅を語りたかったのかも知れない。
風の音が、斬り裂かれたように鳴り響き、どこか耳に痛かった。
■
「実は、随分前に別れた妻に会いに行くんです」
静かに切り出した。
「娘が結婚するので、そのお祝いに行くことになったんですが。すると、向こうからわたしと話がしたいといってきて。明日まで待てず、この夜行汽車に飛び乗っておりました」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
嬉しかった。
そのまま聞き返した。
「あなたは…?」
「わたし、ですか?」
紅い口元が、くすりと笑った。
「ある境地を求めて」
「?」
「なかなかないものです。探し始めて、随分になりますが」
「はあ、あの」
「ここで会ったのも何かの縁でしょう。少し付き合ってもらえますか?」
確かに何か含みをもって、黒い帽子が微かに揺れた。
■
「わたしは、いくつに見えますか?」
前振りも何も無く、相手はいきなりそう言った。
「は。あの…」
「どうです?」
首を傾ける。
「いや…、三十前後ですか」
「ええ。『今年で、二十八になり』ます」
「あの…」
それが、どうかしたのだろうか。
「しかし、わたしは」
一瞬ためらったようだった。
「もう、七十才近くでしょうかね」
「………え?」
「わたしはどこにいるかと思いますか?」
「あの…」
厄介な類の人間だったか。そう思った矢先に、相手は自分の胸の辺りに触れた。
「『世にも奇妙な物語』」
――信じるも信じないも、貴方次第ですが。
風に流すように、唇は放った。
「『わたし』は、この体の中にいる、『心臓』です」
「!」
声にためらいはなかった。
耳を疑った。
唇の赤が電気に白く光っている。
トンネルは続いていた。
■
「昔々、あるところに、ごく普通の女性がおりました」
子供に昔話を聞かせる、そんな調子で、彼女は先に進んだ。
まだ声も出ない。耳だけが、呆然と音を拾う。
「二十三歳でしたか。夫に愛され、子供に恵まれ、幸せに生活しておりました。ある日、いつものように、彼女は買い物に行きました」
くすりと、微笑う。
「彼女は、車にはねられて死んでしまいました」
「…え………」
「『わたし』は、その『彼女』です」
「あ、あの…」
「脳死でした」
冷静な声音に、かえって寒気を感じた。
「『脳死移植』…。ご存知ですね?」
「………」
「次に気が付いたときは、病院のベッドでした。鏡を見て、愕然としました。十歳そこそこの少年が…そこにいました」
人間ドックに入ってはいましたけどね。――どこか投げやりに、そう呟く。
「そう。少年の目を通して、確かにわたしはそこに『いまし』た。理由も、所以も分かりません。ただ、喋ることもできず、意思を示すこともできず、その少年の一部として、わたしはそこに『いた』のです」
「しかし、その話が、――仮に――本当だとすると、今のあなたは…」
「そうですね」
突然の横槍に気を悪くした様子も無い。
帽子が再び微かに揺れた。
「とにかくその時は、ただ『いる』だけだったのです。しかし、だんだん、苦しくなっていった。自分が追いやられている感じでしょうか。意識の隅に追いやられ、消されていく…――。少年が、何か薬を飲んでいるのは知っていました。おそらく、『わたし』を―――移植した心臓をからだに馴染ませる薬だったのでしょう。ソレは、わたしの意識をどんどん希薄にしていきました。少年の一部になっていく…消えていく…。それは、緩慢な恐怖でした。グロテスクな、異物との一体化でした。しかし、それは同時に、少年の体をも蝕んでいっていたのです」
「………」
想像することしか、できなかった。
想像すら、できなかった。
「『わたしが消えていく』恐怖は、やがて、一人歩きをし始めました。わたしは、ただ、死にたくなかったのです。消えてしまいたくなかったのです。異物の中で、果ててしまいたくなかった」
紅い唇が、くすりと微笑む。
「ついさっきまで、あの手の中にあった。幸せな生活。幸せな家庭。愛する人間たち。彼らにもう一目会いたい…そう強く思った。 いえ…家族ですら、こじつけた理由のひとつに過ぎないのかもしれない。わたしは、その時、あらゆる理に背いてしまったのだと思います。そう。わたしはただ…」
死にたくなかったのです。
■
「………」
トンネルは続いていた。
彼女は、帽子の縁を少しあげた。
「気が付くと、わたしは、『ここ』にいました。少年はいませんでした」
