『夢』の始まる場所
          これからこの花を開くのは、あなた自身です。
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 深夜、余りに時計の秒針が煩わしかったので、わたしは旅に出ることにした。
 ふと立て掛けた花瓶の中に、枯れかけの花が萎れていた。


 長袖のシャツ。穴の開いたジーパン。
 ペットボトルに半分の水を携えて、わたしはひたすら歩き続けた。
 陽に溶けていくアスファルト。
 たんぽぽの咲き始めたあぜ道。
 入り組んだ路地裏。
 十字に入り乱れた交差点。
 わたしの足が止まることはなかったし、止めようとも思わなかった。
 いつしか、人家は減り、行き交う人も消えていった。
 やがてわたしは、むき出しの一本道を黙々と歩いていた。
 太陽は高く、周囲一面の草原を薙いでいく風は心地よかった。
 そして、それに奇妙な『既視感』を思うわたしがいる。
 青い空。こんな日、こんな道を歩いていたことがあるかのような。
 ただ、ひたすら黙々と、前へ、前へ――

 奇妙と、無私と、焦燥を秘めて、相変わらず足は動き続けていた。
 ふと、止まる。
 そびえる陽炎の向こう側に、深々と佇む廃墟の群れがあった。


「花は…花は、要りませんか?」
 崩れた瓦礫の最中に、その少女は居た。

「花、花を…」

 痩せこけた手の中に、白い花が守られている。
 わたしはそれに目を奪われ、いつしかふらふらと吸い寄せられていた。

「一つ、いただけませんか?」




 少女は、わたしを見上げ、笑った。

「あら、お久しぶりです。随分になるのですね」

 小鳥がさえずるような声だった。


 わたしはにわかに驚いた。
「あなたとは、今日、初めてお会いしたと思うのですが」
「ええ、あら、そうなんですか? じゃあ、きっと私の思い違いですね」
「………」
「すいません」
 はにかんで、彼女は白い花を差し出した。
「確か、十年前のことだったんです。こんな風に、空がきれいでした」


 私は、いつものように花を売っていました。
 空は青く澄んでいました。
 ずっともう、随分前から、花を誰かに受け取って欲しかったのですけれど、こんな寂しいところに辿りついてくれる人なんていなかった。
 その日、その時までは。

「花を一つください」
 それは、小さな子供でした。
 裸足で、虫取りのかごを腰に下げて、麦藁帽子をかぶった…――、そう、ちょうど十才くらいでしたでしょうか。こんなに小さい私よりも、もっと小さい子供でした。
「どうぞ」
「あの、けど、お金、持ってないんだ」
「いいのですよ。どうせ、誰ももらってくれなかったんだから」

 白い花を受け取って、子供は本当に嬉しそうにお礼を言ってくれました。
 そうして、不思議そうに尋ねたのです。

「けど、この花半開きだよ」
「いいんです」
 私は微笑んでこう言ったのを今でも、覚えています。
「この花は、これからあなたが咲かせていくものなんですから」
「…え?」
「あなたが本当にかなえたい夢があって、それをかなえるためにがんばって、そうしてそれが現実のものとなったとき、この花は咲くんです」
「…」
「これは、そういう花なんですよ」


「ちょうど、こんな晴れ渡った日のことでした」
 淡々と語り終わって、彼女は眩しそうに青の空の果てを臨んだ。
「あれから、十年…。そう、もう十年になるんですね。あの子供があれからあの花をちゃんと咲かせることができたのか…それだけが、気になっているんですけれども」
「………」
「久しぶりの、お客様だったので、思わず面影を重ねてしまったんですね…。そう、きっと、そうなんです。失礼しました…」
 わたしは、思わず手の中の花を見おとした。
 艶やかな花弁は、今にも開くのを待っていそうな、そんな様子で眠っていた。
 知らず知らずのうちに、切り出していた。
「あなたは…一体、どうしてこんな場所で花を売っているんです?」
「………」
 微笑んだまま、少女は言葉を止めた。
 太陽は高く、青い空を踊る風は一面の草原を凪いでいた。
 忽然と佇んだ廃墟の群れの中で、少女はただ微笑んでいた。
「昔は、ここも栄えていたんです」
 落とすように、ぽつり、と。
「向上し、幸福になろうとする景色であふれていました。いつしか、一つ一つ、明かりが消えていきました。…そして、最後に、この花だけが残りました」
「………」
「この町の姿が、今の『あるべき姿』であることを、変えることは、私にはできません。けれど、それじゃ余りにも寂しかったんです」
 何よりも、私が。
「だから、花を…――その人の『夢』が適ったときに蕾が開く――そんな花を売っているんです」
「…誰も訪ねてこなくても?」
 訪ねてきたことがあっても、いつか――そう、いつしか、忘れられてしまっても?
 彼女の会った幼い子供は、果たしてわたしなのだろうか。
 その記憶は、辿っていっても見つからない。
 けれど――。
 自分の中の何かが、必死に訴えていた。
 『見たことのある景色』だと。
 だとすれば――。
 わたしは、忘れているだけなのだ。
 かつて、夢をもらったことを。
 そして――彼女が放った『夢』は、わたしがそうであるように、人々の記憶からどんどんと消されてしまっていっているのかも知れない。
 日々の忙しさに、埋もれてしまって。
 廃墟の中で、たった一人花を売る彼女の『夢』は、永遠に開かないかも知れない…。
 立ち尽くすわたしに向かって、
「ええ」
 少女はふわりと笑った。
 何の気負いもない――無邪気に、信じきった微笑みで。
「ここは、『夢』の始まる場所ですから」


「わたしは…確かに、追い立てられていました。花を咲かせることを…忘れてしまっていたのかも知れません」
「そうですか」
「けれど、ここにたどり着きました」
「…そうですね」
「まだ、間に合いますかね」
「私には、分かりません」
 けれど、少女はやわらかく微笑んでいた。

「これからその花を開くのは、あなた自身です」


「………!」
 秒針の音に追い立てられるように、わたしは目を開いた。
 窓からの強烈な朝日に、思わず目を眇める。
 寝巻きに手をかけ、足早にリビングを横切る。
 急がなければ、遅刻してしまう。今日も、ぎりぎりの時間。
「………自分次第か」
 ふっと思い出して、視線をそちらに遣る。
 立て掛けの花瓶の中に、ほころびた花弁が二つ。
 生きたような白い花は、艶やかに光を弾いていた。

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