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――父ちゃんはなあ、がんばりすぎたんだよ。
と、医者のおじさんは言った。
――足がもげた所からバイキンが入ったんだ…。もう、助からん。
生来無口な父は、逝く時も無口であった。
二人でやった葬式は、驚くほど早く済んだ。――もっと長くかかると思っていたのに、驚くほど早く…父は骨と灰になった。
足の一本無い、不恰好な白骨だった。
何故か涙は流れなかった。
それよりも、日々を生きていくことに必死だった。
帰る家に明かりが灯る事は二度と無かった。
時間だけが、指の間から零れ落ちていった。
そしてそれ以来、私は空を見ることが多くなった。
数週間が過ぎた。
その日、日雇いの仕事は兄と別のものであり、それを早めに済ませた私は、めずらしく一人で川べりのあぜ道を歩いていた。
蹴る石は無く、自然と私の目は夕暮れの空を追った。
一日の終わりの空は、不思議な物悲しさを私に訴えかけてくる。
薄桃の空気がやがて深い藍に落ちていく内に、黄金(きん)の輝きは青空と交じり合い、深め合い――溶けていく。
跡形もなく。
それは――まるで、色とりどりの蝶が青空に吸い込まれていくような静けさだった。
川からの風は涼しく、私は大きく息を吸い込んだ。
その時。
どのような偶然だろうか、わたしはふと、あの道化屋を見つけたのである。
米利堅粉に食紅を顔に噴きつけたちんどん屋は、あの日の――そう、あの日のように、急ぎ足に川べりを歩いていた。
私はなんとなく後を追った。
草に紛れて斜面を下り、橋の影から道化屋の方を窺い見た。
今日は、道化屋は泣かなかった。あるいはこちらの存在に気づいていたのかもしれない。
彼は無言でグラスを磨き始めた。
私も息を詰めて見守り続けた。
傍目から見れば――これほど滑稽な構図も無かったろう。
ただ、私はこの時この上なく真剣であった。推測に過ぎぬが、おそらく道化もそうだったのではあるまいか。
道化屋は、黙黙とグラスを磨き続けた。
尋常な数ではなかった。
十…いや、二十ほどはあったか。
やがて、道化はその手を止め、磨き終わったグラスの全てを川べりに運んだ。
慎重な手つきで彼はそれに水を満たし始めた。水位が全て微妙に異なっている。それを秩序良く並べ終えた後、彼は己の指を水に浸した。
「あ…」
思わず私は呻いた。
それは、魔法だった。
道化の指がガラスの淵に触れるや否や、澄んだ旋律が生まれ出でたのである。
黒々とした橋の下で、それは幾重にも反響し、水のせせらぎと相成って、切ない情緒をこの胸に刻みつけていった。
それは、間違いなく、ガラスが唄っているのだった。
零れたのは、声ではなく涙だった。
透明な旋律は、この胸の空洞に流れ込んできた。止め様もなく。
「”Blessed are those who mourn, For they shall be comforted.”」
ガラスの旋律に乗って届いたのは、女の歌声だった。
それは、私には理解し得ない異国の歌だった。
しかし今、私にはその意味するところがはっきりと知れたのである。
あの日、まだら模様の化粧の下で、泣いた女の皮膚は褐色だった。
私たちをじっと見つめていた目の色は青色だった。
その女の境遇が、その時の私に全て理解できたわけではなかった。決してなかった。
しかしそれは、明らかに鎮魂の調べであった。
今彼女は川べりでたったひとり、故人を悼んで泣いているのだった。
私は、その姿に言い知れない痛みを感じた。
次に、私の父を感じた。
私の父は、このグラスの音色の様な人であった。
それは、理屈ではなく、直感であった。
生来が無口で、敬虔な人だった。喧嘩などできないものを、戦場に行き、人を殺し、足をもがれて帰ってきて、挙句非国民呼ばわりされた。反動のように、父は国家主義者となった。最後まで家の中心に居続けて、そして死んだ。
澄んだ、透明な、物悲しげな人だった。
美しく響くことのないまま、天に逝ってしまった。
私には、それが悲しかった。
私には、それが悔しかった。
心は体の線を溢れ、辺りと一体になって私は酔いしれた。
それが感情の、涙の理由の全てではなかったけれど、私はただ泣いた。
音は私の中の空洞に響き渡り、私は泣きじゃくった。
演奏は、空気に溶ける様に止み、私は立ち上がった。
辺りは既に深い夜の闇が覆い尽くしていた。
道化屋は何事も無かった様に、グラスを片付けていた。
「ブラゥボ――」
私はその背に叩きつけた。
声は掠れ、裏返っていた。
道化屋が振り向く前に、私は駆け出した。
それが、メリケン人のほめ言葉だということくらいを私はうっすらと知っていた。
吸い込まれそうな闇の中を、私は家へ向かって駆けた。
必死だった。
粗末なプレハブがやがて視界の彼方に見えた時、わたしは思わず立ち止まった。そして、ほうっと息を吐いた。
「おかえり」
父のランプの隣で、兄が笑った。
「ただいま」
私は答えて、不意に大声で何か叫びたい衝動に駆られたのだった。
暑い夏はやっと過ぎ去り、徐々に秋の気配が忍び寄ってきた頃、夏の終わりの台風が、この辺り一体を席巻した。
この台風を境にして、私が道化を目にすることは二度と無かった。
台風で増水した川が、おそらく、彼女の住居を流し去ってしまった為と思われた。
兄と共に、または一人で、幾度かあの橋の下を訪れたことがある。もう何人も居る気配の無い空間だけが、やけにひろびろと私の目に映った。
もしかしたら、あの道化は洪水で流されていったのかも知れない…ふと、そう思うことがある。
ただ、見つけたのだ。彼女の置き土産を。
それは、ちょうど川底の石に引っかかっていたものだった。
日の光にきらきらと輝く――魔法のグラスを。
私が不器用なのかどうか、いくら水に浸した指を滑らせてみても、グラスが鳴くことは無かった。あるいは、彼女以外、最初から操り得ない音なのかも知れないのだけれど。
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