Water Clock -antique shop-
          君の目に見えるものは、君だけのもの。
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 気の早い小春日和に背中を押されてゆるやかな坂を登りきったところで、お馴染の風見鶏にお目にかかった。汗ばんだ額を指でぬぐい、私は少し息をつく。
 閑静な郊外の閑静な住宅街の、閑静な昼下がりに包まれて、茶色い煉瓦造りの建物はこじんまりと建っていた。猫一匹見当たらない舗装道路に面した一面は、色のついたガラス張り。申し訳程度にぶら下がった真鍮の看板に軽く挨拶すると、使い込まれた木の把手を握る。
 ピエロに釣り下がった鈴が軽く音を立て、アンティークの独特の香りを運んできた。
「こんにちは、主任(チーフ)」
 軽く声をかけると、奥の椅子に腰掛けて新聞に目を落としていた男性が振り返って目を細める。
「おや、美里君。今日は随分と早いな。大学は?」
「サークルを早めに切り上げて来たんですよ」
「それは助かる」
「いいえ。荷物置いてきます」
 うなずくと、彼は眼鏡をずり上げて新聞の続きに舞い戻ってしまった。
 いつもながら、こんな薄暗い所でよく読むものだ。
 主任の横をすり抜けてさらに扉をくぐる。
 荷物を置いて再び戻ると、ちょうど呼び鈴が鳴ったところだった。
(………お客さん?)
 めずらしい。私がこの店で働き始めて三度目のことだ。
 接待しようと口を開くが、運送屋の制服に気が付いて止めた。
 青銅の置物だの柱時計だのを物めずらしげに眺めた後に制服は扉の外に消える。
 主任がめずらしく活字から目を離していたから、背中から声をかけると手招きされた。
「また、何か買ったんですか?」
「うん。特注品だ。これは」
「また…売れるかどうかもわからないのに」
「美里君、それは野暮というものだよ」
 彼の机に、それは乗っかっていた。
 砂時計かと、一瞬思う。
「………水、ですか」
「そうだね。水時計だ」
 色の付いた気泡が上から下にゆっくりと下っていた。
「めずらしいですね。最近」
「うん。本当は、オーバーフロー式のが欲しかったんだが」
 私は思わず主任を盗み見る。
「オーバーフローって………溢れた水の分量で時間を計る…ってアレ、ですよね」
「そう。天智天皇が使っていたという、アレだ」
「博物館でしか見られませんよ。もう」
「そうだね。どうしてもと頼んだんだけど、無理だった」
 どうしても、で何とかなるものではない。
 生計もそうだが、どこからそんな余分なお金が出てくるんだろう。
「まったく………物好きですね」
「哲学者の性というものさ」
 哲学者。もちろん彼の自称だ。バイトの仕事の半分は、この人の哲学に付き合うようなものなのだが、しかしどうして、なかなか奥が深いことを言ったりもする。
 それきり主任は水時計に釘付けになってしまったので、私も仕事にとりかかることにした。仕事、といっても何のことはない。この店に溢れかえるアンティークたちの埃を一つ一つ払ってやること。
 一応店番と客の接待もそうなのだが、その仕事にお目にかかったことは今までに二度しかない。
 青銅の人面猫からいつもどおり取り掛かる。ちらりと横目で見ると、主任はなおも熱心に時計と見つめあいこしていた。
 いつもは私が来ると、さっさと奥に引っ込むくせに、なかなかどうして気に入ったらしい。
―――これは…今日は『講義』かな。
 主任の哲学のことを私はそう呼ばせてもらっている。
 柱の時計が踊りだし、三つの鐘を奏で始めた。

