氷桜 -前編-
    どちらを選びますか? 存在し得ない無常の生と、名を与えられた永遠の死。
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 青い蒼い湖面――。
 静止しているように見えて微かに流動するそれは、見る者の眼を彼方に遣りながら、しかし決して――水平線というべきか、地平線というべきか――終わりの大地を髣髴とさせようとはしない。
 絶対線対称の海と陸の境界線は、空の彼方でただ一点に交わり、果てしない平面を描きつづけていた。
 その最中…。
 絶対線対称の最中。
 ただ真っ直ぐに天を目指した存在が、居た。
 『それ』は、美しかった。
 何者も追及を許さぬ孤高の存在足り得た。
 息づくもの全てが、『水面下』に追いやられてしまう、その場所で。
 移り行く者すべてが、『影』となってしまう、その場所で。

 『それ』は、ただ『存在』足り得た。
 誰も知らない、その場所で。



「本当にあなたはいつ見ても…変わらない。永遠すら思わせる。たとえば…『私』などよりも、ずっと」
 『彼』は、呟いた。
「例えば――『ヒト』はどちらを美しく思うのでしょうね。存在しえない無常の『生』か、名を与えられた永遠の『死』」


 たとえば、この社会を例えるならば、『電車』という完全密封空間以外に何を挙げることが出来るだろうか。
 『優先席』と称した片隅の、誰も知らない、作られた『福祉の場』。女子高生の他愛ない騒音をけしからんと、赤ら顔の中年男性たちは大声で笑い飛ばす。天真爛漫な中年女性。目の前に立った子供にかわいいかわいいといいながら、席を譲ること無く、仲間のために他人の席まで掠め取る。
 男も女も、自己主張の激しいものは足を精一杯広げ、ここぞとばかりに『譲り合いの精神』を発揮する。
 ――この社会を例えるならば、この『電車』という密閉空間以外、何を挙げることが出来ようか。
 入れ替わっていく人間たち。
 『優先席』なんて名前ばかりの、弱肉強食、運に左右された椅子取りゲーム。
 たとえば、何年さかのぼっても、人間たちはこの光景を繰り返してきたんじゃないだろうか。たとえば何年経っても、人間たちはこの光景を繰り返しているんじゃないだろうか。
 私のような通学に疲れた学生さんは、ついそんなことを思ってしまう。
 そう…辿り着く場所は、終点駅のあの外灯にも似た…決まりきった未来の果てなのではないかと。
 そう…そんなことを考えて、目の前の光景を傍観している私も、電車の中の、『社会の縮小版』のなかの、一人なのだろうが。


「………」
 ふとした電車の揺れで私は目を開けた。
 明かりのともった車内。
 暗闇に沈んだ窓の外。
 他に誰もいないやけに広々とした異空間に、思わず息を呑む。
(塾帰りか…)
 そう、思い当たって、少し肩の力を抜いた。
 週末の普通電車。
 通勤ラッシュはとうに過ぎ去り、人気の元から少ない――現に今も乗客は私一人だけだ――この電車は、ただ私の降りる終点駅を目指して不規則な振動を刻みつづけている。
 時計を見た。11時23分…後少しで、駅近くの坂に差し掛かる頃か。
 誰もいないのも手伝って少し首を回す。
 下車の準備をしかけたところで、しかし、異質な風の音が耳に入り込んできた。
「…トンネル?」
 窓の外は、相変わらず暗闇だった。
 何となく天上を見上げて、不安に唇をなめる。
 いつもの電車だと、この時間にトンネルに入る事はない。
(乗る電車を、間違えたかな…)
 だとしたら、困った。
 この時間から引き返して、うまく帰りつけるかどうか…。
 携帯に伸ばした手はここがトンネルの中だということに気付いて、止まった。
 反射的にすがるように腕時計を見る。
「………!?」
 自分でも、一瞬息が止まったのが分かった。
 時計の秒針が止まっていた。
「…最悪」
 買ったばかりだったのに…。
 とにかく、これで、どのくらい寝過ごしたのかさえ、定かではなくなってしまった、ということか…。
 私は、座り直した。
 そのまま、次の駅に着くのを待つしかなかった。
 私は鞄を握った。
 トンネルの木霊が、物寂しげに響いていた。


