――???
波のゆらめきが、静かな影を幾重にもたゆたわせていた。
日も届かぬ海底に、ひだのように細かく揺れる、囁きのような蒼い波。
『それ』はずっとそこに居た。
ゆるやかな眠り。
悠久のまどろみ。
『それ』――すなわち『護るもの』が、主に与えられた『約束』と『信頼』のもとに。
藍色の、けだるい夢。
しかし、突然それがかき乱される。
まばゆいばかりの白光が一瞬、光を知らぬ海底にまでさしこみ、その直後、再び闇に眠る空を鋭く裂いて、小さな石の欠片が『護るもの』へと、吸い込まれるような奇跡を描いて到来した。
『護るもの』は、『夢』うつつにそれを受け入れた。
直後、『護るもの』の全身が煮えたぎるような熱気につつまれ、彼は声なき慟哭を発しながら――静かに、狂っていった…――。
――そして、『彼女』は闇の中ではっと目を開けた。
■
「…」
彼女――ティナ・カルナウスは、ため息をついて身を起こした。
静かに眠る森の最中。
闇に蝕まれそうな深夜。
焚き火が空ろな赤をくゆらせ、吐き出す息が白いほどの冷気をほんのりと温めている。
まるで、『未来』を見せるかのような…。そんな夢を見るのは、初めてのことではない。
しかし、アレントゥム自由市の時といい、得体の知れない夢に眠りを妨げられるのが、最近多い気がする。
(おちおち眠れやしないわねー)
苦笑して、彼女は傍らで寝息をたてる仲間たちを、やれやれといった風にみやった。
焚き火の回りを取り囲むように、少年少女が丸まっている。
一人――茶色のふさふさの髪を投げ出して大の字に転がった少年は、ティナの相棒クルス。むにゃむにゃ言いながら、古今東西あらゆる食べ物の名前を寝言で幸せそうに呟いている。もう一人、長い黒髪を身体に巻きつけるようにして、丸まって寝息を立てる少女は――世界随一の大国『ミルガウス』の第二王位継承者、アベル・シル・セレステア・ミルガウスその人だった。――といっても、ティナには、コレのどこが王女なんだという印象が会ってこの方、今まで拭えていないのが正直なところではあるのだけれど。
そこまで闇目に見取って、ティナは首をかしげた。
(あれ…?)
ここにいる三人では旅の顔ぶれには一人足りない。
(どこ行っちゃったってのよ…)
紫欄色の目をこすりながら、焚き火を見つめ、呆然と思う。
火の番をすると、起きていたはずなのだが。
本人の代わりのように、彼の『属性』――氷属性の簡単な結界だけを残して、男の姿は忽然と無かった。
「………」
闇は、気を抜いていると蝕まれそうなほど深く、ティナは両肩を抱くように身体を縮めた。
火はやんわりと冷気を温めるが、背後からは何かが迫ってきそうな圧迫感がある。
あの男は、こんな中をどこに行ったのか。
「まったく…しょーがないわね」
気になったら、そのままにはしておけないのは、果たして彼女の長所なのか、それとも短所なのか。
ティナは、またクルスたちのために魔物よけのまじないを簡単に施すと、闇の森に歩き出していた。
しかし、さすがの彼女も、闇の中を息を詰めてこちらを伺い見る、どす黒いけはいには、気付かなかった。
「よし…女だけでいい…、やっちまえ」
彼女が立ち去った後の隙間に潜り込むように、数人の男たちの足音が、草の間で微かに音を響かせていた。
■
昔、狂った『二つ』の戦争があった。
『第一次天地大戦』。
三つの世界のうちの二つ、『天界』と『地界』が、残りの『地上』で激突した。
そしてその結果、天界の長『イオス』と地上の長『カオス』は、相打ちとなり、戦争は三つの世界が分断される形で決着がついた。
三世界の分断の要石『石版』。
天界側の要石は『光の石版』。地界側の要石は『闇の石版』。
二つの石版は、『天』と『地』と『地』の交わる地、聖地と呼ばれる場所で眠ることとなった。