静かに、静かに、ノイズのなかを、声が流れていく。
「わたしは少年に、生きた心臓をあげました。ふふ…情けは人の―――とは、よく言ったものですね。彼は、ちゃんとわたしに返してくれましたよ。お互いかけがえの無かったもの―――。彼の身体と、人生を」
「………」
「そして、わたしは、第二の人生を歩み始めたのです。そして、彼が――わたしが、大学生になった春でした。いつものように、自宅を出た。そして――」
ほんの少しだけ、彼女は言いあぐねたように見えた。
「バイクが転倒して…死んでしまいました」
思わず、息を止めていた。
声調は変わらなかった。
「気が付くと、ベッドの上でした。鏡を見て愕然としました。青白い顔をした中年男性がそこにいました」
「………」
「あとは、繰り返しです。生きた心臓の代わりに、わたしは彼の身体と人生をもらった。それを繰り返して来たんですよ。『今』までずっと」
おとぎ話を締めくくるように、彼女はそっと口を閉じた。
電車は相変わらずトンネルを走っていた。
唾を呑み込んだ。
からからに渇いた口を開くと、震える喉をこじ開けた。
「あなたは一体………、どこに向かっているんです?」
「ふふ…。言ったでしょう? 『ある境地に向かって』」
「それはまさか…」
「おや、今の話、信じてくれるんですか?」
「いや、あの………」
「袖触れ合うも、多生の縁…とは、よく言ったものですね。私は…あなたのような行きずりの他人に…、袖が触れるだけの、ひと時すれ違った人に、懺悔したかったのかも、知れません。私が失ったものと、奪ったものとを、ね」
ため息が漏れた。
「わたしが『入る』と、皆、吸い寄せられたように命を落としていった。いや…彼らの中にいる『わたし』が、呼ばれているのか…。とにかく、決まって、不幸に見舞われます。そして」
決まって『違う人間の顔』で、目覚めるんです。
「風の便りで、『わたしの』夫が死んだと聞いたとき、自分もいっそこのまま『蘇り様も無い』方法で死んでしまおうかと思いました」
「………」
「同じように、息子の死を聞いたとき、誰かわたしを殺してくれないか、と思いました」
「っ―――」
「たくさんの人間と出会いました。――たくさんの人間を看取ってきました。いろいろないき方をした人間を見てきました。いつのまにか、こんなに時間を渡って来てしまった。それでも、わたしは生きたかった。生きたいんです」
「あの………」
「違う顔で生きるようになったときね。最初にすることがあるんです。どんな顔でも、決まってね。――人間ドックに登録すること。こんな――万に一つもないようなちっぽけな賭けに、いつも、いつだって、いつまでも、勝ちつづけている」
電車がトンネルを抜けた。
汗の滲んだ手を握り直し、やっと座り直した。
ふと止めた視線の先で、彼女は拍子抜けするくらい、あっさりと帽子を脱ぎ捨てた。
「おかしいですよね」
吸い込まれそうな、瞳の黒だった。
人間らしい瞬きの次に、付け足すように、彼女は告げた。
「わたしは、長い間、『生きて』来た。大抵の事は、知っています。でも、ひとつだけ、どうしても分からないことがあるんです」
もはや、言葉もない。
「他人(ひと)の最期はいくらでも分かる。でもね。自分の最期だけは、――どうしても、分からないんです」
そういって、彼女は笑った。
魅力的な微笑だった。
そして、やっと悟った。
――彼女の求めている境地(もの)を。
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「それでは、わたしはこれで」
「ええ、お気をつけて」
軽く挨拶して、彼女とは、それきりだった。
深夜のホームに、眠そうな眼をした女性が、冷気に身を縮こませながら出迎えてくれていて、時を経たその顔を見たとき、やっとため息が漏れた。
懐かしさを分かちながら、若い頃とは違った彼女をその眼の中に見る。相手も同じだったようで、それがおかしくて、つい二人、笑ってしまった。
電車は、重い音を残して、去ってしまっていた。
ひょっとしたら、あの女性の作り話だったのかも知りない。そう思う一方、場違いな雰囲気と、存在感を纏った瞳を思う。
ただ夜風は、淡い幻想と闇に迷う女性と、その残り香を乗せて、やさしく頬を撫でていくばかりだった。
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