――昔、『二つの』戦争があった。
多くの命が失われた末に、世界は多大な犠牲を払って、その争いを終えた。
世界を構成する三世界――天界、地獄、地上は、二度と互いに争いを呼ばないよう、石版と呼ばれる結界の要石によって分断された。
『石板』――天と地と地を分かつもの。それは、地上において、天と地と地の交わる唯一の地、『聖地』にて、ソエラ朝、そしてそれを引き継いだシルヴェア王国の庇護の下、眠る。
しかしあるとき、石版は砕け散ってしまった。
一度は集った。しかし、離散の間に『七君主』と呼ばれる闇の意思を宿した石版は、不安定な状態でいつまた砕け散らないとも分からなかった。
そして、シルヴェア王国末期――再び、砕け散ってしまう。
シルヴェア王国から名を変えた、時の聖地の守護国『ミルガウス王国』は世界中に呼びかけ、必死にそれを回収して回った。
二度目の石版決壊から十年。離散した石板のほとんどが再び聖地ミルガウスに集うころ。
物語は、ここから始まる…
■
――ミルガウス王国 ミルガウス城渡り廊下
別に、退屈な日常を過ごしていたと言うつもりも、充実してかなわない日々を送っていたと言うつもりも無い。
ただ、まるで自分がその国の人間になったかのような錯覚を抱いていた…そんな時分の出来事だった。
緑が、さわやかな水の音に映えていた。噴水が光の粒をこぼす最中、白い午後の陽が、美しいヴェールとなって木々の表面に、つややかな線を刻んでは揺れる。
いたずらに木々を吹き抜けていく風が、ふと、白い空間に迷い込んできた。
世界の最高美を囁かれるミルガウスの王城の、絶対線対称の渡り廊下。
女神像を模した像が、自然との境界線を果たしていた。透かし彫りの天井から差し込む陽だまりがそこに続く白い床に幾重にも複雑な文様を描き出している。
その国の誇る、国章――雄大な『千年竜』の雄姿を。
「……」
カイオス・レリュードは、白い廊下に落とす影をとめ、ふっと目を細めて立ち止まった。持っていた分厚い紙の束を抱えなおし、視線を日に映える緑のほうに向けて、しばらく沈黙を保っている。
歩き疲れての小休止か、あるいは午後の一時の幻想的な風景に足を囚われたか…。あまりに美しい渡り廊下に、彼以外の人影は無い。
風が吹いた。
立ち尽くす青年の金糸が、驚くほど繊細に絡み合っていく。静かな湖面を思わせる青い瞳は、だが、どことなく冷めた色を称えていた。
胸に揺れる竜を模した紋章は、この国の権力者の証だった。
女性と見紛う秀麗な容姿が、やがて現実を思い出したかのように瞬く。何のためか大きく息を吐き出して、彼は、歩みを再開しようと踵を返しかけた。午後の庭から、白い廊下へ――。さりげなく放った視線が、だがそのまま、凍ったように動きを止めた。
〔ヤア、ボクノ『ダグラス』〕
青い目線の向こう…白い廊下に佇む影が、親しげに手を挙げた。
「………っ」
青年は眼前の光景を凝視した。先ほどまで、彼以外に何者も存在しなかった――存在し得なかった、その空間を。
ただ、青年の驚愕は不可思議な現象に対するものでは無いようだった。それよりも、もっと別の…。
端正な鼻梁を汗が伝っていく。
「……貴、様は……」
かすれきったに声が空気を微かに伝うと、それは可笑しそうに、その秀麗な容貌を歪めた。
〔ソンナ言イ方ハ無インジャナイノカイ?〕
明らかに、空気を振動したのではない、『声』。
〔ネエ、ボクノ愛シイ愛シイ 『ダグラス』〕
それは、血を塗りたくったような赤い瞳を、微かに歪めた。
〔アイタカッタ〕
「………」
青年は――カイオス・レリュードは表情を隠して、眼をそばめた。何かを振り切るように一息ついて、猛禽類のような眼光を静かに放る。
「いまさらだな。どうせ、ろくな用事じゃないんだろ。俺が『ここ』に来てからこれまで手出しをしてこなかったんで、忘れてくれたのかと思っていたよ。それで…何が望みだ」
〔ヘエ。モノワカリガイイネ。サスガボクノ…〕
「御託はいい。さっさと言え」
隠し切れない感情が、奥歯を噛み締める音に乗って空を揺らす。『それ』は、三日月が欠けていくように、血玉の眼光を細めていった。
〔イイ子ダ……ソレジャ、君ニ命令ダヨ。『コノ国ノ闇ノ石版ヲトッテコイ』〕
「!」
〔イヤ、ダトハ言ワセナイヨ。『ミルガウスノ左大臣殿』?〕
くつくつと、耳障りに嘲笑う。
〔マア、要ハドチラヲ取ルカ、ダ。確カニ石版ヲ僕ニ渡ス事ハ、世界ノ破滅ヲ意味シテルケド〕
カイオス・レリュードの言葉を封じ込めるように、嘲笑いながら―それは、前触れなく、青年の方に踏み出した。風が髪を弄ぶ。
後ろに流れる金の髪が、まるで踊っているようだった。
〔モシモイヤダトイッタラ、ソノ時ハ〕
紅い唇が笑む。
――コノ国ガホロブヨ……。
二つの影が交差する。だが、永遠に重なり合うことはなかった。
青年が思わず一歩退くと同時に、……その姿は、とけるように虚空へと消えていた。
「………」
風が舞う。沈黙に任せて踊り狂う。
後に残された男は、しばらくそのまま、立ち尽くしていた。青眼の見つめる先は、日の光が影を織り成す白い道。
やがて、風がいたずらに舞うのに任せて、紙の束が、花弁の如く散る。
「……っっ!」
彼の、顔を覆っていた無表情が崩れ落ちた。廊下にひざを立て、床にこぶしをつきたてる。噛み締める唇から伝う紅い筋が、白い床に円形の雫を散らせていた。
突然の来訪者のその顔は――瞳の色だけを除いて――カイオス・レリュードのそれと、酷似していた。
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