――デライザーグ『市街』
どんな町でも、表の華があれば、裏の毒もまた存在する。
表の華やかさが、明るく、美しければ美しいほど、それが抱え込む裏の暗闇も深く、濃くなっていくものかも知れない。
天の眩しすぎる太陽は、地上に濃すぎる影を落とす。
北の軍事大国ゼルリアも、例外ではなかった。
日も満足に差さない、裏路地の一角を、巨大な体躯を持つ男と、小柄な少女が歩いている。
最も、歩いている、というよりも、男が少女を引っ張っている、といった方が正確なところだったが。
「ほら、とっとと、歩きな。お嬢ちゃん」
「言われなくっても、歩きますよ。だから、その脂ぎった手を離してください」
「ったく…いつまでも威勢のいい小娘だ…。ここでオレの好きにしてやってもいーんだぜ」
「私をここで好きにしたら、価値が下がるんじゃないんですか? 高く売るんでしょ?」
「威勢だけじゃなくて、頭もいいお嬢ちゃんだぜ」
人を売ることを生業とする盗賊団のお頭――ザラーと捕らわれの王女アベルだった。
十数日前――捕らわれたアジトに仲間たちが助けに来てくれたときには、期待と喜びに胸が高鳴ったが、その後、一向にその気配がないままゼルリアに着いてしまった今、彼女は軽く暗黒に支配されかけていた。
とりあえず、こんな脂ぎった人間と面を向かい合わせて幾年月。
窒息死しなかった自分が、ちょっと眩しい。
(ふ。人生って何てはかないんでしょう)
ほろりと泣いているうちに、いつの間にかいくつもの角を曲がり、足元が良く見えないほど影が濃い場所に立っていた。
「あの…ここって」
「今から人買いの斡旋をしてもらうのさ。ここで、お別れだなお嬢ちゃん。いよいよ、オレも子守から開放される」
あー、難儀だったぜ。と聞こえよがしに一人ごちた。
ぺろりと厚い唇を舌で嘗めとる。
にやにやとした瞳に見下ろされて、アベルは鳥肌が立った。
人間を――アベルを『モノ』としてしか見ない、残酷な光を宿した瞳。
そして、アベルはそれを――そこにこめられた侮蔑の意味を悟った。
悟って、しまった。
身体を硬くしての抵抗もむなしく、彼女は裏通りに立ち並ぶ扉一つの、その向こうに押し込められようとする。
ここで、終わり。
多分、ここから一度も外に出してもらえないまま、船に乗せられてみたこともない異国に送られてしまうのだ。
「い…いや…」
アベルは、顔をゆがめた。
ここまで、どこか奇跡を信じていた。
『誰か』が、アベルを助けてくれるのだ、と。
ティナやクルスや、――そして、カイオスが、自分を必ず守ってくれると。
守られた旅だと思っていた。
外の世界を、馬車越しに流れる景色のようなものだと思って、構えていた。
油断していた。
嘗め切っていた。
その報いが、――今アベルに全て降りかかろうとしている。
人売りにさらわれ。
誰の助けもなく。
奇跡など起こることもなく。
――売られる。
そして、おそらくこんなこと、『外の世界』では決して珍しいことではないのだ。
ティナも、クルスも、こんな世界を生き抜いてきた。
(私…)
城の中で、のうのうと生きていた自分の愚かさを、天が笑っているのか。
だが、これから自分の身に起ころうとしていること。
心のどこかで絶対に拒絶をしている自分がいた。
無駄かも知れない。
無謀かも、知れない。
だがアベルは、最後のあがきとばかりに、男の手を振り解くと、一目散に駆け出していた。
「助けて!! 助けてください!!」
スカートが足に絡まる。
思わずつんのめったところを、後ろからいきおいよく飛びつかれて、地面に引きずり倒された。
「このガキ、いい加減におとなしく…!!」
「たすけてぇええ!!」
髪をもの凄い力で引っ張られ、口をふさがれながらも、アベルはやめなかった。
逃れようとした。
男の手から。
抗いようもない――これから待ち受けるだろう、彼女の『未来』から。
声を上げ続ければ、誰かが助けてくれるかもしれない。
身体を振りほどき続ければ、いつかは逃げられるかもしれない。
自分の声で。自分の足で。
自分の、未来を勝ち取るのだ。
誰かに与えるのでも、守られるのでもなく、アベル自身が。
その思いは、ほのかな希望となって、叫ぶ声に力を注いだ。
声を張り上げる事が、自分の生へと続いていくのだ。
これが、自分で生きていく、ということなのだ。
「いや、いやです!! 助けて!! 誰か――!! …!?」
しかし、いきなり首がちぎれたのかと思うほどの衝撃に襲われて、アベルはひっと息を飲み込んだ。
膝が崩れ、ぺたんと座り込む。
「え…」
呆然と、頬に手をやった。
じんとした痛みが、熱となって手のひらに伝わってきた。
「ったく、手間、かけさせやがって」
遠くから、そんな声が降ってくる。
がんがんと頭が痛んだ。
反射的に涙が飛び出す。
――殴られた?
