「…カイオス」
ティナは、その名を口にする。
金の髪を今は後ろに流した青年は、青色の、しかしどこか冷めた目をこちらに遣った。
木々を掻き分けてそちらに近づいてくる気配は当然感じていたはずなのだが、特に気にしていた様子はない。
「何か?」
端正な顔の相好を崩すことなく応じた、ミルガウス国の左大臣――今は、官位を剥奪されているらしいが――は、表情の読めない声を返す。
ティナは、目を見開いた。
こんな真夜中に闇の中で、そっちこそ何をしているのか。
「探しに来たのよ。姿、見えなかったから」
「…」
男は、ため息をついた。
余計なお世話だと言わんばかりの態度に、ティナは唇を噛む。
――目の前の青年が、七君主が魔王を復活させるために、作り出した『分身』として、ミルガウスの石版を盗み出し、ティナと対峙したのは記憶に新しい。結局ティナとともに旅に加わることになったのだが、淡白な性格といちいち気に障るような態度はどうしようもなかった。
この男とは、会った時からウマが合わない気がする。
「ちょっと、せっかく人がわざわざ…」
「頼んだ覚えはない」
言外にさっさと帰れと匂わせて、彼は一刀両断に伏す。
深々と闇に溶けていく言葉は、ティナの二の句を封じた。
言葉に詰まった彼女は、その代わり、ふと青年の手元に眼を遣る。
随分と年季を感じさせる本が、左大臣という役職とは随分無縁の、無骨な手の中に納まっていた。
ひょっとして、この本を読むためにわざわざ焚き火の傍を離れたのだろうか。
好奇心が先に立って、ティナはふっとそれに手を伸ばしていた。
「ねえ、それ…」
瞬間、ばしりと破裂音がして衝撃が指先から肘を伝い、肩まで一気に駆け抜けた。
「え…」
一瞬、何をされたのか分からず、ティナは呆然と動きを止めた。
ただ、動悸だけが激しかった。
弾き飛ばされた手の甲が、じん、と熱い。
だんだんと今、何が起こったのかはっきりと自覚して、さすがにティナは紫欄の瞳で相手をにらみつめた。
「ちょっと、何よ。別にそんな、すること…」
「関係ない。触るな」
放たれたのは、ぞっとするほど温度の無い言葉。
無情に真っ向から冷水を浴びせられたようだった。
ティナは、拳をぎゅっと握った。
胸中には、言いようのない熱いものがこみ上げていた。
言葉にできないほどの、その思いをかみ締めて、ティナは深く息を吸って、吐き出すと、相手を見据えて低く言った。
「――悪かったわね。帰る」
ほとんど言い捨てるように放つと、返事も聞かずに踵を返す。
頭の中に、色々な思いが渦巻いていて、自分でも、怒りなのか落胆なのか分からなかった。
ただ、カイオスに拒絶されたこと、そして、それが自分で思っていた以上にショックだったこと――その事実だけが、彼女をしめつけていた。
――そして。
「うっそ」
小鳥がさえずり、朝日が木々の間からきらきらと零れ落ちるすがすがしい夜明け。
「まよっ…ちゃった…」
ティナはぽりぽりと頬をかいた。
ぐるぐると色々考えながら、明かりも出さずに、森の中を歩き回っていたのが災いしたのか。
いつまで経っても、昨日の場所に戻ることができなかった。
日の位置からゼルリアの大体の位置は分かるが、仲間たちの元に戻れるかといったら、その自信は皆無だった。
「…ま、まあ…とりあえず、ゼルリアに行ってみようかしら、ね…」
合流できるとしたら、こんな森の中でより、ゼルリアの王都の方がずっと確率が高いだろう。
ティナは大体の位置を測ると、意を決して歩き出した。
■
一方その頃。
「あれー、ティナとアベルがいないよー!?」
「………」
さわやかな朝日に祝福されて、少年の声が無駄に明るく響き渡る。
茶色の髪をふさふさと振って、黒い大きな瞳で今一人を見上げた少年は、うにゃっと小首を傾げてみせた。
「どこいったんだろね」
「…」
話しかけられた方は、すぐには応えない。
しかし、視線で見下ろすと青の目を細めて淡々とした様子で逆に聞いた。
「お前…王女が消えたのに、気付かなかったのか」
「うー? 昨日、オレは夢の中で世界のグルメと踊ってたから、それどころじゃなかったよ」
「…」
聞いた俺が間違っていた、とばかりにカイオスは視線を戻す。
あの女の方は、本気で迷ったか、機嫌を損ねて姿を見せないだけだと見当は付くし、最悪合流できなくても自分の身くらいは自分で守るだろう。
問題は、王女の方か。
彼女から目を離したのは、自分の落ち度としか言いようが無いが、起こってしまったことはしょうがない。
だからと言って、闇雲に近辺を探したところでそれが最善の方法とはいえないだろう。
あの娘が自分で道に迷った可能性も捨て切れなかったが、そうでなかった場合は…――。
「………」
考えがまとまらず、カイオスは苛立たしげに、眉をひそめた。