 どのくらい、走ったのだろう…。
 ふと、風の音が変わったことに気付いて、私は顔を上げた。
「…やっと………」
 トンネルから出るのだ。
 肩の力を抜いた、瞬間だった。
「…え………」
 景色が変わった。
「え…え………」
 そう。外のあまりの眩さに一瞬の呆然を挟んだ後、私はよろよろと窓際に寄った。
 外からの光がやんわりと私を包む。
 ――蒼い湖面だった。
 凍った、しかし一点の曇りもない湖、その水面から池の『底』に向かって、桜の大木が根を張っていたのだ。
 水は茫洋とした蒼を辺りの空中にやんわりと映じ、はらはらと『散り上がる』桜の桃色と相成って、淡い紫欄色を水面に咲かせている。
 理性が拒絶するよりも、感性が感動震えるほうがあまりにも大きかった。
 暫く見惚れていた。
 やがて、自分の呼気で窓ガラスが不鮮明に曇ってしまってから、やっと私は身体を戻そうと、した。
 振り向いて…――別の意味で思考が止まる。
「こんにちは」
 ――静かな、しかし、どこか耳に柔らかい声。
 私の鞄の隣りに、――いつの間に来たのだろうか――見知らぬ人間が座っていた。
「…こ、こんにちは」
 慌てて頭を下げ返す。
 相手はくすくすと笑った。
 中肉中背、黒く袖の長い服で全身を覆っていた。顔は鍔のある帽子が隠し、口元だけが白い肌の中でよそよそしく動いている。
 性別すら、その身なりや声調からは、想像できなかった。
 その『彼』は、私の凝視に首を傾げた。やんわりと空気が動く。
「はじめてですか? 桜は」
「あ、あの…。その…」
「ああ、私ですか。先ほどから、ずっといましたよ」
 随分熱心に桜を見ていらっしゃいましたから、気付かなかったんでしょう。と、帽子が微かに揺れる。
 私が桜に見入っている間に、隣りの車両からでも、入ってきたのかもしれない…。私はそう納得して、改めて、『彼』の方に向き直った。
「綺麗でしょう。ここの桜は」
「…はい。あの…」
「どうせ、この電車は『快速』です。暫く止まりません。…よければそれまでご一緒させていただけませんか? 桜はまだまだ続きますし」
 小首を傾げた様子は、幼さすら伝えてくる。
 微妙に示された隣りの空白を見て、私もぎこちなく頷いた。
「はい」


 凍った湖は、暫く続いていた。
 私たちは、お互い前を向いて座っていた。
 電車の騒音のせいだろうか…隣りからは、呼吸の音も、衣擦れの音もしない。服に隠されてか、体温も伝わってこなかった。
 とにかく静かな人だった。気配すら、感じ得ないくらいの。――そのくせ、仕種は妙に人間じみていて。
 たぶんそれが、『彼』に対する違和感の正体なのかもしれないが。
「………」
 ちらりと目線を放ったその矢先に、相手の赤い唇が微かにつり上がったような気がした。気まずい。半ばごまかすように口火を切る。
「…この辺、存知なんですか?」
「ええ。時々来ますね。交通手段は違いますが」
「何処なんですか? ここは」
「…『名』の必要のない場所です。必要もないからつける人もいなかった。そんな場所ですよ」
 風のような言葉は。
 核心を話しているようで、はぐらかしているようで、本当に私の聞きたい事実から、あえて遠ざかっているようなじれったさを微かに感じさせる。
「…帰り道は、ありますか?」
「この電車は、折り返しです。終点まで行けば…」
 どうなるか。
 ちゃんと帰れるのか。
 『彼』はあえて続きを述べなかったように感じられた。
 それでも、その時――なぜか不安はなかった。
 ただ言葉を言葉として受け入れて、私の関心は再び、窓の外の桜へと移った。
 路は単調だった。
 カーブも、スピードの加減もない。
 単線線路の桜並木をただ駆け抜けて、車体は鉄橋にさしかかる。
 そのあたりから、桜はまばらになり、蒼い湖面だけが、どこか茫洋と続いていた。
「…あなたは、何処まで行かれるんですか?」
 ふと、私は口を割った。
「………」
 それまで、何か話し掛ければ流暢に返していた『彼』の口が、はたと止まった。
「………」
 私は待った。
 待った末に、言葉が返ってきた。
「そうですね…探しものを」
「こんな所に?」
「私の『探し物』は、特殊ですから」
 声には微かに笑みが含まれている。
「あなたはどうして、ここへ?」
「………。電車の中で眠っていて、起きたら、『ここ』でした」
 一瞬考えて、素直に伝えると、『彼』は得心したように頷いてみせた。
「ああ。迷子ですか」
「はあ」
 そんな言葉、聞いたのは何年ぶりだろう。
「時々います。あなたみたいな『迷子』さんは。…まあ、たまには迷うのもいいでしょう」
 妙に達観した言い方に、自然と頷いていた。
 『彼』も頷いた。それから、不意に首を巡らせる。
「ああ。着くようですね」
「え?」
「終点です。折り返すまでかなり停まりますが」
「はあ…」
 正直、この場を動きたくはなかった。
 それを見越したように、黒ずくめの『彼』は、微かに背をかがめる。
「もしよろしければ、私の探しものを手伝ってはもらえないでしょうか…」
 動きたくはなかったが、断る理由もない。
 赤い唇を見据え、私は微かに頷く。
「はい」


