「入るぞー」
軽く声をかけながら、ロイドはその部屋の扉に手をかける。
昼間の決闘の後、巡回船の事故やら、石版の話やら、舵取りやらですっかり遅くなってしまった。
今や、船中が寝静まっているだろう。
闇は深く、波の音は、大きい。
「起きてるかな」
小さく口の中で呟いて、彼は少し扉を押し広げた。
細い隙間から、ランプの炎色の光がわずかに闇を淀ませ、ロイドの懸念がとりこし苦労だったことを知らせる。
彼は、一気に扉を開いた。
アルフェリアやティナたち――旅人たちには、決して足を踏み入れないように言い含めてある部屋。
混血児の少年を匿っている場所。
その少年は、扉の音にも気付かずにすやすやと眠っている。
そして、それを見守るようにベッドの脇に座って足を組んだローブの青年がいた。
「やっぱここだったか」
ロイドはほっと息をつく。
こちらを伺う青年の前に、ひょいっと手に持った皿を差し出した。
「ほい、夕飯。遅くなっちまったけど。まだ食ってねーだろ」
「…」
「食わねーのか?」
もったいねーぞ、とローブの傍らにまで歩を進めたロイドは呟く。
返答はない。
傍らの人物の視線は、ベッドの上の少年に固定されたまま。
その姿は、まるで実体がない像が、座っているようだった。
それほどに、実感がない。
まるで独り言を言ってるみてーだな、とロイドは考えた。
ただ、そう考えれば、返事が無いことをあまり気にしなくていいかも知れない。
そう思って、相手に構わず話を続けた。
「ジェーンが特別に作ってくれたんだ。コレ、冷えてもうまい料理だ。あ、そうそう、それでな。何でこんな時間になっちまったかってーと、あの決闘の後ちょっと大変なことがあったんだよ。ゼルリアの巡視船が…」
「責めに来たんじゃないんだ」
ため息混じりに吐き出された言葉を、ロイドは食べ物を噛まずに飲み込んでしまったような表情で聞いた。
何の事か、思い至るまでに少し時間がかかる。
確認するように、彼は音を紡ぐ。
「えっと…それは、昼間の決闘のことだよな」
「…」
ほかに何が、といったような態度で、青年は息をついた。
視線は相変わらずベッドで眠る子供に注がれているが、こちらと話をする気にはなっているらしい。
ほっとしたような心境で、ロイドは肩を竦めた。
「まあ、ティナちゃんにすれば、怒って当たり前だな。あれじゃ誰の目にだって、『弄ばれて試された』ことは、明らかだ。それに、お前は第三撃目で、彼女の頬に傷をつけた。女の子の顔に傷はつけちゃいけねーよ。それは、ダメだ。絶対ダメだ。何があってもダメだ」
「…」
青年の返事はない。
ロイドは、穏やかに続ける。
「けどな、お前の気持ちも分かるよ。心配だったんだろ。それで彼女の護衛の実力を、確かめたかった。アベルちゃんの――妹のことが心配で」
「――」
返答は、ない。
ただ、ランプ色の闇が、微かに揺れながら、二人の影を壁に映じていた。
しばらく、波の音だけが漂って、やがて、青年が口を開いた。
「義理の。…まあ、どっちにしても、名乗りでることはできないだろーけど」
「…」
「多分、彼女は拒絶する」
ロイドは、視線を落とした。
とん、と細い肩に手を置くと、確かに体温も、実体もある。
それに少し安堵しながら、彼は、青年の名を呼んだ。
「フェイ」
手が触れた拍子に、ローブがほんの少しずれた。
肩口に数本散った髪の毛は、ベッドに眠る混血児の少年と同じ、銀の輝きを闇に放っていた。
■
――???
波色のカーテンが幾筋にも重なり、優しい闇の陰影を『彼』の上に投げかけていた。
しかし『彼』には、そんないつもの美しい静寂も、届くことは無かった。
彼の身を食む、灼熱の慟哭は凄まじく、『彼』は自身が自身でなくなる感覚を、意識の奥底に、確実に感じ取っていた。
何かが、狂っていた。
『あの日』から。
あの日――それが、どのくらい前だったかも、『彼』には思い出すことができなかった。一瞬前のような気もしたし、何千年も前のことのような気もした――、何か、光るものが、『彼』と、『彼の護るもの』に向かって飛んで来たのだ。
『彼』は、泥がやさしく形を変えるように、『それ』を飲み込んだ。
『それ』は、吸い寄せられたように、『彼』と一体化した。
そして、『彼』の――『護るもの』の内部に、徐々に変化が表れた。
『彼』の身を、耐え難いほどの灼熱が覆い始めたのだ。
同時に、『彼』は、静かな静寂の向こう側から、何かを求めるようになった。
それは、獰猛な衝動だった。
『彼』が求めれば、波は『彼』に従った。
波を操り、風を操り――『彼』は求めるものを呼び寄せようとした。
たくさんの、魚が来た。
たくさんの、鳥が来た。
たくさんの、船が来た。
しかし、そのどれも、『彼』の求めるものではなかった。
彼は、誤って呼び寄せてしまった『不要』なものを、その都度破壊した。
『今』の『彼』には、それができた。
そして、身を食む灼熱の中で、『彼』の意識はどんどんと希薄になっていった。
それでも『彼』は、何かを求め続けた。
自分の護るべきものを護りながら、『護るもの』は、じっと待ち続けた。
妾将軍の、宝の海域と呼ばれる場所で。
|