「うーっ、ジェーンさんたち、上に行っちゃいましたけど…」
どうしてろって言うんですか〜。
アベルは、困った顔で、甲板の方を見つめていた。
危険だからと、禍々しい光球に近づく前に船内に非難していたアベルと海賊たちだったが、一際大きな揺れが船体を襲った後、海賊たちは様子を見てくると言い置いて、アベルを残して全員居なくなってしまった。
その後、微かに天井ごしに響いてくるのは、戦闘の音か。
一味が八人しかいないという海賊たちに、無理を言うものではないが、誰か一人でも自分の傍に残って欲しかったですね、とアベルはため息混じりに肩を竦めた。
日が暮れて大分薄暗くなったなじみの薄い部屋の中に、一人でいるのは、かなり怖いことだった。
と――
がたんと、大きな音がして、少女はぴくりと反応した。
(…誰かが、降りて来たんでしょうか…)
恐る恐る、出ないように言われていた船の一室から、顔をそろりと覗かせる。
念のために、手には部屋にあった椅子を武器の代わりに持っていたが…。
がらんとした、薄ら寒い廊下。
蒼い空気が、よどんだように佇んでいる。
少女の大きな黒い目が、きょろきょろと辺りを見回して、やがて気が抜けたように息を吐く。
「なーんだ、何もないじゃないですか」
ほっと息をついたその目が、――びくりとこわばった。
首の後ろに――ひやりとした、鋭利なツメの感覚…。
「な…」
目線だけを何とか動かして、彼女は自分の後方を見遣る。
天井に張り付いた――タコがいた。
タコの分際で、足の先端に鋭利なツメがあり、その内の一本が、アベルの首筋へとにゅるりと伸びていた。
「!!」
(タコ!!)
アベルは戦いた。
ぬらりと光る皮膚、その光沢がかもし出すぬるぬる感がたまらない。
「な…」
(私は、タコに殺されるんですか!?)
アベルはかなり真剣に考えた。
そして、悟った。
考えている時間はない。
「キャー!!」
アベルは手の凶器を、ぶんと振り回す。
それは、タコに掠りもしなかったが、首に張り付いていた不気味なツメは、離れた。
「イヤです!!」
首に迫るツメの感触がなくなった瞬間、アベルは一目散に駆け出した。
廊下を全力疾走しながら、頭の中をぐるぐると、いろいろな考えが巡る。
なぜ、こんなところにタコが。
ああ、部屋を出るんじゃありませんでした。
こっちは甲板の方じゃないのに。
けれど、今戻ったら、あのタコが…!!
「…タコ…」
アベルは恐る恐る後ろを振り返ってみた。
ぺちぺちと吸盤で天井を伝いながら、タコはついてきていた。
「イヤですー!!」
あんな物体、直視するに耐えない。
思わず、手近な部屋のドアを開けて、身体をすべり込ませ、ばたんと身体を体当たりさせる勢いで、扉を閉めた。
閉めてしまってから、この部屋は海賊たちに、『絶対入るな』と堅く言われていた部屋だったと気が付いたが。
ぺちぺちぺち。
ドアの向こうから、タコが扉を叩く音がする。
出られない。
絶対に出られない。
「な…何か、武器になるものは…」
扉に背をくっつけて、自身をバリケードにしながら、せわしなくアベルは辺りを見回した。
狭い部屋には、ベッドが一つ。
他には本当に何もない。
しかし。
「…!?」
アベルは、別の意味で息を止めた。
「あ…誰…誰ですか…?」
アベルの他には、誰もいないはずの室内。
禁じられた部屋の、ベッドの下から、息を詰めてこちらを伺い見る人影が、アベルをじっと見据えていた。
■
「誰…ですか…」
もう一度、アベルは呼びかけてみた。
魔物…ではない。
おびえたように、身体を縮こまらせているので、小さな動物を想像させるが、確かに子供だ…。
ベッドの陰に隠れて、警戒するようにこちらをみやっている。
藍色の空気の暗さのせいで、髪や目がどんな色をしているのかは、良く分からなかった。
「そんな…隠れなくても大丈夫ですよ」
なぜ、ベッドの下に。
自分と同じように、魔物を恐れているのか。
しかし、どうしてロイドたちから出入りを禁じられた部屋に、こんな子供が…
「大丈夫、ですから…」
無意識に足を踏み出すアベルは、自分の身体でもって、タコへのバリケードを築いていたことを忘れていた。
ただ、目の前の子供のことが気になった。
おびえている子供。
彼女は、無意識に、ザラーに殴られたときの自分を重ね合わせていた。
身体が近づくにつれ、子供の様子が分かる。
闇の中で、微かに光っているのは――髪か?
あの色は…
(銀色…?)
混血児の…――天使に取り付かれた、人間の持つ髪の色…!?
もっとも忌むべき者たちの証。
背筋に冷気がはしる。
胸に浮かんだ自分の直感が、事実かどうかを確信する前に、呆然とした彼女の耳は、自分の背中でばたんと扉が開く音を聞いた。
「!!」
(あ…!!)
タコだ。
振り返る少女の身体が、完全に向き合うのを待たず、タコの振り上げた鋭利なツメが、アベルに向かって振り下ろされた。
「――!!」
思わず、ぎゅっと目を閉じる。
刹那、耳に焼きつくように、高く上がる悲鳴。
「え…」
小さく呟く自分の声が、まるで別の人間が喋ったように遠く聞こえた。
おそるおそる目を開いたアベルの前に、二つに切り裂かれたタコと、剣を下げたローブの男が居た。
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