女性を助けた川沿いに沿って、少し歩いた後、再び森の中に入る。
短い獣道を抜けると、そこに一軒の家が立っていた。
ちょっとした野菜や、――鼻をくすぐる匂いからすると薬草だろうか、そんな植物を育てた畑や、小さな井戸、そして家畜小屋を従えたこじんまりした住居。
ティナはそこまで視界に納めてから、くるりと周りを見回してみた。
家屋は一つきり。
こんな森の中に、孤立しているなんて、世捨て人か何かなのだろうか。
(ものすごく頑固なおじいさんとかでてきたりして)
白髪白髭、しわ塗れの顔で瞼を見開いて、喝っっ。とかやるんだろーな、と勝手に想像を膨らませる。
「どうぞ。こちらに」
ティナを案内してくれた女性――イリスさんと言った――が導くように先に立った、時。
がちゃりと家の扉が開いて、案の定、初老の老人が出てきた。
格好からすると、きこりだろうか。
薬草の束を片手にしている。
(おお)
これはいよいよそれっぽくなって来た。
勝手に盛りあがるティナを横に、イリスはにっこりと老人に笑いかけた。
「あら、ギムルさん。こんにちは」
「おお、イリスさん。またジェレイドにお世話になりに来ましたよ。薬草をこんなにもらって…。はてさて…そちらの方は」
二人は随分と他人行儀な挨拶を交わす。
そのやりとりに、ティナは首をかしげた。
イリスさんと同居しているらしい世捨て人にしては、何かしら不自然じゃないか?
一方の二人は、ティナを置いて会話を進めていく。
「ティナさんと言って、旅の方なんですけれど、川に行ったときに魔物に襲われたところを、助けていただいたの」
「おお…それは…。おめでたが近いんじゃから、用心せんとな。ジェレイドが卒倒するぞ」
「ええ」
「では、わしはこれで失礼するよ」
軽く頭を下げて、ティナには目礼を送ると、老人は森の中に去っていった。
「…えーと」
その無骨な背中を見送りながら、ティナはぽりぽりと頬を掻く。
「近隣の村の方が時々、薬草を求めにいらっしゃるんです。それで何とか生活しています」
イリスさんが説明してくれて、頷く。
ということは、あれは世捨て人じゃないのか。
おそらく、今の二人の会話に登場した、『ジェレイド』という人間が、そうなのだろうが。
「おー、何か話し声がすると思ったら、帰ってたのか。あ? そちらのお嬢さんは?」
老人が先ほどくぐってきた扉の奥から、声がした。
振り返ったティナは、目を瞬く。
ぼさぼさの黒い髪を気だるげにかきあげ、ぼろぼろの服に袖を通した若い男がいた。
イリスと年は変わらないだろう。
彼女と同じく、そのいでたちの中で黒色の瞳だけが、場違いに聡明な光を放っている。
「あなた」
イリスが微笑んで、ティナは顔をそちらに向けた。
あなた。
では、この男がイリスの同居人…――たぶん夫で、しかもおそらく、世捨て人の。
「こちらはティナさん。川で魔物に襲われたところを助けていただいたの」
「お前気をつけろって、あれほど…!! ま、まあ何だ、こんなとこに恩人立たせとくのもなんだしな。オレは、ジェレイド。ま、上がってくれや」
言葉の後半をティナの方に差し向け、くっと親指で中を指すと、男はにやりと相好を崩した。
■
「改めて、オレはジェレイド。妻を助けてくれたそうだな。ありがとう」
質素ながらも温かい家の中には、薬草の香りが満ちていた。
通されたまま机についたティナの向かいに腰を下ろし、男はそう切り出した。
その向こう…台所のようなところでは、イリスがお茶の準備をしている。
服についたゴブリンの血のりについては、幸い、汚れたのは一番上の外套だけだったので、ティナはそれをイリスに促されるままに水で洗ってもらった。今は外に干しているが、日も暖かくなってきたので早めに乾くだろう。
「いえ、そんな大したことしたわけじゃ」
ティナは軽く手を振った。
そうしながら、じっと男の方を観察してみる。
椅子に身体を預けるようにして、机の上の果物を頬張った姿は、世を捨てるには随分と若く、世情にまみれている印象を受けた。
しかし、ふと合った視線は、胸中を見透かされそうな深さを湛えていて、ティナは思わず目を逸らす。
闊達に笑って、男は切り出した。
その表情は、一転して子供のような好奇心に満ちている。
「はは…それにしてもあんた、随分ときれいな色の目をしているな」
「え」
そのことを面と向かって言われるのは、そう多いことではなかったので、ティナはぱちぱちと瞬く。
「北方の民族――でもないな。西の方の出身か? それとも、流入してきた異民族の一派とか。いや、しっかし異民族は確か、碧眼だからな…」
「いや…あの」
ティナは、正直に言葉に詰まる。
嘘は言いたくないし、かと言って、好奇心をむき出しにした相手に対して、おろそかな態度をきとることもできなかった。
「ん?」
覗きこんできた相手に対して、いよいよ困り果てた、時。
「あなた…そんな風に迫られたら、困ってしまいますよ」
助けは、テーブルにお茶を運んできたイリスから出された。