 車内アナウンスのないままに、車体は静かに静止した。
 透明なガラス質のプラットホーム。湖からの蒼い光を閉じ込めて、淡く輝いている。
「…きれい」
 思わず呟くうちに、ふと目線を投じたその先で、『彼』が早くも降り立っているのに気付く。
「………」
 気付かなかった。
 衣擦れも、気配が動いた様子もない。
 いつの間にか、ガラスの向こう側に当たり前のように居た『彼』は、少し肩を竦めて私を手招きした。
「行きましょう」
「…はい」



 吹きさらしのホームには、それといって目立つものはなかった。ただ眼前に広がる湖がホームに寄せては引いている。
「…水、だったんだ」
 傍目には凍っているように見えたが、実は液体だったらしい。どんな理で光っているのか、見当はつかなかったが、桜が水面下にある時点でそんなもの通用しないだろう。
 そこまで考えた時、後ろから声がかかった。
「おや。めずらしい。『迷子さん』かな?」
「!?」
 思わず息を呑んだ。
 振り向いた先に、駅員の制服を着た――おそらく――人がいた。
 声からすると中年だろう。
 しかし目深にかぶった帽子が、浮かぶ表情(かお)の全てを奥に隠してしまっている。
「ええ、そうですよ。迷子さんです」
 言葉を失っていた私の隣りで、答えたのは例の『彼』だった。
 『迷子』という言葉は、妙に抵抗がある。
 しかし口を挟む隙もないままに、二人の間で話は進んでいった。
「ああ、じゃあ切符はないでしょうね」
「でしょうね。…ああ。私の分はここに」
「おや。毎回ご丁寧にどうも。ここまで来るのに大変だったでしょう」
「いえいえ。今日は単線でしかも快速だったので、助かりましたよ。…そこのお嬢さんのお陰ですかね」
「…ははは」
 駅員は軽く声を立てて、私の方に向き直る。
「驚いたでしょう? このような所ですがゆっくりしていって下さい。…ああ、もちろん切符は要りません。では、私は駅の清掃がありますので」
「は、はい」
 一礼をすると、一礼を返して、彼はホームの向こう側へ消えていった。
 何となく、それを見送る。
 闇の中に大分姿がかすれた頃、隣りの『彼』が言葉を放った。
「…では、そろそろ行きましょうか」
「は、はい」
 しかし、行くとしても、一体どこに…。
「改札口です。それから湖のほうへ。…探し物、手伝っていただけるんでしょう?」
「はい」
 仕種で感情を読み取ったのか、『彼』は私の疑問にさらさらと答えた。
 そのまま先を――何も見えなかったが、先を示す。
「では、行きましょう」
「はい」

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