氷桜 -後編-
    どちらを選びますか? 存在し得ない無常の生と、名を与えられた永遠の死。
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 改札口――といっても、透明なプラットホームに透明な箱のようなものが忽然と据えられているだけだった。
 その先に、蒼い波が寄せては引いている。
 人気のまったくないそこを素通りして、『彼』は先に湖に立つ。私も後を追って、蒼い波へ一歩を踏み出した。
「!?」
 一歩踏み出した瞬間、思考の全てが止まった。
「どうかしましたか?」
 振り返る『彼』の姿と、自分を見比べて、もう一度そっと足を出してみる。
「………」
 差し出した足はそこにはなかった。
 その代わり、鏡のような水面から、底の方に向かって、女の足が生えている。
 まるで鏡の向こう側に行ってしまったみたいに。
「………」
「おや、こういう経験は始めてですか?」
「は、はい」
「でも、これで桜がどうして水面下に生えていたか、分かったでしょう?」
「はい、あの…」
「はい?」
「あなたは大丈夫なんですか?」
「ええ」
 私の言葉に『彼』は、少し躊躇った。
「私は、いいんですよ」
 曖昧に濁そうとしている調子だった。
 踏み込めない雰囲気だけは私にもわかった。結局ただ頷く。
「…はあ」



 そろそろと湖に踏み出した私の身体は、一旦『消え』、水面下に再び『現れる』。
 先を行く彼の背を追って、会話の続きを当り障りなく振ってみる。
「ここじゃ、皆こうなんですか?」
「ええ。そうですよ」
「でも、電車や、線路や、…いろいろなものは、『上』にありますよね?」そう、私の目の前に居る『あなた』も…。
「…ええ」
 世間話を始めるような口調で、彼はちらりと振り返る。
「『ここ』ではね。影が肉体となり、肉体が影となる」
「………」
 問いをはぐらかされた気がする。
 聞きたいのは、そんなことじゃない。
「ええ、分かっていますよ」
 またも表情で感情を汲み取ったらしい。
 彼は歌うように続ける。
「ここは、不変のものだけが――人の心の中で不変のものだけが、水面の『上』に居ることが出来る場所。…電車も、ホームも、そう。不変のものだから、『上』に居ることかぜできる。しかし、他のものは違う。移り変わり、移ろい行くものだからこそ、この湖の『上』に居ることなど出来ない。――そう。あなたの中で、不変だからこそ、彼らは『ここ』に居ることが出来るんです」
 最後の言葉に私は目を剥いた。
 ――単調な毎日。
 繰り返されるうんざりとした電車の中での光景。
 ずっとこんな景色が繰り返されていくのだろう、と。
 ある意味、確かに『永遠』すら、それに重ねていたのかも知れない。
 でも。
 それでも。
 私だけだ、多分。そんなことを思っていたのは。
「どうして…。そんなこと…」あなたが知っている…?
 しかし『彼』は、それには答えなかった。
「…不変なもの…つまり、『永遠』はね…人によって定義が全く違う。だから、私も来るたびに迷います。来るたびに…違う『永遠』が湖の『上』に居座っているから。今日は、あなたが来たから、たまたまさっきのものたちが『上』にあっただけですよ。ここは人の『永遠』を、映し出す場所だから…。本当に『不変』なものなど…なにもない、こんなにも『永遠』が不確かな、『この世界で』」
 『彼』は、ただ指揮者がするように、指を振った。
「何だか、可笑しいでしょう?」
「………」
 私は何も言わなかった。
 言えなかった。
 ただ、『湖の上』に『居る』彼の姿を、食い入るように見つめていた。
「まあ、確かに時々私も思いますよ。たまには私も…『線路』を外れてみたいと」
 その姿が、風で少し揺れた。



「ここです」
 彼は、暫くして歩みを止めた。
 そして、上を見上げた。
 湖の水面下から、私もそれを『見下げた』。
 湖の『上』に大木があった。
 今まで見た中で、一番大きく、一番綺麗な桜だった。
「湖の上に、ありますね」
 私は囁くように呟いた。
「ええ」
 彼も、囁くように返す。
「…不変のものなんですか?」
「――彼の『名』は、氷桜(ひざくら)と言います」
「え?」
「湖の上にあるものだけが、『名』を得ることが出来る。…ここは、そういう場所です。名を得る代わりに、彼は時を止めた」
「………」
「綺麗でしょう」
 ポツリと落としたような、声調だった。
「本当に、綺麗な桜だ」
 声に促されて、私は桜を見つめた。
 舞い散った桃色の雪が、そこで時を止めていた。
 幹は冷たい藍に光り、桜の欠片だけが、ほのかに、微かに、紫欄を帯びて浮かんでいる。
「これを見に来たんです、私は」
「………」
「綺麗でしょう。永遠のものなどないのに…愛しささえ、こみ上げてくるとは」



「…そろそろ、折り返しの電車が来ますね」
「…はい」
「行きましょうか」
「…はい」
 『彼』はまた、先に立って歩き出した。
 黒い服が音を立てて進んでいく。
 何となく、その背に向かって私は語りかけていた。
「あなたの、『名前』は?」
 『彼』は止まった。
 柔らかく首をかしげ、少し口元を上げる。
「…誰なんでしょう、『私』は」
「…え?」
「例えば…存在し得ない無常の生か、名を与えられた永遠の死。私はどちらでも無い。そして、どちらでもなり得る…」
 さらさらと言葉は流れていく。
 唇の紅が、湖の光に白く揺れた。
「私は…――」


『――は終点です。本日も、ご利用くださり、ありがとうございました。次は、終点、終点です。ご利用くださり…』

「!?」
 アナウンスが耳に飛び込んできて、私は飛び起きた。
 目を開けざま、向かいの席のサラリーマンと目が合う。
 気まずくて、お互い目を逸らした。
 車内には2、3人…。
 そう…、塾帰りの普通電車。
 ゆるいカーブの先に車体が微かに傾き、電車は駅間際の坂をゆっくりと下っていく。
 何となく、時計を見た。11時23分…いや、24分。
「…動いてる…」
 長い夢を見ていたような気がする。
 呆然と考えている間に、減速した電車は、やがてゆっくりと自動ドアの口を開いた。
「………」
 車内の数人が、肩を落として闇の中に消えていく。
「…降りなきゃ」
 口の中で呟いて、私は席を立った。
 何となく振り返る――その先に、
「こんにちは」
 黒ずくめの彼がそこに居た。――そんな気がした。
 自然と口元が微笑み、私は慌てて正した。
「また…どこかで」
 言葉を背中で受け止めて。
 私はただ笑んだ。
 闇に包まれた剥き出しのプラットホーム。
 垢抜けた色をした明るい車内。
 一時の幻想に背を向けて、私は現実に向かって歩いていった。

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