「なあ…その鏡、何か書いてあるな」
道すがら、アルフェリアに話しかけられて、ティナはえっと傍らを見上げた。
不敵な雰囲気を携えたゼルリアの将軍は、負傷した腕を庇いながら、ティナの目元を見つめている。
「ああ、この鏡」
「何て書いてあるんだろうな」
古い文字で書かれているため、容易に読むことはではない。
「えっと…最初の一行は、分かるんだけど」
「へえ」
「アルフェリア、読めないの?」
「オレ、読み書き苦手なんだよ。五年前将軍になるまでは、そんなのとは無縁の生活してたしな」
「…」
「アンタは魔道士だから、少しはできるんだろ」
「まあ、ね」
薄く笑って、ティナは手元に目を落とした。
刻まれた文字をなぞるように、
「これ、最初の一行は女性の名前だと思う」
「ふーん」
「多分妾将軍の名前じゃない?」
「そーかい」
「聞く?」
相手を見上げて、ティナは問うた。
視線の先で、ゼルリアの将軍は微かに苦笑する。
好奇心と、抑制の心が、同時に働いたような、複雑な表情だった。
「…。そうだな。やめとくわ」
本名も、肖像も伝わらない、セドリアを築いた謎の建国者。
謎は謎のままで。
さきほど聖獣に言われた『妾将軍像』が頭にあるのか。
彼は、そうほのめかした。
ティナは、悟ってただ頷く。
「うん」
「そーだ、ティナ」
「え?」
「あんた、すげーんだな」
しみじみと、ゼルリアを背負うような男に言われて、ティナは目を瞬く。
「な、何が?」
「アレントゥムですごい魔法を使ってた、アレ、あんただろ」
「えっ…と」
それはもしかして、不死鳥の召喚のことを言っているのだろうか。
「な、何で?」
あんたがそれを知ってるの? とぎこちなく言うと、涼しい顔でアルフェリアは答える。
「何でって――たまたま、見かけたんだ。あんたが召喚しているところを、光と闇の陵墓で」
『光と闇の陵墓で』。
ここまで言われると、もう確定だ。
見られた。
「…」
「副船長のヤツもいたな。あ、あいつひょっとすると、それで試したくなったのかもよ」
「え」
「ほら、船の決闘で。あんたの実力を」
「………」
そういうもんなの…? と考える横で、黒髪のゼルリア将軍は、肩を竦めながら、話題を変える。
「しっかし…あの左大臣はすごいな。本当に、石版の場所当てやがった」
「そうね。一つ目がこんなに早く見つかるとは思ってなかったわ」
正直、二つの欠片を見つけた実績を持つティナでも、ここまで早く見つけることはできなかっただろう。
「魔封書のおかげかな」
「それもあるが、やっぱり戦力が充実してるのも大きかったかもな」
「…戦力」
「石版みたいなもんには、弱い人間が百人群がるより、強い人間が五人でかかった方が、早く片付くってわけだ。それには、属性継承者やなんかが適任なんだろうが、なかなかそろわねーからな、そんなヤツら」
「そうね」
今回は、近距離のアルフェリア、剣と魔法を使うカイオスに、強力な攻撃魔法を唱えるティナがそろっていたのが、大きかったのかもしれない。
「だとしたら、惜しいなあ。アルフェリアは、この後やっぱり、ゼルリアに帰っちゃうんでしょ?」
「ん、まあ、そーいうことになるだろうな」
軽く肩を竦め、彼はしかし意味深に呟く。
「まあ、説得しだいだよ」
小さく後を続けた彼の真意を汲み取って、ティナは思わずにっこりと笑った。
「あなたは、氷の属性をもっているんだね」
海底都市を、なれた様子で歩きながら、イクシオンは、ふと金髪の青年に語りかけた。
他のふたりに聞こえない声音で、囁く。
「魔力をありがとう。おかげでずいぶんと楽になったよ」
「別に」
そっけなく流したカイオスに対して、聖獣は笑う。
「聖獣の魔力の波動に合わせるなんて――大変だっただろ」
「………」
答えはない。
しばらくの無言の後、しかし足音に紛らせる調子の声音が、微かにイクシオンに届いた。
「そもそも石版が砕け散らなければ、あんたも狂わずにすんだだろ」
「私も、被害者ということ?」
夢うつつに覚えている。あれだけの災害を引き起こしてしまったのに?
言外に含みをもって問うと、青年は目を伏せた。
「…」
「その様子だと、今回の石版の騒動には、あなたが関わっていたのかな」
やわらかくイクシオンは紡ぐ。
責めるような調子でなく、ふっと確認するような調子で。
「だけど、あんな強大なもの、一人の意思でどうこうできるものじゃないと、私は思うんだけど」
「………」
カイオスは、答えない。
しかし、その横顔は、静かな意志に満ちていた。
それを見て、イクシオンは唇を上げた。
穏やかに紡ぐ。
「しかし、――確かにそうは言っても…、せめてもの償いはするべきなのかも知れないね」
青の目が、こちらを向く。
イクシオンは、青年に笑いかけた。
男の目を己の瞳で見返して、妾将軍の守護聖獣は厳かに告げる。
「しばらくは、魔力が元通りじゃないから無理だろうけど、いつかあなたたちの元にはせ参じよう。いつでも呼んで欲しい。力になるから」
「………」
「私を止めてくれた、せめてものお礼だ」
さらりとそう言うと、聖獣は彼の答えを待たずに話を打ち切った。
繊細な円陣が行く手に現れてくる。
他の二人を振り返って、彼はやわらかく切り出す。
「さあ、ついたよ。ここから、地上に戻れる」
イクシオンが導いた先には、古い魔法陣があった。
「すごい。こんな緻密な魔方陣…」
ティナが思わず口にするのに、にっこりと笑みを返す。
「確か、この上に船があったね。そこに転送するのでいいかな」
「うん。ありがとう」
「ありがとな」
「…」
それぞれの言葉を受け取って、イクシオンは呪文を唱え始めた。
三人を、魔力の光の軌跡が、螺旋を描いて包み込み、ゆっくりと立ち昇っていく。
視界が魔力の波に覆われ、イクシオンの像が徐々に擦れていく。
それが、完全に視界から消えてしまう瞬間、ティナは口を開いた。
聖獣からたくされた、妾将軍の秘宝を握り締めながら。
――あなたは、夢の中であったね。
あの言葉を信じるならば、彼には、『名前』があるはずだった。
『イクシオン』というのは、種族の名前で、『彼』個人の名前というわけではない。
妾将軍が最も愛した人の『名前』。
だが、彼女には、夢の中でそれを聞き取ることはできなかった。
「ねえ…あなた、なんて名前なの――?」
魔力の波が、視界を覆う。
直前の、一瞬。
イクシオンが、はっとした表情を見せる。
すぐにやわらかく微笑んだ口元は、声の無い音を彼女の目に返してくれた。
「――」
ティナは目を見開く。
過去と夢が、重なるのを感じる。
視界が完全に閉じる。
魔力が振動する。
奇妙な浮遊感。
そして、視界が開け――
まぶしい朝日と、爽やかな風、そして青い海原が目の前に広がっていた。
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