昔――そう、創世神の下、天使と、魔族と、感情を持ちえない人とが三つの世界にわかれて共存していた頃の話――神話だ。
カインとアベルと言う天使の兄弟がいた。アベルは神に愛され、カインは神に疎んじられた。カインは神を慕うあまり、アベルを憎み、そして、とうとう自分の弟を殺してしまった。
殺してしまった瞬間――カインは自分の業を悔いた。
彼は自分から神に堕天を申し出た。
天使にとっては、何よりも屈辱である堕天を…自ら申し出たのだ。
しかし、神は、自分を愛するが故に、業に及んでしまったカインの気持ちを汲み取り、ずっと天界に居つづけることを許した、と言う。
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「わたしの名前はそこから取ったんです。…お兄様である『カイン』に殺された天使、『アベル』から。皆さん、大体カインの方を悪く言いますけどね、…けれど、アベルがもしも神に愛されたいという兄の気持ちに気付いていたら、何かが変わっていたんじゃないか――わたしはそう思います。…アベルが気付かなかったせいで、カインは弟を殺してしまった。さらに、堕天をも許されず、一生『弟殺し』の後ろ指を差されつづけたんです。…もちろん、カインが愚かでなかったとは言いません。ただ、アベルも同じように…愚かだった…そう、わたしは思うんです。だから、この名前を自分につけた」
アベルは、そう言って少し微笑った。ティナはただ聞いていた。少女の意図がわからなかったし、口を挟むような類の話でもない。
わずかな沈黙の先に、少女は続きをそっと口にのせた。
「…わたしも、お兄さんを殺しましたから」
「………」
「…聞いたことあるでしょ? 闇の石版が砕け散った時、三人の王位継承者たちが失われてしまった、と。…わたしもその場にいたんです。でも、わたしは何もおぼえていない。そう…本当に、あの時の記憶だけが、ないんです。いくら思い出そうとしても、どうしても、だめでした。…スヴェルお兄さまの最期も、ソフィアお姉さまの最期も。…三人の中で、その時助かったのは、フェイお兄さまだけでした。けれど」
アベルは言葉を切った。
ティナは待った。
少女の顔に明らかな苦痛が浮かぶのをただ静かに見ていた。
「…暫くして、フェイお兄さまが石版離散の犯人じゃないか、と言う人が出てきました。フェイお兄さまが…まさか、そんなはずないんです。だけど、フェイお兄さまを断罪しろと求める勢いは凄くて、お父様…シルヴェア国王ドゥレヴァでさえ、止める事は出来なかった。…フェイお兄さまは追い詰められて…そして、崖から…さっきのあの崖から、落ちてしまったんです」
何となく、ティナには話の結末が見えたような気がした。
それは、少女の悔恨を痛いほど彼女に知らせた。
「わたしが、…わたしさえ、あの時のことをちゃんと覚えていたら、わたしさえ、お兄さまが犯人じゃないとあの時証明できていたら――少なくとも、フェイお兄さまだけは、死なずに済んだ…。遺体は、見つかりませんでした。でも、生存は絶望的でした…。わたしは、自分の不甲斐なさのせいで、お兄さまを殺してしまったんです。だからわたしは…わたしは、『アベル』なんですよ」
言い終えて、彼女はにっこりと笑った。
ティナは、相変わらず言葉を見つけられなかった。
二人の間に落ちた沈黙は深かった。
やがて、ティナは唾を飲み込む。
「…あのさ。失礼かもだけど、…どうして、そんな大事な話をわたしに…?」
「え、それはですねえ」
あはは〜、と少女は先ほどのお気楽な笑みをはいた。
「時に、ティナさん。こんな不甲斐ないわたしが、時期国王なんてつとまると思います〜?」
「えっ…と」
思わない。そんな話を抜きにしても、全然思わない。
「そう。わたしが国王なんてそんなバカなこと、ありえないですよ〜。まあ、そりゃ、カオラナお姉さまの考えてることも分かりますけどねえ。
サリエルに頼み込んだらしいんですよ、あの人。わたしの方を正統と魔法協会に認めさせるために、無茶な勝負をさせてくれるよう提案してくれって」
言って、やれやれふー、と首を振る。
「ですから、ティナさん。この勝負、絶対、負けましょうね! あはははは〜」
「ま…マジで…」
ティナは呆然と呟く。
アベルは踊りださんばかりの勢いで、楽しそうに笑いつづけていた。
勝負の前から、双方の王位継承者が両人とも負ける気満々でいるなんて…。
「いいの…? それでいいの…?」
『天下のミルガウス』なんて、巷では騒がれているけど、実は結構危なかったりするんじゃ…と、ティナは人事ながら、切実に思ってしまったのであった。
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