Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  第一章 北の国へ-それぞれの旅路- 
* * *
「な、いきなり人の顔を見るなり顔が濃ゆいってのは、どういう了見でいっ!?」
 アベルの決死の絶叫は、案の定相手の男に聞こえてしまったらしい。
 ずずいっと迫ってくる、脂ぎった顔に対し、アベルはかさかさと後ずさりすると、鉄格子からできうる限り離れた向かいの壁に背中をびたりとくっつけた。
「いやです!! あなたが半径一キロメートル以内に近づくと、わたし、窒息死します!!」
「一キロメートルってなぁ…。無理だろう、嬢ちゃん」
 アベルのあまりの反応に、男の方が呆れたらしい。
 厚い唇をゆがめて、困ったように、髪をぼりぼりと掻く。
 指の間から白いふけが零れて、アベルは鳥肌が立つような心地で身体を抱きしめた。
(ひ、ひいぃいいい〜)
 いやだ、いや過ぎる。
 ふるふると頭を振って、縮こまってしまった少女を持て余すように眺めた後、ザラーと名乗った熊男はため息混じりに吐き出した。
「嬢ちゃん、今はまだいいほうさ。今からもっとつらいとこに行くんだぜぇ?」
「ふ…ふぇ…」
 恐る恐る視線を向けると、熊は自分の顔の傷を掻くような仕種をしてから、続けた。
「今から俺たちは、あんたを…――ま、実際はお嬢ちゃんみたいな子供がいっぱいいるんだけどな…それをアクアヴェイルに売りに行くんだ。一緒に居たガキと違って、あんたは特に高く売れそうだからな。ま、せいぜい休んどくこった」
「………」
 なみだ目のアベルをちらりと一瞥した後、男はのっしのっしと立ち去っていった。
 あの言い方だと、一緒に寝ていたティナやクルス、そしてカイオスは、連れられてきていないということか。
 まあ、あの三人ならば何か起こったときには自分の身は自分で守るのだろうが。
 しかし、だとしたら、むしろなぜアベルだけが連れてこられたのだろうか。
 まさか、見捨てられてしまったのか。
「わたしのよーな美人は、薄命な宿命なのですね…」
 一人残されて、ぽつりと口にしてみるが、のんきに構えていられるような状況ではないことくらいは、アベルにも見当が付いた。
「…だからって、どうしようもないじゃないですか」
 小さく呟いて、彼女は一つ息を吐いた。
 果たして、ティナたちが彼女を見つけてくれるのは、いつになるのか。
 ここがどこだかも分からないが、そう簡単に見つかるようなところに閉じ込められているわけはないだろう。
 ティナたちが来てくれるのが先か。それとも、売られてしまう方が先か。
「………」
 アベルはあっさりと状況に見切りをつけた。
「…売られてしまうんですかーわたし」
 とんだ王位第二継承者もいたもんですね、と。
 少女は半ばあきらめの境地で呟いた。


 迷ってしまった。

「………」
 ティナはうーんと腕を組んだ。
 地図で見た限りでは、あまり大きくない森だったはずなのだが、歩き始めてこの方大体一時間、木々が途切れる様子は全くない。
 紫欄の瞳に映る太陽は、まだ優しい朝日を地上に注いでいたが、だんだんと、しかし確実に天頂に昇っていくのが、見上げるたびにはっきりと見取れる。
 ここらへんで、方向を修正した方がいいか。
「しっかし…目印もないし」
 さて、どうしたものか。
 その時、彼女の耳が木々のこずえのざわめきではない、何か別の音を捉えた。
「!」
 一瞬、クルスたちかとも思うが、それが女の悲鳴だと悟った瞬間、声の方へばっと身体を向けた。
(もしかして、アベル!?)
 考えながらも、一目散に駆け出す。
 枝や草に手足を引っかかれながらも、その眼は鋭く前方を見据えていた。
「…」
 しばらくすると、川のせせらぎが聞こえてきた。
 昨日、カイオスとかち合った小川か。
 自分の呼吸の音を聞きながら、そう見当をつける。
 やがて光が目前に迫り、ばっと開けた視界に、朝日に光り輝く水の流れと、森に棲む下級魔族に迫られる、若い女の姿が映った。


「ちっ」
 ティナは舌打ちすると、残りの距離を一気に詰める。
「待ちなさい!!」
 と言ったところで、下級魔族に人語が通じるはずも無かったが、とりあえず魔物の――どうやら、野良のゴブリンのようだ――注意をこちらに向けることだけは成功した。
 狙いをこちらに定め、鋭いツメを振り上げた野良ゴブリンの一撃は、軽く身を伏せてかわし、ティナは軸足に力を込めて地を踏みしめると、一気に懐に滑り込み、抜き打ちざまの一撃を鋭く見舞った。
「はっ!」
 その一閃が、致命傷だった。
 野良の魔族は、戦闘能力を身につけていない普通の人々にとってこそ脅威だが、ティナ程度の腕前があれば大体この一撃でカタがつく。
 実際、黒い体液をしぶきながら絶命したゴブリンの末路を、一応見届けてから、ティナは刃の血を拭った。
 そして、川べりに座り込んだ女性の方を覗き込む。
「大丈夫?」
 聞いてから気付いたのだが、助けた女性は、ティナよりも大分年上だったようだ。
 二十代の半ばごろだろうか。
 臨月も近いのだうか、腹部が張っているのがゆったりとした服の上からでも分かった。
 水汲みをしに来ていたのだろう。傍には水桶が転がり、半分ほど小川に浸っている。
「ええ…ありがとうございました」
 まだ息は荒いながら、気丈にも、微かにこわばった笑み返してくれたその表情は、穏やかな優しさに満ちていた。
 黒い眼に宿る聡明な光は、こんな森に暮らしているだろう人間には、そぐわないようにも思える。
 青白い顔に汗をかき、長い黒髪を張り付かせ、まだ立ち上がれない彼女に手を貸しながら、ティナは自然とその言葉を紡いでいた。
「よかったら…村まで送って、いきますけど」
「そんな…」
 一瞬、言いかけて、
「お願いします。ぜひ、うちで服を清めていってください」
 やっと立ち上がった彼女は、ティナの全身を見て、そう言ってくれた。
「…あ」
 ゴブリンの血にまみれた自分の姿に、その時初めて思い至って、ティナは急にどこか恥ずかしくなった。
 と、同時にずっと張り詰めていた気が抜けたのか、昨夜から歩き通しで何も口にしてない腹が、切ない音を出す。
 これはもう、ごまかしようもない。
「………あー」
「ふふ…どうぞ、朝食も召し上がっていって」
 くすりと微笑んだ女性の申し出に、ティナは頬を真っ赤に染めて、頷いた。

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