闇の甲板には、舵を取る禿頭の男と、眠そうな顔の少年がぽつりぽつりと会話をしながら働いているのみだった。
おそらくこれから夜を徹して船を進めるのだろう。
そんな彼らに対して、軽く手を上げながら、黒髪の将軍、アルフェリアは闇に紛れそうなほどに気配を絶って、無音で舳先を目指す。
一方、普通に足音を立てながらついてきた人影を、彼はふっと牽制するように振り返って、アルフェリアは、闇色の目を、闇の向こうから放り投げた。
「一つ、言っとく。二年前の戦争の時は、世話になったがな。基本的にオレはお前を信用してねえ」
さらりと闇を裂いて投げかけられた言葉は、相手を揺らすことすらなかった。
あまりにあっけなく受け止めた態度は、アルフェリアの疑惑を元から予測していたせいなのか、それとも、そんな言葉は聞きなれすぎて、彼にとってはいちいち反応するに足りないものであったせいなのか。
アルフェリアには、判断がつかなかった。
しばらく探るように間を置く。
波が揺れ、風が揺れる。
結局彼は、相手から反応を引き出すことをあきらめた。
相手が何もいう気が無いのなら、自分が自分なりの考えを吐き出していくしかない。
いったん目を伏せ、長く息を出す。
「それで、だな」
再び光を受けた瞳には、ほの暗い光が――相手の一切の挙動を逃さない、獣のような光があった。
ゼルリア七万の兵の頂点に君臨する、ゼルリアを背負った男の慟哭を秘めた光だった。
「今から話すことは、オレ個人の考えに過ぎない。国王やサラたちは関係ねーよ。ただ、はっきりしときたくてな。ま、ちょっと付き合ってくれや」
「…」
青い瞳は死んだように黙っている。
彼は、返事を待たずに続けた。
「あんたほどの男が、みすみす石版を盗まれるもんなのか。王女をみすみす行方不明にするか。国を放っておいてこんなところまで来るか」
言いながら、闇を透かして相手を値踏みするように視線で刺す。
ずっと、引っかかっていたことだった。
三年前、カイオス・レリュードが前左大臣バティーダ・ホーウェルンの全権を受けて、ゼルリアとの戦争を終結させるために、アルフェリアと接触したときから。
異国人の男。
接触したときに、応対した男の話したミルガウス語は、不自然に完璧な『ミルガウス語』だった。
アルフェリアは、それに、凄まじい違和感を覚えたのを、今でもありありと思い出す。
王宮にいるものならば王宮の、異国人ならば自分の故郷の、独特のなまりが一切無かった。それは、――例えば異国人用の教科書に書いてあるような、完璧な発音を形作っていた。
今も。
そのこと一つとっても、彼にはどうしても『出自を隠そうとしている』――言葉から自分の出身地を悟られまいとしているように思えてならなかった。
その外見から、既に『アクアヴェイル人』と知れているにも関わらず。
それでいて、かたくなに出自を明かそうとしない。
名前も、偽名とさえ聞く。
そういった、『カイオス・レリュード』の持つ、いくつかの『不自然さ』。
今回のアレントゥムの件と、それらの不自然さを漠然と結びつけて、アルフェリアなりに導き出した、ひとつの結論。
――アクアヴェイルの内通者。
カイオス・レリュードが現れた当時、ミルガウスの状況は混迷を極めていた。そこに、うまく『取り入る』ことは不可能ではない。
事実、『取り入った』のでなければ、彼の栄達には説明がつかなかった。
官位を拝命してからは、無難に執政していた印象もあったが、石版のことがあって、アルフェリアは一つの懸念を覚えた。
ミルガウスに取り入って、内部から瓦解させようとしたのではないか。
石版という、国を賭して護るものを、みすみす奪われてしまったことによる、各国のミルガウスへの信頼の失墜は、想像を絶して大きい。
外交状態を不安定にし、同時に内政は自分が掌握している…――国としてのミルガウスを揺るがすのに、これほど好条件はない。
