Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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    序章 
* * *
――???



 エメラルドグリーンの波が、幾重にも重なりながら流れていた。
 遥か彼方。陽の光の降り注ぐ海面が、やさしい白に淡く染まっている。
 ふっと横切っていく黒い影は、魚の陰影か。
 気泡が、くゆり、溶けていく。
 時の止まった無音の空間。
 外界から隔絶された、深い海のさらに底。

 それは、緩慢な眠りだった。
 目覚めと眠りの狭間にいるかのような、けだるい境界の、ぎりぎりの琴線。

 彼は、眠り続けていた。
 『護るもの』。
 彼の主から与えられた名を、その胸に抱きかかえて。

 『護るもの』は、眠り続けていた。
 誰も知らぬ、時の止まった海底。
 私の大事なものを、ずっと護っていて欲しい、と。
 彼の主の命じたまま、幾百年もの時を。

 しかし、彼は知らなかった。
 その均衡の、崩壊を。

 『アレントゥム自由市』と呼ばれる、町だった場所で。
 砕け散った、六つの闇の石版の欠片。
 強き力に惹かれ、各地に散らばってしまった…

 流星のごとく、その一つが彼に向かって突き進んでくるのを。
 『護るもの』は、知るよしもなかった。


――北セドリア海 海上



 心地よい波の音と、そのゆらめきが、簡素な船室の中にまで響いていた。
 ベッドが一つ。
 椅子が一つ。
 最低限のものだけが持ち込まれた狭い部屋に、黙りこくった人間が二人。
 一人はベッドに横たわって、傍らを見上げる、五才ほどの少年。そして、もう一人はその藍色の視線を受け止めながらも淡々と自身の手に持った本に目を落とした、ローブの青年だった。
「………」
「………」
 無言の膠着が、果てしなく時を刻んでいく。
 先に動いたのは、ベッドの少年の方だった。
「…ねぇ」
「…」
 途切れそうな言葉で、微かに口を動かす。
 ローブが聞き取って顔を上げる。
 その視線――が、布越しに少年を捉えた…と思われた瞬間、
「!」
 少年は、びくりと身体をふるわせた。
 銀のさらりとした髪が、白いシーツの上を滑る。
「…別に、取って食べたりしない」
 ローブが、言って、再び、沈黙。
 沈黙の後、少年が話しかけ、視線が合うと思うや否や、再び沈黙が訪れる。
 ――これが、この一ヶ月、この部屋で行われたやりとりの、ほとんど全てだった。

 ――混血児。
 と、呼ばれる一族がいる。
 第一次天地大戦と呼ばれた、歴史上最大最悪の戦争が終わった後、その戦争の責任を神に問われ、天使たちは根こそぎ天界を追放され、地上をさまようこととなった。
 しかし、元々清浄な空気の中でしか生きられない彼らは、地上で次々と命を落としていった。
 そんな彼らを哀れみ、自身の身体に『憑く』ことを許した人間たちが居た。
 『混血児』。
 その証として、銀の髪と藍の瞳を持つもの――。
 そして、彼らは、第一次天地大戦で非道を働いた天使に対する、人々の恨みまでも、背負っていく事になる…――。

「…」
 本に目を落としているようで、ローブはちらりと子供の方に視線を当てた。
 アレントゥム自由市の、大通りの真ん中で、白昼堂々と彼が人間達に曝されたときのことが、なんとなく蘇る。
 動かない子供に、笑いながら刃物を振り上げ続けた大人たち…――。
 それが、混血児に対する人間の、度を越した反応ではないが、その分、彼ら混血児に『害をなさない』人間の存在が、不可解でしょうがないのだろう。
 ゼルリアの将軍達が乗船しているため、部屋から出してやることができないが、子供もそれに異を唱える事もない。
 何かを言いかけては、黙り、黙っては、意を決したように、何かを呟く。
 とりあえず、海賊たちが交代で傍についてはいるのだが…――