理不尽な突然の暴力には、怒りよりも先に、脱力感があった。
身体は動かないのに、鼓動だけがひどく激しい。
その音を耳に聞きながら、アベルは積み立てたさっきの希望が、散り散りになっていくのを感じていた。
次々に零れ落ちていく涙を拭うこともできない。
そんな少女に対し、ザラーはまるで人形を扱うように腕を引っ張り上げると、無理やりたたせようとする。
「ったく、このガキが。礼儀ってもんを身体に叩き込んで――」
男が、再び手を上げたのが、分かった。
滲んだ視界の中で、アベルは呆然とそれを見つめていた。
引っ張られた腕が、ひどく痛かった。
しかし、抵抗する気力すら、ない。
腕が振り上げられ。
振り下ろされる。
「あ…」
その時、
「待ちな」
突然目の前が陰った。
同時に、つかまれた腕が自由になり、その勢いでアベルは後ろにぺたんと座り込む。
「え…?」
腕?
男の人の。
鍛え上げられた、しなやかな、腕。
それが、ばしっとたわんだ。
思わず目を瞑るが、自分には痛みも、衝撃も襲っては来ない。
「…?」
私を、庇って、くれた…?
ぱちぱちと瞬く少女に、その『腕』の持ち主が、振り返った。
それは、彼女が知った、今までに助けを期待していたどの顔でもなく。
にっと人懐こい笑みを浮かべた、若い男だった。
赤を孕んだ黒髪が、風にゆらゆらと揺れる。
「大丈夫か、お嬢ちゃん」
「え、えっと、はい」
「うん。よしよし良かった。怖かったなー。若い娘さんの声がしたんで、飛んできたんだよ。後は、オレたちに任せてな」
届いてた…――?
自分の叫びが、彼に届いてた?
力の入らない頭で、呆然と考える。
自分の叫びが、彼に届いて、そして彼は助けに来てくれた――。
しかし一方で、アベルは男の言葉に首を傾げる。
オレ『たち』?
どうみても、人懐こい表情の彼しか、アベルにはうかがえないのだが。
と、――腕の影から、ザラーの巨体が吹っ飛ばされたのが、彼女の眼に映る。
同時に、嫌でも聞こえてしまう暴力的な破壊音。
思わず身を竦めるアベルの頭に、なだめるように手をおいて、彼女を助けた赤髪の男は、不敵な笑みを浮かべると、少女を庇うように立ちはだかった。
その隣に、もう一人。
おそらく、さきほどザラーを吹っ飛ばしたのだろう――ローブを全身にまとった細身の人間が並ぶ。
二人の人間に見下ろされて、よろよろと立ち上がった巨漢は、鋭い眼光を放る。
「な…てめぇら、他人のヤマに踏み込む気か…? どうなっても…」
「関係ないね。オレたちも札付きさ」
さっここからは、オレたちが相手すっからなっ、と。
およそ身にまとう雰囲気にそぐわないセリフをあっさりと投げつけて、男たちは、余裕の雰囲気で相手を見すえた。
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