「掃除、終わりましたよ」
 優に二時間はたったのちに私は主任をのぞきこんだ。
 彼はふと顔を上げた。柱時計をしばし見つめる。
「ああ…もう、そんな時間か」
 薄暗い店の中が、夕焼け色に見えた。覗き込んだ目の先で、水時計の水泡も淡く染まっている。
「ずれるんだよ」
「………は?」
「ずれるんだ。時間が」
 主任は欠伸を噛み殺してから首を回す。
「ひどいずれだ。傑作だ」
「それって時計じゃないじゃないですか」
「ふむ。それは、時計というものが一様に同じ時を刻むもののように聞こえるが?」
 にやり、と。彼の口元が笑う。
 自然と口元が苦笑していた。講義だ。
「だって、時計はその為の道具でしょう。良くも悪くも」
「それはその通りだ。美里君」
 私は眉を上げる。主任の眼鏡が光る。
「だが――僕が言いたいのはそういうことではないんだよ。つまり、どうして『時間』は、あの」
 背後を指す。
「間隔でないといけないのか」
 柱時計のふりこは規則正しく揺れていた。ネジが止まり、あるいは部品が錆びつき、もろくなってしまうまで、ずっとあのまま――――

「どうかな?」
 ワトソン君、と声が笑っている。
 どうして、と言いかけて、私は言葉に詰まった。
 時。それはまるで水の流れのようなものだ。小さい頃、ほんの小学生の時、『自分がどこに〈在る〉のか』考えてみて、怖くなったことがあった。いや、今も――多分考えないようにしているだけだと思う。ぶつ切りにして寸断した『単位』で縛り上げて、初めて私たちはここに〈在る〉ことができるのだと。立ちつくすしかなかった。絶対的な『単位』に疑問を投げかけることはなかったから。
 ふと背中で気配が動き、のんびりと声がした。
「例えば『一秒』自体はね。説明できるんだ。早い話が、ある状態で生じる光の振動周期を九十一億倍にした長さ、だったように思う。でも僕が言いたいのは、そういうことじゃない」
「………」
「例えば、こういうのはどうだろう。僕の目に映る光景は僕だけのもの」
「………はあ?」
 振り向いた先で、自称哲学者は笑っている。
「僕の耳に聞こえる音は僕だけのもの。僕が感じるものは僕だけが感じているもの」
 眼鏡を押し上げる。
「例えば、今僕が見えている『君』は、本当はここにいないのかも知れない。僕が当たり前に『話している』コトバも、君にはとどいていないかも知れない。君自身に置きかえてみれば分かりやすいかな。君が見ている景色は君だけのもの。君が聞いている音は君だけのもの。君が触れているものは君だけが感じているもの」
「――――だとしたら」
「ん?」
「私が『あなた』とこうして話していること自体、成り立たないんじゃないですか?」
「君自身が主人公の物語。だが君の思い通りに行くことは決してない。結構じゃないか」
 よく呑みこめない。
 首をかしげると、苦笑がかえってきた。
「この世には六十億の物語りがある。六十億の世界がある。我々は受身形で生きている」
「………」
「少なくとも歴史はそうして築き上げられてきた。言ってみれば『主観』の累積か。どこぞの評論家も同じようなことを言っていたな。まあ、つまり僕が言いたいのは、こういうことだ」
 彼の指が水時計の木枠にかかった。こぽこぽと湧き上がる水泡を見つめて呟いた。
「君の時間は、君だけのもの」

「結局それですか」
「失礼な。僕は結構これでも考えたんだぞ」
「ずっと、水時計見つめながら、こんなこと思ってたんですか?」
「そうだ。哲学者の性だ」
 胸まで反らされては返す言葉もない。
「時間が永遠に画一化してるなんてつまらん。この水時計くらいで丁度いい」
「画一化していなかったら」
 私はほんのりと笑う。
「主任の好きな昼の連続テレビドラマもイレギュラーになっちゃいますよ?」
 主任ははたと黙り込んだ。
 すましてはたきを持ち、私は二度目の掃除に取りかかる。
 だいぶしてから口惜しそうな声がぼそぼそとうめいた。
「…それとこれとは、また、別の話だ」
 思わず、吹き出してしまった。


 それから頼みこんで、水時計をもうひとつ取りよせてもらった。
 めずらしいものだから、というのと、主任の話が面白かったからというのもある。
 机の上で空色に着色された水が不規則に時を刻むのをいつしかじっと見つめている自分に気付く。子憎たらしい目覚まし時計と比べてこれも悪くないと、そう思って、気泡が弾けるのをつい見守ってしまうのだ。
『君の時間は君だけのもの』
 うん、それも悪くない、と。

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