夜の睡眠を満足に取ってない頭では、さすがの彼であっても思考に限界があった。
その時、服の裾をついと引っ張る手がある。
視線を放ると、少年が真剣な眼差しを向けていた。
「ねえ、これ」
「何だ、ガキ」
「ガキじゃなくって、オレはクルスだよ」
頬を膨らませての抗議には頓着せず、彼は少年の示したものに視線を走らせた。
その視線が、わずかに細められる。
「…」
それは、王女が寝ていた付近に転がっており、膝をついて視線の高さを変えると、日の光をちらりと反射した。
小さな…紋章。
盗賊団が、仲間の結束に好んで使う、ピンの類だった。
「ねぇ、これって、盗賊のだよね。オレが寝てる間に、ティナとアベルは盗賊に連れて行かれちゃったってコトなのかな? じゃあ、追っていったほうがいいよね? どこにあるんだろうね、アジト…」
「…ザラー盗賊団」
「…へ?」
いきなり脈絡のない言葉を放たれて、理解が付いてこなかったのだろう――クルスが、その黒い瞳をいっぱいに見開く傍で、カイオスは、淡々と続けた。
「人身売買を生業とする集団だ。確か、隠れ家がこの近くにあった」
「…物知りなんだねぇ」
「………」
すごいや、カイオスは何でも知っているんだ! と目を輝かせたクルスには構わず、青年はさっさと歩き始める。
「あ、ちょっと待ってよう」
その歩調に付いていくために小走りなった少年を背後に、カイオスは、ちらりと昨夜のティナとのやりとりを思い出した。
何かが頭を掠めたが、無視して先を急いだ。
■
目が覚めると、そこは見知らぬ小汚い空間でした。
「あれ〜? わたしは一体…」
むくりと上体を起こし、身体にまとわりつく長い黒髪を整えながら、アベルはこしこしと目をこすった。
確か、昨日は森の中で野宿をしたはずなのだが。
周りには、立ちふさがる木々も、焚き火の跡も、仲間たちの姿も無かった。
土臭い上に狭くて息苦しい部屋、目の前には脱走を防ぐためだろうか…――鉄格子がはまっている。
まるで、『誰か』に連れられてきて、『どこか』に閉じ込められた、みたいな。
こんな状況、確か近々最近体験したばかりのような気がするのだが。
「またですかー」
ふぅっと息をついてアベルは肩を竦めた。
この場合は、カイオスの落ち度ということになるのだろうか。
「減給ですかね〜」
にっこりと破顔したところで、その笑みが、止まった。
「………」
明るい笑顔が、寂しげな苦笑に変わる。
「私は、足手まといですね」
魔物と戦えもしないし、眠ったところを気も付かないうちに何者かにさらわれる。
自分を守る手段を持たないアベルは、結局のところ旅のお荷物にしかならない。
それを承知で、父親であるミルガウス国王が今回の旅にアベルも同行するよう言ったのは、多分、左大臣を――カイオス・レリュードを繋ぎとめる手段の一つにしようとしたためだろう。
自分がいれば、カイオスも、ミルガウスに戻ってこざるを得ない…。
アベルは、二年前ミルガウスにぼろぼの姿で転がり込んできた『カイオス・レリュード』を発見し、城に連れて帰った――要するに、命の恩人だった。
いくらカイオスが淡白な性格でも、そういう少女を置いて、消えるようなまねはしないだろう、と。
ドゥレヴァはおそらく、そう考えた。
所詮は、その程度なのだ。
自分など。
「…大した、王位第二継承者もいたものですね…」
カオラナがどう画策しようと、自分は永遠に王位『第二』継承者なのだという確信めいた予感があった。
アベルは目を伏せると、物憂げな思考に終止符を打とうと、ひとつ、頭を振る。
その時、かちゃりと音がして、部屋の一部が切り取られたかと思うと、その向こうから筋骨隆々とした暑苦しいムサ男が出現した。
鉄格子のすぐそばまでのっしのっしと歩いてくる。
「!!」
アベルは身体を突き抜けた衝撃に、頬に手を当てて、のけぞった。
「………!!」
言葉もない王女に対し、それを年端の行かない少女の、自分への恐怖と勘違いしたのか、小山のような熊男は、汗臭い邪悪な微笑を少女に見舞うと、もっさりとした胸毛もたくましく野太く哄笑した。
張り付くように、顔を横断した大きな傷跡が、痛々しく歪む。
「だははははは!! お嬢ちゃん、始めましてだなあ!! おれぁザラー。身売りを生業にしている盗賊団のお頭さぁ!!」
アベルはほろほろと涙ぐむと、よよよと親指を噛んだ。
「顔が濃ゆ過ぎです!!」
もしも、ティナがこの場に居たならば、半眼になって、『アベル、それ何か違うから』とつっこんだことだろう。
クルスがいたなら、『うんうん確かに不味そうだよねえ。オレだって、やだよ』と同情してくれたに違いない。
カイオスならば、多分黙って相手を瞬殺しただろう。
しかし悲しきかな、その場に、少女の救いが現れることはなかった。
|