女と子供が出て行ってから、カイオス・レリュードは宿の古ぼけた椅子に座りなおした。
慌てた様子もなく、虚空に向かって視線を放る。
形の良い唇が動き、清涼な声音が空を割った。
「…で、どこに連れて行った」
「分かっていたか」
「気配の隠し方がぬるいんだよ」
腕を組み、微かに呆れた調子を滲ませる。応えたように、虚空が割れた。人型が現れ、にやりと笑む。
絡み合う金糸の髪。深い湖面の瞳。
整った顔立ちも、清涼な声音も、その表情を除けば、カイオス・レリュードと同一と言い切っても言い過ぎではないような姿態が、面を向かい合わせて存在していた。
鏡像の一方がやがて口を開く。
「石版は渡したはずだが」
「渡した石版をわざわざ探しに来たのか。ご苦労なことだな」
「それだけを言いに来たのか」
「いや…」
口の端がゆがむ。
眉一つ動かさず見受けた方を見下して、彼はもったいぶる様に間を置いた。
「…我らが主が、是非お前に会いたいそうだ」
「会えば、王女を解放すると?」
「さあ? 俺にはどうとも言えないが」
「…」
「どうする。来るか?」
「…」
カイオス・レリュードは暫く無言だった。
そして、微かに首肯した。
「どこに行けばいい」
■
「よくドツクよなあ。…動けやしねえ」
のんびりと呟いたロイドの傍らで、ローブが動いたのは、悲鳴が聞こえなくなって随分と経った頃だった。
人だかりは薄まるどころか、留まるところを知らずに膨張を続けていく様相を呈している。
見慣れた後姿は、溶け込むように人々に紛れていった。
「…あーおい、ちょっと待てよ、副船長」
「…」
押し合い圧し合いしている人の間を、細身の身体は振り向きもせず進んでいく。
頭を掻いて、ロイドの方は謝り謝り人を掻き分けていった。
しばらくして人が割けた。
真ん中に血だまりが出来ていた。
「ばっちいなあ。捨ててきてやろうか?」
わざと周囲に振りまく。
反応は無い。
ローブは気にした様子も無く血だまりに跪いた。
手を血に染めて欠片を拾い始める。
ざわめきが大きくなった。嫌悪と好奇。視線が鋭くなる。
「…なあ、アンタ…気味が悪くないのかい?」
恐る恐る尋ねた野次の一人にはロイドが応じた。
鷹揚に手を広げて、おどけたように肩を竦める。
「オレたち海賊なんだ。こんなん、商売のうちだよ。高く売れるしな」
「へえ…。そんなのが欲しい人もいるんだねえ」
「はは。どーゆー神経してんだかねえ」
「いやまったく」
「お、終わったみたいだな」
傍らに目をやって、ロイドはにっと笑った。話しかけてきた野次の肩をぽんと叩くと、
「じゃ、掃除の方は任せた。じゃなー。行くか、副船長♪」
「え、あんたちょっと…」
「よい祭りを」
血だまりを抱えたローブと共に連れ立っていく。
掃除を押し付けられて固まった野次を除いて、直後、人は急速に散っていった。
■
「………あいつ…」
急に人だかりがざわめき立ったと思うと、ウェイの傍らをローブが抜けていった。
後ろを縫うように、褐色の肌をした男。
「ばっちいなあ。捨ててきてやろうか?」
やがて響き渡ったその言葉に、ざわめきが喧騒に変わった。
ウェイは自身の肩を抱いた。心臓がひどく波打っていた。
自分自身が動じているのか、それとも自分の内に確かに存在する『モノ』が反応しているのか。
彼女には分からなかった。
肩に落ちかかった青銀の髪…異民族の証は、仮初めの光を弾いていた。
「………最低」
足元がひどく頼りなかった。
よろけた身体は周囲の混雑が支えた。
しばらくして流れ消えていく人の足に従って、彼女はいつの間にかその場を去っていた。
■
「………」
「怒ってるか?」
「………」
「怒ってるよなあ」
「………」
「怒るなよう」
「………」
血だまりを自身のローブでくるむ様にした副船長は、ロイドを待つ様子全く無く、足早に港の方に進んでいた。
余りと言えばあまりの姿に、さすがにすれ違う人が一瞬動きを止めていく。
そんな視線も、ロイドの言葉も、背中で拒絶した姿態は、それ以上の干渉をさせなかった。
ロイドは口を噤んだ。
静寂が吹き抜ける。
いつになく殊勝な沈黙が功を奏したのだろうか。
暫く経って風が囁いた。
「…別に怒ってるわけじゃない」
「そっか」
「…本当に、どんな神経してるんだか」
「分かってるだろ? コンナ神経」
「…」
「助かる? そいつ」
「多分。まだ小さいし」
「んじゃま、船に置いとくか。女の子?」
「男」
「そか。身の振り方は何とでも出来るな」
「…」
「あーまた怒る」
「怒ってない」
「そーか? お前怒るとだんまりが怖さ三倍なんだよな」
「…」
「マジマジ」
にっと笑ってロイドは空を仰ぐ。
「いー天気だな」
「…」
「皆どんな顔すっかな」
「…」
「早く着かねーかな」
いつの間にか横に並んだ二人の髪を、風が吹き抜けて行った。
海を思わせる――潮の香りを孕ませた風だった。
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