――ミルガウス『鏡の神殿』
「…消えた」
サリエルは、呆然と呟く。
男が呪文を発動させたと同時、押し倒した男の体が、抵抗をなくし、宙にとけるように…――消えた。
「右大臣様。お怪我は」
駆け寄ってきた部下に投げかけられて、サリエルは、頷いて自分で立ち上がる。
その間、じっと地面を眺めてみるが、穴が開いたわけでもなさそうだ。
「…」
「…大臣殿、右大臣殿?」
「ああ、何だ」
「賊は一体どこに…。姿が見えないようなのですが…」
「ああ…」
部下の誰何にあいまいに言葉を濁すしかない。
まさか、消えたなどとはいえないだろう。失笑を買うか、正気を疑われるか、だ。
それに…――
(あの顔は…)
サリエルは、自身の疑念を笑うように、声を張り上げた。憶測でものを考えても仕方がない。今は、自分の成すことを成すだけだ。
「とにかく、宮廷魔導師を呼んで来い。鏡の神殿の結界を張りなおすぞ」
「は」
「………」
部下が駆け出していくのを見ながら、しかし彼は、心中密かに眉をひそめていた。
(…。一体、どういうことなんだ…)
一人、呟く言葉に、返事はない。
■
――アレントゥム自由市『光と闇の陵墓』
強大な無人の古城を思わせる廃墟の中には、古びた空気の臭いと、住み付いた魔物の唸り声で満ちていた。
「あー、もう、めんどうね…」
もう、この中に入って何度目か…。湿気た壁に背中をつけて気配を殺し、ティナはすぐ傍を通り過ぎていく魔物をやり過ごす。
頭が弱い下級魔族は、人間特有のにおいと気配に敏感だが、一応ティナほどに戦闘経験があれば、気付かれるにやりすごせるものではあった。
「…ふぅ」
足音と、どす黒いけはいが闇に紛れ去ったのを確認して、大きく肩で一息つく。
カイオス・レリュードとヤりあった後、最後の石版を託されてこの中に飛び込んだのは、半刻ほど前か…。
彼女、ティナ・カルナウスの最大の問題は、
(…こんな、狭いトコじゃ、魔法使えないのよねー…)
いくら遺跡で、いくら魔族しかいないといっても、所詮は古城。
通路は、せいぜい人間が四、五人並んで歩ける程度の広さしかない。
そんなところで彼女大得意の炎なんて使ったらどうなるか。
まず間違いなく炎が逆流して、昇天…とはいかなくても、ダメージをくらう。
だからと言って、流石の彼女も剣で戦うのには限界があった。
もともと魔法の方が得意だし、実は先ほどのカイオス・レリュードとの戦いで負った傷は決して浅くなかったのだ。
そんなこんなで、結局ゴキブリ並みに気配を殺して進むしかない。
「…あー、もう、しっかし、この遺跡、広すぎ…」
壁によりかかってため息をついたところだった。
「………」
ふっと視線をあげる。
「ばあ」
目の前、視界いっばいに、さかさまに人間が立っていた。
魔族特有の赤い瞳が、ティナを映して鈍く輝いている。
「!?」
反射的に短剣を繰り出すが、そこは既に虚空。
「ちっ…」
見た目は人間だったが、出会い頭に、天井に立ってあいさつする奇特な人間はまずいないだろう。
(そこそこマヅい強さの魔族に、見つかっちゃったか…)
闇に視線を走らせながら、壁を背にする。
魔族に見つかるのを避けて、光の魔法は唱えていない。
それでも、微かに目が効くのは、この城のいたるところに誰が唱えたのかも分からない、魔法の『明かり』が灯してあるからだ。
ぼぅっと光る壁の魔法光を頼りに、口の中では、呪文の準備をする。
――人間の姿が取れるくらいの魔族だ。
少々、炎が逆流してイタイだの、熱いだのと、言っている場合ではない。
「…命の灯(ひ)よりもなお赤く 逸る血よりもなお熱く…」
自分の鼓動を聞きながら、静かに唱えていく。
次の言葉を紡ぎだす、その直前で、しかし不意に詠唱がとまった。
「…――」
止めた、のではない。
止められた。
自分の背後…――壁の方からいきなり伸びてきた『何か』に、突然口を塞がれて。
「っ…!」
横目でさらった視界のぎりぎりに、壁から生えた白い手が映った。
(くっ…)
目を細めて歯をかみ締める。お得意の、空間を渡る術か…!!
しかしこの時、見えていたのは、片手だけ。
もう片方の手は。そして、本体は…。
「ばいばい」
目を向けたのとは別方向、もう一方の耳に向かって、そんな言葉が吹き込まれてきた。
吹き抜ける悪寒…――。
口を塞がれたまま、身を硬くする間もなく、首筋に刃の押し当てられる感触が、思考を奪った。
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