やんわりとした空気に、はっと我に返ったように、ジェレイドは頭をかく。
「あー、いや、すまねえ。つい」
「あ、いえ…」
手を振ったティナの目の前に、イリスがお茶と簡単な食事を置いてくれた。
ほかほかと湯気を立てるスープと、やわらかそうなパンが、一気に食欲をそそる。
「おいしそう…」
「どうぞ、召し上がって」
「すいません、いただきます」
手を合わせて、ティナは素直に好意に甘えることにした。
口に含んだスープは、ほどよい温かさで口の中に広がる。
すっかり無言で食事を進めるティナを、向かいのジェレイドと、彼の隣に腰掛けたイリスが、やわらかい雰囲気で見守る。
「まだお若いのに一人旅なんて…。大変ですね」
食事の合間に、イリスがさしはさんできて、ティナは視線をあげた。
「あ。いや一人ってワケじゃ…。今ちょっと仲間とはぐれちゃってて」
イリスは、夫と視線を交わしてから、そうですか、とだけ言った。
「最近、闇の石版がくだけちって…魔物たちが活発になってやがるからな。大変だろ」
「…」
「ミルガウスは何やってんだ」
はき捨てるように呟いたジェレイドは、忌々しげに息を吐いた。
そこには、ただの憤りだけではない、やるせなさと己の無力を悔いるような、そんな色がちらちらと覗いていた。
「あの…」
おそるおそる話しかけると、
「あー、いやすまねー。ちっと思うところがあってな」
苦笑してとりなしたジェレイドには、最初の余裕が戻っていた。
「あたし…石版を集めるために、旅してるんです」
「…へえ」
ふと切り出したティナに対して、男の視線が面白そうに細められる。
そこには、自分の胸中を見透かされそうな、あの光があった。
構わずに、紡ぐ。
「アレントゥムで石版が、砕け散ったのは、――あたしのせい、でもあるから」
「………」
小さく呟いて、付け足すように続けた。
「あいつも…、やっぱそれで、あたしのこと責めてたのかな…」
唇を噛んで、下を向いた。
握り締めた拳が微かに震える。
昨日のやりとり、冷たい言葉、払われた手。
どうしても、もやもやとした気持ちが晴れない。
「…」
「…おーい、大丈夫か?」
「お茶のお代わり、つぎますね」
若い夫婦が、慌てたように取り成してくれようとしてくれたのが分かった。
ティナは無理やり顔をあげて、なんとか表情をとりつくろう。
「すいません、ちょっと…仲間と、喧嘩しちゃって」
「それで、一人に?」
「まあ、そんなところです」
イリスが満たしてくれたコップを、両手で包むようにして、口に運んだ。
優しい熱と、薬草の香りが口の中に広がる。
ほっと息が漏れた。少し落ち着いた気がした。
「なあ…ちょっと聞いてみるが、あんたは石版が砕け散ったとき、アレントゥムにいたんかい?」
さらりとジェレイドに問われて、ティナは軽く頷いた。
「はあ、まあ」
アレントゥムにいた、どころか、石版砕け散らせた不死鳥呼び出した、張本人だったりするのだが。
そんなティナを、目を細めて眺め、ジェレイドは唇をゆがめる。
「在る文献にな。ちょっと面白いことが書いてあったんだよ」
「へ?」
「石版は『これから』三度砕け散る。三度目の決壊には、七君主の手が絡む。しかし世界は、時の女神の力を持つ人間によって、一度は守られる」
「…え」
ティナはどきりとした。
そんな彼女の様子に気付いているのか、もしくは気付かないふりをしているのか…――彼は、本心の読めない不敵な笑いを浮かべた。
「やけくそもいいところの、『予言の書』だよ。もちろん誰それ構わず見ることはおろか、触れることすらできない、『禁断の書』ってヤツ、な」
「でも…じゃあ、どうしてあなたは内容を知ってるんですか」
「そりゃ、その禁を破ったからだよ。で、国を追放されちまったってわけ」
軽く伸びをして、首を回す。
「さって…禁断の中身を見たのはいいが…。真実のほどは、どーなんだかな」
「………」
この男は一体何者なのか。
世情にまみれた…というよりも、随分と精通した様子。
ふとした仕種で、表れる教養の深さ。
禁断の――しかも、予言を記した書を紐といて、国を追われた…、ある意味、犯罪者といってもいいのかも知れない。
だが、男のまとう雰囲気や、イリスの優しさは、とてもそういった暗い部分を隠し持っているようには、見えなかった。
たとえば、ちょっとした好奇心で、禁じられたおもちゃの箱を開けてしまい、しかられた、子供のような。
その一方で、油断を見せない黒い瞳で、ティナを貫いてみせる。
正体を、つかませない。
息を詰めた彼女の視線の先で、ジェレイドはふっと我に返ったように瞬くと、ぼりぼりと髪をかいた。
「あー、すまねーな。しゃべりすきだ。今の忘れてくれ」
「…」
「あ、スープお代わりでも食うか? イリスのスープは格別だろ?」
にやりと笑って続けた彼の表情からは、すでに先ほどの暗い影のようなものは、すっかりと消えていた。
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