Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  終章 旅立ち 
* * *
 五日で陽気になり、十日で発狂する。と言われていた。
 誉れ高きミルガウス王国に存在する、暗黒の地下牢。
 普通の囚人達にあてがわれる牢屋よりも、遥かに過酷な条件にさらされ続ける――ある意味、極刑を超越する、死の牢獄があった。
 今にも崩れ落ちそうな石段が唯一の経路、一つの階層に一つの独房があるだけの、弧絶された空間には、粗末な蝋燭の明かり以外に一片の明かりも入ることはない。人の体液と血液とが、どこからともなく滴る水の音に交じって、息を呑むような臭気を闇に滲ませる。
 たえまない水音は、囚人から眠りすらも奪い、いつ下されるかも分からない死刑宣告を待って、彼らは石段を一日に一度、歩いていく音に、ひたすらに震え続ける。
 その悪環境は、収容された人間の三人に一人を発狂死させるほどのものだった。
 
その、生きながらの地獄への石段を、ミルガウス国右大臣、サリエルは灯火を片手に一段一段、下っていった。
「足元に気をつけてくださいよ」
 背後に声をかけて、息を詰めながら彼はさらに一歩進める。
 軍靴が石に反響し、幾重にもこだましながら、螺旋を描いていつ尽きるかとも思われない闇の底へと吸い込まれていった。
 鼻をつく臭気は徐々に――耐え難くなるほどに強く、そしてそれに水音や嗚咽が混じってきていた。
「………」
 あえて平静を装って、サリエルは先を急いだ。
 本来ならば――このような場所へは、程度の低い囚人か奴隷が行きに遣らされる。
 間違っても、ミルガウス国の軍部を担う彼、右大臣サリエル自らが足を運ぶような場所ではない。
(そういえば、エルガイズ殿も)
 ふと、彼は同僚の太政大臣のことを頭に浮かべた。
(ここに遣らされたことがあると言っていたな)
 現太政大臣は、出自は奴隷腹の人間だ。
(あの気の弱い人が…よくやっていたものだ)
 かく言うサリエル自身も、十年前までは馬の世話係に過ぎなかった。そう、―― 十年前、闇の石版が砕け散り、王位継承者たちが全員命を落とし――『賢王の粛正』が始まるまでは。
 奇妙な運命だと思う。
 ほんの少し前までは、自分など人に使われ、忘れられていくだけの――そして、そのことに何の不思議も不満も抱くことのない立場の、人間だったのに――。
(おかしな国だ)
 奴隷や、馬の世話係が今や偉そうに、国の一番上でふんぞりかえっている。
 そして、それを当たり前のように周囲が受け入れている…――
(俺も、エルガイズ殿も)
 そして、もう一人。
 この国の人間ですらない、彼…
「………」
 その『彼』のことに考えが至ったとき、サリエルは足を止めた。
 地獄の地下牢の、最下房。
 もっとも罪の重い囚人が入るとされている――闇は深くわだかまり、居るだけで息がつまりそうになり――サリエルは、目を閉じて邪念を振り払った。
 地下牢にこだます全ての臭気のふきだまりのように感じたのだ。
「…足元に気をつけて」
 背後に向けて投げかけると、彼はその独房の前に参じる。
 軍靴の音は止み、急な音の空虚が水音の存在を増す。
 サリエルは、その独房の前に灯火を差し出した。
 中に居た人間が、突然の明かりに眩しそうに目を眇める。

 この石牢は。
 五日で人を陽気にさせ、十日で人を発狂させる。
 投獄されてから――正しく言うと、自分からこの最下層の地下牢に入ってから、二十日。
 陽気な様子も、発狂した様子も無く、『囚人』は異国人の証である青の瞳を、じっとこちらに向けてきた。
「よぉ」
 務めて何もない風に、サリエルは軽く手を上げた。
 石壁にもたれた――この牢では、人が横になる空間さえ、ない――その人物は、ただ小さく息を吐いた。
 あせた色の金髪が、灯火に映える。
 カイオス・レリュード。
 それは、――ミルガウス王国左大臣を拝命する、その人であった。



 アレントゥムの悲劇、黒き竜と白き光の出現――そのあとの闇の石版の崩壊――。
 悪夢のような一連の出来事の後、ティナたちがミルガウスに帰国したのはそれから一週間ほど経った頃だったか。
 国の主だった者を集め、何が起こったかと報告する場において、ティナたち他の同行者を下がらせただ一人で御前に参じた左大臣は、臆する様子も、ためらう様子も無く、淡々と語った。
「全てのことは、自分の責任だ。他の誰にも非はない」と。
「石版を盗んだのも。それを七君主と呼ばれる存在に渡したことも。国境守備隊が殺害されたことも。――アレントゥムが崩壊したことも」
 闇の石版が再びはじけ飛んでしまったことも。
 ミルガウスの鏡の神殿が、『左大臣と非常によく似た』人間の襲撃を受けたことも。
 七君主という、人智を超越した存在のたくらみが絡んでいたにもかかわらず、ある意味被害が町ひとつで食い止められたのは、ティナ・カルナウスの力によるものであり、そもそもの発端は、全て自分に帰すること。
 それらを淡々と語りつくし――そして彼は自らこの独房を選び…――今も、正気を保っている。

 王国の上層部は紛糾した。
 何せ、カイオスの証言だけで一切の証拠があるわけではないのだ。
 困り果ててティナ・カルナウスに話を聞けば、随分と迷った挙句、カイオス・レリュードを擁護するようなことをちらりと言った。
 彼は、全て悪いわけじゃないと思う、と。
 ティナからすれば、ありもしない罪を着せられた挙句、石版探しにつき合わされ、果ては七君主と対決という、とんでもない目にあっているのだ。この立場でカイオスをなおも庇うようなことを言うのだから、相当の裏事情があるのだろう。
 ゆえに、今回のことは、カイオス・レリュードばかりの責任ではない、ということに議論の大半は落ち着くのだが。
「どうやら、左大臣が『鏡の神殿』から石版を最初に持ち出したことだけは、間違いのないようだ。そんな人間にこれまでどおり左大臣を任せてもいいのか」
 これが――特に左大臣補佐官によって強く主張され、結局落ち着くのに二十日を要した。
 それでなくても、アレントゥムの事後処理や、各国からの問い合わせ、国境守備隊二百人の遺族達への対応が国の中枢を悩ませ続けていたのだが。

 そして今。
 右大臣サリエルは、カイオス・レリュードに対するあらゆる決定を携えて、本人の前に立っている。

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