 こんこん、と。
 扉を叩く音がして、ローブは顔を上げ、子供は身を竦ませた。
 開いた扉の向こうから、ひょっことり顔を覗かせたのは、船の女料理人だった。
「どう? 調子は」
「相変わらず」
 名前さえ聞けてない、と感情のこもらない声が淡々と返事を返す。
 女理人――ジェーンは、苦笑した。
「そう。なんか、誰かを思い出すわね」
「…」
「上でご飯食べて来なさいよ。あたしが見てるから」
「…また、りんご」
「文句言わない」
 ぼそりと呟いた青年は、特に逆らわずに、さっさと部屋を後にする。
 階段の先には、にぎやかな談笑と、甘いりんごの香りが待っていた。



 ふとしたことから、アレントゥム自由市を訪れていた、船長のロイド率いる八人の海賊たち。
 ゼルリア国王の密命を受けたという将軍たちと、旧知の彼らはふとしたことで再会を果たし、その彼らから世界を分断するという闇の石版が盗まれたという話を聞いた直後、しかし、そこで街の崩壊や、石版の決壊に巻き込まれてしまう。
 運良く――本当に、『運』が味方してくれたとしか、言い様がないほどの、惨状だった――難を逃れた彼らは、大破した海賊船を修理する間、『船長命令』によって、崩壊した街の救助活動にあたった。
 なぜに海賊が、よりによって船長命令で、人助けなどやる必要があったのかは、ひとえに『船長』の性格に拠るところのものであったが、滞在期間一ヶ月ほどの間、いそしんだ甲斐あって、彼らがアレントゥムを去るときには、町人の盛大な見送りと、大量のりんごが送られたのであった。

おかげで、ここ数日間、船上では『りんご祭り』が行われている。



「おー、副船長、来たか。食え食え」
 潮風と明るい陽の光、そして聞きなれた『船長』の声が、階段を上がり切ったローブの青年を出迎える。
 赤に透ける髪を風にばさばさとはためかせ、日焼けした若い顔に、人懐こい笑みを浮かべたのは、海賊船の主、剛剣の海賊として名を轟かせる、ロイド・ラヴェンだった。
 二つ名の割りに、邪気も裏表もない仕種で、机の上のりんごを副船長と呼んだローブに放る。
 受け取った青年は、しかし皆の輪には加わらず、さっさと船べりの方に歩み去る。

「だー、あいっかわらず、ヤなヤローだな。ありがとうぐらい、言えっての」
 背後で、顔をしかめているのは、ここ十数日ですっかりなじみになってしまった、黒髪のゼルリア将軍の声。
「まあまあ、いーじゃねっかよぅ、そう怒るなって」
 取り成すロイドの声は、いつも通りに弾んでいる。
「お、それより見てみろよ。…――妾将軍(めかけしょうぐん)の宝の海域に来たぞ」
「妾将軍の宝の海域?」
「そ。ゼルリアを建国した将軍さんだよな。彼女が、自分の死に際に、海の底にどでかい宝を落としたんだと。それが何なのかはわかんねーけど」
 宝探しは、海賊のロマンだよなー。と締めくくったロイドは、手のりんごを口に運ぶ。
 しゃりっと心地よい音が船に響いた。
「へー」
 黒髪の将軍――アルフェリアは、そうとだけ相槌を打った。
「ここを過ぎれば、ゼルリアに帰還だ。すっかり長くかかっちまったなー」
 だはは、と笑った海賊の船長の声を背後にしながら、副船長は、船べりから波間を見下ろした。
 白い泡の交じる宝石色のグリーンが、鮮やかに広がっていた。
 昔、伝説とまで言われた一人の女性が、自分の宝を託した場所。
 淡い潮色に跳ね返る冬の太陽に目を細め、彼はふっとローブの下の顔を水平線の彼方に遣る。
 光の彼方――視線のずっと向こう側を、微かに船の陰影が過ぎる。
 影の形から判断すると、ゼルリアの巡視船か。
 今から航海に向かうのだろうか。
 いい風がつかまると良いが。
 そして、その影の更に果て。
 船の行く手、空と海の境界の間に、そびえたつゼルリアの港町の陰影を見た気がした。
「………」
 彼は、手の中のりんごを弄ぶと、やがて白い歯に当てた。
 北の国の果物は、しゃりっと心地よい音を立てた。

* * *
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