それをわざわざ本人に確認してみようと思ったのは、アレントゥムの悲劇が、未だ生々しくアルフェリアをとらえているせいでもあった。
ミルガウスを突き崩すならば、それを意図しているのならば、あの程度のことは、いくらでも起き得る、と。
そして、それがゼルリア王国に及ばない保障など、ないのだ。
だから、相手の態度によって、ゼルリア将軍であるアルフェリア自身が、次に取る行動も決まってくる。
否定するなら、否定する時で。黙殺するなら、黙殺する時で。
「あんた…何する気だ」
あっさりと本心を見せると思わなかったが、アルフェリアは待った。
やがて、相手は闇の向こうで息をついた。
「…それは、お前個人の意見なんだな」
「ああ」
「じゃあ」
さらりと青の光がアルフェリアを刺し貫く。
「『俺も個人的に話をさせてもらう』」
「!」
がらりと変わった音調。
一瞬の混乱と、その声調を耳にした時に、ゼルリア人ならばいやおうにも感じてしまう、生理的な不快感。
吹き込まれた声の切れ端が、意味を形作るのに随分とかかった。
(アクアヴェイル語か)
元々、聞くには何とかなるが、話すとなればとたんに不自由を感じてしまう。
やっと意味を汲み取った『アクアヴェイル語』を、ゆっくりとかみ締めるように飲み下して、アルフェリアは何とかやり返す。
相手が突然、異国語を使った意図が分からず、わずかに声はうわずっていた。
「何だ? アクアヴェイルの言葉なんか使って…内通者だって、認めるのかよ」
「『個人的な話と言ったろう』」
ミルガウス語での吹っかけに対して、返事はまたもアクアヴェイル語だった。
本音で話す、といったところか。
となれば、形式的にでも、自分の話す内容に嘘はないと、カイオス自身が認めたうえでの発言になる。
しかし、普段――好むと好まざるとに関わらず――敵として応対している者の国の言語は、多少の不快感を伴ってアルフェリアを打った。
さらに、一度に多くを語らず、まるで言葉を選んでいるかのような相手の優位さに、思わず舌打ちしてしまう。
相手は、自分に合わせている。
話の真偽も、その内容の程度も。
そんなこちらの胸中を知ってか知らずか――おそらく『知って』いるのだろうが――、カイオスは、調子を変えず、先を続けた。
「『一つだけ言わせてもらう。内通者を見抜けないほど、ドゥレヴァは馬鹿じゃない。ミルガウスをどうこうしようと思うほど、俺も命知らずでもない。ただ、石版の件は俺に全ての責任がある。だから、国を空けた』」
アクアヴェイル語で芸術的に流れる言葉は、相手の理解に合わせて不自然に途切れる。
その単語の端々から、何とか大意を汲む。
それを理解すると同時に、アルフェリアは頬の辺りが高潮していくのを感じた。
慣れない言語に翻弄されたと言うのもあるが、それよりも許せなかったのは、そこに含まれた、さらりとした告白だった。
――石版の件は全て俺に責任がある。
「…お前…。今、何て、言ったよ…」
問い返す言葉が、力なく震える。
その時、アルフェリアの瞼を過ぎ去ったのは、崩壊したアレントゥムの光景――何が何だか分からないまま、理不尽な暴力に踏みにじられ、命を落とし、健康な肉体を失い――声を枯らしながら、泣き叫んでいた姿。
あの惨劇の後、全てが終わって、アルフェリアはなおもそこに滞在した。
ゼルリアに帰郷する手段がロイドの船しかなかった上、その船を修理するのにかなりの時間がかかったせいだった。
その時、出会った人々は、三人に一人が、苦しみながら死んでいった。二人に一人が、自分以外の家族を全員なくしていた。五人に一人が、自分の力では一生歩けない怪我を負ってしまっていた。
それが、石版が盗まれたせいだと言うことは――今や全ての人間が知っている。
あの日、あの大崩壊が起こった日、空を食む黒き竜と、それを吹き散らした光の『不死鳥』に弄ばれて、吹き散らされた六つの石の欠片。
ミルガウスにあるはずの、石版の決壊。
