街を駆けるティナの足が、人々の変化に気づいて、ふと緩んだ。
(…騒ぎが収まった?)
特に根拠があったわけでもない――しかし、肌で感じる雰囲気が一変した実感…無意識に止まりかけた足に付いて、隣でクルスも歩調を緩める気配がした。
「…さっきの騒ぎが収まったみたいね」
「うにゅ。そんな感じ。あーあ。終わっちゃったのかあ…」
「んじゃ、アベル探しに専念って事で」
「…オレ、腹減ったよう」
「はいはい。見つかったらご飯、ね」
「うー…」
うなだれたクルスを軽く笑んで見やって、ティナはいったん完全に歩を止める。
「さっさと見つかれば早いんだけど…しかし、どんな手品使って消えたんだか…」
「…そだねえ」
クルスも首を傾げたのを横目に、
「物理的に無理だとしたら…魔法かあ」
「でも、そしたらオレたち、きっとその魔法に気づくと思わない?」
「そーなのよ。揃いに揃ってあたしら一応属性継承者だもんねえ。…あのカイオスだって、そうでしょ? けどさ、だったらあたしらに気づかせない魔法って、一体どんな…」
「例えば…空間魔法、とか?」
少年の口から飛び出したとっ拍子も無い言葉にティナは思わずそちらを向いて、口を開けた。
「何言ってんのよ。ソレ使えんの、高位の魔族とか、天使とか、そーいった連中くらいなもんでしょ。それがアベルに何の用…」
「…ねえ。ティナ。でもさ。ちょっと考えてみてよ」
「…。
何よ」
「アベルが消えた状況、何か、似てない?」
「…」
「闇の石版の強奪…」
「ストップ」
不自然な横槍に、しかし、少年は文句を付ける事は無かった。
街の喧騒から景色を翻し、二対の視線が、同時に天空を嘗める。
晴れ渡った昼の青。たなびく白い雲の間。
その彼方から迫る影…。
「…何なのよ。街には寄り付かないもんじゃなかったの?」
「ひょっとしたら、石版のせいかも」
「…? 確かに、あたし、今二つ持ってるけど、今までこんなこと無かった…」
「だからさ、アタリかも」
「あー、なるほど。他の石版がまとめて近くにあるかも…それに惹かれてこんな街中まで来てる…ってことね」
「だね」
「さあ、しかし、困ったわねえ」
何者かに盗まれた石版が近くにありくさいことは、見当がついた。
だが、むしろ今問題なのは。
「このままじゃ…街中で乱闘になっちゃうわよ…!」
どこか焦りを滲ませたティナの言葉が音をまとった直後、最初の悲鳴が祭りの前哨に浮かれる街を突き抜けていった。
「魔族だ!!!」
「こっちに向かってくる…!!!」
陽気な喧騒に、一際響き渡る、その恐怖。
一瞬の静寂が吹き抜けた後、その場に存在する無数の視線が、青空の彼方の異形を凝視した。
魔族。
人に憎まれ、人の憎しみを糧とし、その苦行を最高の愉楽として吟味する、強大な精神体――
誰もが息を呑んだ。
誰もがその『非現実的な現実』を理解した。
――魔族が、街を目指して、空を駆けてくる…
――襲われる。
状況が一変した。
一気に加速する人並み。
濁流さながら、自分達が流れ着く先も頭に浮かべぬまま、混乱の煽りだけが最悪の形で、席巻していった。
「ちょっ…、落ち着いて…!!」
「無駄だよ、ティナ! 誰も聞いてない………! 一旦宿に戻ろう! カイオス、護らなきゃ」
「だー、もう、めんどうね、あの左大臣!」
「早く!!」
惑うしかない人並みに攫われながら、何とか宿に着いたのは、行きの二倍の時間をかけた後の事だったか――息を切らして部屋に飛び込んだ二人は、別の意味で、顎を落とした。
「「………いない…」」
こぼれた言葉は異口同音に散っていく。
金髪の左大臣の姿さえも、忽然と消えていた。
■
「…カオラナ様。外が何やら騒がしいようです」
王女に宛がわれたものとしては、質素な部類に入るだろう――宿の一室。
現れた従者を一瞥して、カオラナ王位第三継承者は、密やかに笑んだ。
眼前に跪く従者の赤毛を一瞥して口を開く。
「レイザ…。どういうことか、分かる?」
「…は?」
普段から、聞き分けのない猫を思わせる――ワインレッドの瞳が微かに揺れ、やがて赤い髪が左右に振れた。その様子に、カオラナは笑みを深くする。
「盗まれた石版が近くにある、と言う事」
「………」
瞬間、目前の少女の面に表れた表情は、期待通りのものだった。
「あら、いやだわ。そんな顔をしなくっても…私じゃないのよ」
「左様…ですか」
「…そう。『別の七君主』」
「………」
「私の忠実なレイザ。約束どおり…手を出してはならないわよ」
「御意」
頭を下げたレイザは、いつも通りの従者の顔をしていた。
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