Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  第五章 カレン・クリストファ 
* * *
――???


 水の中を、さまよっていた。
 『彼女』を抱き止めてくれたぬくもりと。
 どこか気だるい安心感に包まれて。
 深く沈む『彼女』の意識は、やがてゆっくりと陸に上がるように、覚醒した…――



 目を開けると、ぼんやりとした視界に、広い天井が映った。
 豪華な装飾。
 精巧な芸術。
 職人の技術の全てを注ぎ込んだかのような、美しい調和の中で、誰かが怒りに上げる声が、『彼女』の耳を揺さぶる。

「なぜ!? どうして…っっ! 王は何を考えておられるのですか。正妃たる私を差し置いて、異民族の王の娘を第一女王に迎えるなど…!!」
「デュオンさまは、あなたよりも――いえ、あなたという、お子のないソエラ朝の娘よりも、お子をお生みになった異民族の王の娘を重んじられたのです。今は、彼らとの婚姻を通じた融和政策のただなか。政治的な意味からも、彼女を立てるしかなかったのでしょう…」
「しかし、王は…」
「お身体の弱い貴女さまが、今の国王陛下にとって重んじられる位置におられることはできないのです」
「…!!」

 女性のか細い声が泣いている。
 繊細な、ガラスのような、震える鈴のきれいな声。
 『彼女』は、眠りから覚めて間もない頭を、気だるくもたげた。
 女性は――主は、何を取り乱しているんだろう…。
 人間としては年若いながら、いつも静かに、冷静に、穏やかに物事を判断し、決して面には出ず、辛抱強く周りに働きかける根気強さを持った人が。
 『彼女』には、分からなかった。
 『彼女』には、初めてのことだった。
 そこで、『彼女』は息を詰め、主のことを注意深く見守った。
 主は――女性は、白いドレスに包んだ華奢な肉体を折り、震えるようにして泣いていた。

「…私では、あの方の力にはなれないと言うの…? どうしてだろう。あの日、私を見初めた人は、私を捨てるような人ではなかった。私は、あの人を心から信じていたから、この王宮にはせ参じ、一生をかけてお仕えすることを誓ったのに…」
「…」
「それとも、あの方には、もはや私よりも大切なものが存在するというのか。それが、私との契りを破ってまで、彼にとって大事なことだと言うのならば…」

 主の声は、弱々しかったが、もはや震えてはいなかった。
 深い深い沈黙の時間があって、やがて彼女はゆっくりと宣言した。

「あの方にとって、大融和政策を執り行うことが、全てと言うのならば、私はその片翼となろう。彼の剣となり、盾となって、彼の夢を現実に引き出してみせよう。
 それが、彼の望みというのならば…」

 主は、懐から美しい装飾を施された短剣を取り出した。
 潔い音を立て、刃が空にすべり出される。
 周りの侍女たちが一斉に息を呑んだ。
 『彼女』も息を呑んだ。
 しかし、誰も動くことができない。
 彫像のように動きを止めた人々の真ん中で、ただ一人優美に姿勢を崩した女性は、肩口から艶やかに伸びた髪を、ばさりと切りとった。
 悲鳴を呑み込んだような、動揺が広がる。
 主は、しかし、優美に微笑む。
 声をなくした侍女たちを見渡すように、その姿態を衆目にさらすように翻してみせた。
 舞うような動きにあわせ、不ぞろいに切り裂かれた艶やかな髪の無残な断片が、幾本か床に舞い落ち、黒い線模様を絨毯に描いていく。

「!! 何をなされます!?」

 悲鳴に近い声を上げる周囲を、魅惑的な唇を弓なりに引いて睥睨し、女性は静かに言った。

「第一女王たりえなかった我は、今より王の『妾(めかけ)』も同じ。しかし、そのような恥辱に耐えるくらいならば、いっそ全てを捨て去った方がいい」

 一転、地を踏みしめて視線を一所に定めた主は、別人のように精悍な印象をまとっていた。
 頬にかかる髪をさらおうともせず、淡い桜色の唇を引き結ぶ。
 全ての者を見渡し、全ての者を睥睨し、彼女はきっぱりと宣言した。

「私は今日から彼の剣、彼の覇道の実現者となる。事が成就した折には、私は、再び彼の妾に戻ろう。そうすることでしか、あの日の彼を私の元に取り戻せないと言うのならば…」

 周囲は、何一言、言葉を紡ぐことができない。
 凍りついたような静寂の中を、『彼女』は、主に向かってふわりと飛翔した。
 肩口に触れるように降り立つ。
 『彼女』のいつもの位置。
 いつも、そこから見えていた長い艶やかな黒髪は、今は短く不ぞろいに切り取られてしまっていたけれど、その代わりに覗くうなじの白さが、ひどく真新しい感覚で、『彼女』の目に映った。

「――。お前はついて来てくれる? ずっと…ずっと、私に」

 主が、『彼女』を見上げる。
 『彼女』は、主の頬へと自分の身を摺り寄せる。
 主が、今とは異なる道を歩むなら、自分もそれに従おう。
 彼女に対して忠誠を誓い、力を貸すことを惜しまぬ契約をした自分だから。
 いつまでも。
 主のそばに。



 灼熱の渇望の中で、『彼女』は夢を見る。
 遠い日の夢。
 過ぎ去った日の夢。
 
 あの日の誓いを胸に抱えなおして、『彼女』は再び切望した。

 主の願いをかなえるものを。
 主の願いをかなえる『何か』を。

 ひたすらに。
 ただ、ひたすらに――。

 『彼女』は、眠る。
 やがて、『彼女』の意識は、たゆたう波から浮かび上がるように、ゆっくりと浮上していった。

* * *
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