『何者か』が、鏡の神殿から石版を持ち出し、そしてあの惨劇を引き起こした挙句――砕け散ってしまったのだ。
「…あんたの、せいだってのか…」
あの血を。
あの叫びを。
あの、怒りを。
一切知らないような調子で紡ぐ青年の無神経な告白に、アルフェリアは唇を噛んだ。
鉄臭い味が苦く広がるが、力が緩むことはない。
「なるほどな…。それで、お前自ら出てきたってところか。だがな…」
相手の胸倉をつかみそうになる衝動を何とか抑えて、彼は低く呟いた。
「自己満足で、何年かけて石版集める気だ?」
「…」
鋭い言葉と視線は、そこから逃れることを許さない。
怒りのこもった彼の問いを、男は金髪を夜風に流しながら受け止めた。
一瞬のためらいの後、相手はあっさり言い放つ。
「三ヶ月」
言語はミルガウス語に戻っている。
それでも、アルフェリアは一瞬、何か大きな聞き間違いをしたのではないかと思った。
三ヶ月。
一つの欠片を集めるのに、普通ならばそのくらいかかる。いや、それでもかなり短い方だ。
ちなみに、一度目に石版が砕け散ったときは、ざっと三十年ほど、二度目に砕け散ったときは十年かかっている。
それを…六つで三ヶ月。
彼は、かなり真剣に、カイオスは自分をからかっているんじゃないかと考えた。
考えた末に、アルフェリアはマヌケとは自覚しながら、気の抜けた質問を投げかけてみた。
「…そりゃ、六つでか」
彼の心中は、痛いほどにカイオスにも伝わっていたのだろう。
頷きの代わりに、彼はさらりと言ってみせた。
「少なくとも、一つはもうすぐ見つかるだろ」
「どうだか…」
言いかけて、アルフェリアはふと相手の自信が気になった。
「何か、勝算でもあるってか?」
先ほどの会合の場でも、彼は妙にはっきりとした物言いをしてみせた。
「…」
暗がりの向こうで相手が何か取り出してみせる。
随分と古びた、本…のようなものだった。
「何だ…」
口の中で呟きながら、手を伸ばそうとする。
だが、
「魔封書だぞ」
さらりとした言葉に、彼は身体ごと動きを止めた。
魔封書――己にかけられた封印を解いた者にしか服従せず、それ以外の者が触れればその人物の手首ごと消滅するほどの拒絶を示す、やっかいな書物だった。
「何てもの、持ち歩いてんだ」
そもそも、魔封書を紐解くのからして、かなりの労力が必要とされるのだが。
しかし、その分本自体の信憑性はかなり高い。
一度持ち主を選んだ魔封書は、主の望む知識を何でも与えると言う。
「…ま、それが本物ならな…」
それでも憎まれ口を叩くと、あっさりと切り返された。
「ならば触ってみるか?」
「遠慮しとくよ」
こんなものまで持ち出されては、内通者云々を言っている自分が、場違いだという自覚は出てきた。
ただ、その一方で新たな懸念が浮き上がる。
石版を持ち出したのは自分だと、相手は認めたのだ。
それでいて、三ヶ月で再び欠片を集めてやると言う。
アレントゥムの惨劇で、改心でもしたといえば一応筋は通るが、それだけでは収まりきらないものもアルフェリアの中にあった。
詳しい話が聞きたいところだが、問うたところで適当にはぐらかすだけだろう。
だから、彼は疑惑を問うた非礼を詫びる代わりに、こう口に出した。
「じゃあ…見届けてやるよ。あんたが、本当に三ヶ月で事を成し遂げられるのか」
言い捨てるように音を残して、彼はそのまま踵を返した。
(とりこし苦労だったみてーだな…)
何となく、ため息が出てきそうな心境だった。
「………」
一人、甲板に残った青年は、ため息混じりに髪をかき上げた。
船べりに身体をあずけ、潮の香る風を何となく身体に受ける。
「『おまえに言われるまでもない』」
舌打ち交じりの本音は、虚空のように黒々とした波間に吸い込まれ、誰にも届くことなく、消えた。
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