「ふ…副船長さん…」
擦れた声でアベルは呟く。
いつの間にか、へたり込んでいたアベルには、ローブの男はまるで空中から現れたかのように見えた。
剣についたタコの体液を落とし、彼はローブの向こうから、無感情に語りかけてきた。
「ケガは」
問われたものの、アベルはすぐには、声が出ない。
微かに首を振る。
相手は不気味なほどに静かに頷いた後、同じ調子で淡々と語った。
「…この部屋には、入るなといっていた」
「ご、ごめんなさいです。つい…」
「行くぞ」
「え」
はっと顔を向けると、彼は既に身を翻しかけていた。
「扉が壊れた。下手に隠れているより、目の届くところの方が護りやすい」
「は、はい」
有無を言わせずに、彼はさっさと歩き出す。
ほっそりとした背中に遅れないように、アベルは慌てて立ち上がった。
「…」
最後に、ちらりと部屋の中を見る。
ベッドの下から、相変わらず痛いほどの視線を感じた。
次に、ローブの背中を見る。
なぜ、こんな部屋に、子供を入れておくのか。
そして、どうして立ち入りをアベルたち『部外者』に対して、制限したのか…。
ローブの青年が、それに対して何も言おうとしないのはなぜか。
まるで、存在そのものを『隠したがっている』みたいに、アベルには思えた。
さっき、一瞬見えた銀色『らしい』髪の色と、それらのことから、一つの『想像』ができる。
それは、アベルにとって、ぞっとするようなものだった。
(…まさか)
ロイドたちが、『混血児』に――あの、汚らわしい『モノ』に関わっているなんて。
絶対に、ない。
そんなことは。
(気のせいです)
きっと、そうだ。
無理やり自分を納得させて、アベルは一つ頭を振った。
振り切るように息をつくと、
「待ってくださいよ〜」
明るい声を出して、大分遠くなったローブの青年に追いつこうと、小走りに駆け出した。
■
副船長に連れられて、甲板に着いた頃には、船上での戦闘は大方のところ決着がついていたようだった。
山積みになった死体をそばに、やれやれと肩を叩きあっている海賊たちの一人が、アベルたちに気付いた。
おおい、と手を上げて近寄って来たのは、アベルと同じくらいの身長の大剣を無邪気な表情でひっさげた、海賊の船長だった。
「おう。副船長にアベルちゃん。どしたんだ? 下にいたんじゃなかったのか?」
「魔物に襲われてた。危ないから、つれてきたんだよ」
「!! そっか! 怪我なかったか?」
心配そうに眉を寄せたロイドに対して、アベルはこっくりと頷く。
「大丈夫です。ところで、ティナさんたちは…?」
「…」
ロイドがつらそうな顔をする。
いぶかしんだアベルが、最悪の可能性を思い浮かべる前に、
「海に、落ちちゃったんだ。カイオスと、アルフェリアも」
「…え」
後ろから差し出されたどこか暗い少年の声に、彼女は弾かれたように振り向いた。
「…どういうことなんですか」
周囲は、息を呑んだように黙っている。
魔物の死体に囲まれた中での、沈んだ沈黙は、帳を下ろし始めた夜の足音とも相成って、不気味な予感を少女に感じさせた。
アベルは、無意識に息をひそめ、両肩を抱く。
見つめた少年は、しょげかえった様子で、ぽつりと言った。
「…さっき、船が揺れたとき…波にさらわれちゃったんだ…」
「そ、それで…?」
「まだ、上がってこない…」
ううっと縮こまったクルスを、アベルは目を見開いて見つめる。
どうして、すぐに探しに行かなかったんだろう。
答えは、分かっているはずっだった。
アベルの足元に、命を散らせた魔物たち。
彼らを相手にするために、海賊たちも、ゼルリアの女将軍も――クルスも。
助けに行けなかったのだ。
『行かなかった』のではなく。
「…じ、じゃあ今は、もう魔物たちは片付いたんでしょう!? 早く、探しに行かないと…!!」
「無理みたいだ」
必死に訴えたアベルに、非情な即答は思いもよらないところから発せられた。
「副船長さん…」
全員の目が、ローブの青年を凝視する。
まさか、彼女たちを見捨てるとでも、言い出すのか。
視線の真ん中で肩を竦めたジェイドは、二言目を封じ込めるように、すっと海原の方を指した。
「相手も、本気になったみたいだ」
『!?』
すっかり失念していた。
魔物を生み出した元凶、今は漆黒の海に浮かぶ赤い光球が、ゆらゆらと蠢きながら、ゆっくりとこちらに近づいていた。
「な…直接、こちらを叩く気か?」
ゼルリアの女将軍が、愕然と呟く。
光球の魔力のその途方もない力は、先ほどの第一撃で、イヤというほど味わわされていた。
逃げることも、追い払うこともできず、人間たちは、じわりじわりと近づく『聖獣イクシオン』を迎えるしかなかった。
「ティナ…」
クルスは、漆黒の瞳を海面に向けた。
「信じるからね」
振り切るように呟くと、彼はすっと目を閉じて、魔法の詠唱に入った。
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