――ミルガウス城 左大臣執務室
雑務が片付いたのは、結局出発の間際だった。
カイオス・レリュードはため息混じりに立ち上がる。
執務室を出かけた所で、逆に扉を向こう側から叩く音に気付く。こんな時間に侍女達がいる筈もなく――自ら軽く返事をすると、遠慮勝ちに扉は開いた。
「出立の間際に、申し訳ありません…」
「…ダルス殿」
カイオスは軽く眉を上げる。眼前の左大臣補佐官は、眼鏡を押し上げると、律儀に一礼を返した。
話の事柄は、予想がつかないこともなかった。自分の補佐官は――ダルスは、カイオスが三年前にミルガウスに転がり込んでいなければ、今ごろ左大臣を拝命していたはずの人間だった。カイオスと左大臣の椅子を争って露骨に敵対した時期もある。と言っても向こう側の嫌がらせがほとんどだったが。そんな彼をカイオスが左大臣に就いた後あえて、『左大臣補佐』の地位に据えたのは、カイオス・レリュードなりの『やり方』だった。公私は混同しない。実力だけで相手は評価する。――当時、『よそ者』で人脈も満足になかった彼が取った、言ってみれば唯一の手段だった。そういうわけで――はっきり言って、二人の間柄が円満であるはずもない。
「本当にあなた自らが出て行かれるおつもりでしょうか?」
案の定、相手はそう言い放った。
言葉は丁寧だが、あからさまに刺を含んだ声調だった。
カイオスは、目で頷いた。他に誰もいないのを確認して、口を開く。
「ええ。そのつもりですが」
二人だけの時は、彼は自分の補佐官に対して敬意を払った口調を用いた。昔は自分の『先輩』だった人間だ。――そして、ダルス自身がカイオスの下に居るのは不快だろうという事は、手に取るように分かっていた。それゆえの『敬意』――もちろん、相手のそれと同じで、真実そんなものがあるはずもない。
それが不満なのだろう…相手の眼鏡が鋭く光る。
「…随分と無責任な真似を」
「どう解釈なされようと、あなたの勝手ですが…」
「石版を得るための王女の護衛…。自ら志願なされたそうですね? 国を見捨てるおつもりですか?」
「………」
「所詮はよそ者か…」
「…」
思わずダルス補佐官の口を走った――それは、ある種の失言だったのだろう。
それは、しかし如実に、彼の、そしておそらくこの国の人間たちの本音を語っていた。
「そうですね」
カイオス・レリュードは淡々と頷いた。
口の端を微かに上げた。
「私は、出自も、本名さえも知れない…。確か、この『名』は、ミルガウス――いえ、シルヴェアに縁あった故人から取ったものでしたか…。それが三年前にいきなり現れて、あなたを差し置いて『左大臣』を拝命したとなると…確かに、あなたの意見も最もです」
「…失言でした。お許しください」
「抗議なら、前左大臣、バティーダ殿に申し上げればいいでしょう」
極論してしまえば、カイオスを今の座につけたのは、その人が原因のほとんどだった。そして、ダルスの師でもあった。その人は。
「…バティーダ様は、ご逝去なされました。その時のご遺言が、あなたの『現在』です」
「…」
「よろしい。好きになさってください。私は何も申し上げますまい。但し」
神経質を絵に描いたような補佐官は、律儀に眼鏡を上げた。
「ここは、私の…私たちの国です。それだけは、お忘れの無いよう…」
暗に、よそ者(お前)の好きにはさせない、そう言っていた。ここまで信用がないと、いっそ笑えてくる。
「ええ」
逆らわずにそう返すと、彼は一礼して去っていった。
「………」
執務室には再び彼一人の空間が戻ってきた。
カイオスは、ため息を吐いた。
自身の手に視線を落とし、そしてはっきりと口の端で笑った。
「そうだな」
いっそ、この国に愛着の欠片すら抱かなかったら、ここまで悩む必要も、なかったのだろうが。
「………」
そんなに時間は費やさないだろう。今回の任務には。
そして、それが達成された時――あの補佐官の望みどおり、多分自分はこの国には帰らない…。
そこまで正確に予想してから、彼はその笑みを消した。
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