天使たちは、その後戦争の責任を神に問われ、根こそぎ天界追放をされてしまったので、ずっと後に『光の石版』が砕け散ってしまっても、特に問題は起こらなかった。
一方、闇の石版は――人の憎しみや苦しみを快楽とする魔族の棲む、『地界』――改め、『地獄』との境界を果たす闇の石版は、地上で暮らす人にとって、なくてはならない大事なものだった。
しかし、それは、砕け散ってしまう。
一度は、何とか集った。しかし、回収の間に、七つに砕けた欠片の一つ一つに闇の意思が宿り、七君主と呼ばれる大魔族が生まれてしまった。
そして、二度目の石版決壊。
聖地を守護する王国の、スヴェル、ソフィア、そしてフェイといった『シルヴェア』の王位継承者たちを巻き込んで砕け散った七つの石版は、しかし全てが集う前に『何者か』により、持ち去られてしまう。
それは、息子を失った一人の魔法学者の狂気が引き起こした、魔王カオス復活の儀式に使うためだった。
魔法学者――『ダグラス・セントア・ブルグレア』は、自身の身に七君主を宿らせ、魔王を復活させようとした。
その舞台となったアレントゥム自由市は崩壊してしまうが、結果的に土壇場でティナの使った召喚魔法によって、その目論見は一応防げた形になる。
しかし、その時に集まりかけていた七つの欠片は、再びばらばらに砕け散ってしまったのだった。
その罪滅ぼし――と言うわけでもないが、ティナは、今回、聖地を守護するミルガウス王国から、石版を再び集めて欲しいという依頼を受けた。
まずは、全ての事情を説明するために、北の大国ゼルリアに向かうということなのだが…。
「………」
木々が絡まりあい、藍に眠る森の中をティナは進んでいった。
わけあって、向こう一ヶ月彼女お得意の魔法が使えない。ので、いつもなら簡単お手軽に出すことのできる魔法光すら、お預けの状態だった。
月の差し込まない森の中、ほとんど効かない視界も災いして、手や足に枝や草が鋭く当たる。
歩き出してから、焚き火を持ってきたほうが良かったと気付いたが、既におそい。
人を探しに行って自分が迷ってはしょうがないので、木の幹に印をつけながら進む。
適当なところで、帰るつもりだったのだが…。
「あ、…」
闇の向こう、木々の重なり合うそのわずかな隙間から、一瞬の光がティナの目を薙いだ。
目を細め、じっと凝らすと、確かに闇の向こうに光が――おそらく魔法の光がともっている。
ただの獣が魔法を使うはずがないし、野良の下級魔族でも同様。
多分、『彼』に間違いはないわけで。
「…何、やってんのよ」
口の中で小さく呟く。
ティナはその光を頼りに、木々を掻き分けていった。
近づくにつれて、水のせせらぎが耳を撫ぜ、たどり着く頃には、渓流が月に青く浮かんでいるのがはっきりと見えた。
その、川べりの適当な木に背を預け、魔法光に照らされて『彼』が居た。
■
「………」
魔法光の照らす羊皮紙を、男は物憂げに眺めていた。
傍を流れる川の音が、心地よいリズムと鳴って耳をさらっている。
青の瞳は、魔法の光の黄と羊皮紙の褪せた茶を淡々と映し込んでいる。
手にした本は、少しでも乱雑にすれば、ばらばらになってしまいそうに脆い。
紙面に映る、幻想的な魔法光が、持ち主の面を亡羊と照らしていた。
また一ページ。慎重な手つきでめくりながら、彼はぼそりと呟いた。
「どうやら…ゼルリアで間違いはないようだな」
彼が――カイオス・レリュードが、左大臣の権限を唯一使って、ミルガウスから持ち出した古文書だった。
一心に読み進むその視線が、ふっと何かに――森の中から近づいてくる何かのけはいに気付いて、上げられた。
しかし、その正体を悟ると、興味の失せたように再び紙面に戻る。
やがて間近に迫った気配は、聞きなれた声で、聞きなれた言葉を発した。
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