――???
波は穏やかで、風は透き通っている。
抜けるような青空。
真新しい木の香り。
波しぶきをあげる帆船。
そこで、『彼女』は人の目線より少し高いところから、一人の女性を見下ろしている。
女性のほかにはだれもいない。
静かな午後の日が、あまねく行き届いていた。
『彼女』は、女性を見つめる。
長い黒髪。
きれいな頬の輪郭。
色の薄い唇は、淡い薄紅色に染まりながら、微かに引き締められている。
長い睫毛に縁取られた目。
瞳は『彼女』の角度からは見えない。
だから、『彼女』には、女性がどんな表情をしているか、分からない。
その代わり、うなじから肩口にかけての稜線と白い肌が、光を弾くようなまぶしさで『彼女』の目を捕らえていた。
「――」
女性の口が開き、『彼女』の名前を呼ぶ。
「――。なぜ、私がお前にこの名を与えたか、分かる?」
やわらかい風が吹いたような、囁き。
女性の声は、不思議な声調で『彼女』の耳を打った。
少女のように華やいでいるようにも、老婆のように沈んでいるようにも取れる。
やわらかいソプラノと、おだやかなアルトの間で揺れている。
不思議な声。
しかし、決して嫌な感じではない。
心地よく『彼女』の耳をくすぐって、潮の香りに解けていく。
だが、『彼女』には、女性の問いかけに答えることができなかった。
だから、大人しく待つ。
待っていると、やがて女性が答えをくれることを、『彼女』は知っている。
しばらく、船が波を裂く音だけの静寂を経て、女性は『彼女』の予想通りに、答えをくれた。
「私が、『――』を信頼していたから」
しっとりとした音は、今度は少し寂しそうに『彼女』には聞こえた。
海風が吹いて、女性の髪をぱらぱらとさらっていく。
「だから、私はお前にこの名をつけた。彼が私の元に戻ってきてくれるように、ずっと祈り続けていた。それは、適わない夢だけど」
『彼女』は、黙ってその声を聞いている。
軽い装備に包まれた女性の胸が、軽く上下しているのを見ている。
「…適わぬ夢は、捨てなければいけない。これから、決して折れない国を作っていくためにも。弱い心に邪魔をされないためにも。
――だから、今日ね。ここにおいていくことにしたんだ。私の『心』と『思い』を」
女性の手が、『彼女』をなでる。
無骨な指は、しかし細く透き通るような感触で、とても心地良い。
夢のように。
「『――』。私が愛した男の名をあげたお前だから。私の『心』をずっと見守っていて欲しいの。『護るもの』。深い海の奥底で、私が捨てた、私の心を」
女性は、ゆっくりと『彼女』を抱きかかえた。
そして、船べりから手を伸ばし、『彼女』が『護るべきもの』と共に、流れ行く眼下の海原へと掲げた。
「さようなら」
――雨が降り始めた。
『彼女』がそう思った刹那、その目に飛び込んできたのは、大粒の涙を宙に散らせた、女性の泣き顔だった。
年を重ねた風貌の中で、少女のような瞳が『彼女』と『護るべきもの』をしっかりと焼きとめ――
「手放しの信頼は、弧絶と暴走を生む」
その言葉を最後に、『彼女』の意識は沈み――
沈み――闇のそこに沈んでいく瞬間――、『彼女』は――ティナは、はっと目覚めた。
「…今の」
波に揺れる部屋、かすかに白い朝日の差し込む窓。
かなり早い時刻なのだろう――隣のサラは、まだ眠っている。
「やっちゃった…」
好きこのんでこんな夢を見ているわけじゃないけれど。
「アレントゥムの時も、あたっちゃったしなぁ…」
さすがに寝なおす気にはならなかった。
ため息を吐いて、ティナは起き上がると夜着に手をかけた。
■
「妾将軍の宝の海域」
「妾将軍…」
「うん。ま、一種の伝説だよ。ゼルリア――あ、当時は、セドリアっつったけど――をつくった将軍さんが、その海域で、自分の持ってた一番大切なもんを捨てたんだと。どんなもんかは分かってねーし、場所も曖昧なんだけどな。んでも、絶対すげーもんだってんで、オレたち海賊の間じゃ、結構狙ってるヤツは多い」
「ふーん…」
「んでも、どしたんだ? 急に。今回行く場所のこと、くわしく聞きてーだなんて」
「あ、いや…ちょっと気になったっていうか…」
朝食を終えて、眠そうにあくびをかみ殺しているロイドに、今回向かう海域のことを聞くと、まるでおとぎ話をせがまれたときのように、彼は目をきらめかせながら嬉々として話してくれた。
「妾将軍てのは、かなり苛烈な女の人だったって話だから、すっげえ強い剣を落としたのかもしれねーし、はたまた建国にかかわる重要なものを落としたのかも知れねーっていわれてる」
「へー。そんなに、たくましい人だったんだ」
「うーん。ちょっと微妙なんだけどな」
「微妙?」
ティナは聞き返す。
だが、すぐに返答はなかった。
呼び止めた廊下の真ん中で頭をかいて、ロイドはちょっと考えて、確認するように尋ねてきた。
「話し、長くなるんだけど、いっか?」
「うん。聞きたいし」
「じゃあ、甲板に行こう。ここじゃ空気の通りが悪くてしょーがねえ」
くっと親指で外を指し示して、ロイドは自ら先頭に立った。
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