ふと、『彼女』が目を開けたとき。
世界は闇に包まれていた。
「………」
『彼女』は、辺りを見回す。
ひどく寒い。
風がじかに肌をなぜている。
遠くの方で、不気味な――何かがこすれるような、ざわざわという音が囁いている。
無意識に肩を抱いていた。
ここは、どこだ?
なぜ、こんなところにいる?
そして彼女は、最も『気付くべきではなかったかも知れなかった』ことに、ふと気が付いた。
気が付いて、しまった。
――『私』は、誰だ?
「………」
『彼女』は目を見開く。
呼吸がひどくせわしない。
それは、ひんやりとした夜気のせいではない。
さらに深くさらに暗い、果てしない『絶望』が彼女を縛り付けていた。
自分が『ここ』にいる理由の全く知れない不安。
「………」
わたし、と、震える指が唇をなぜる。
声は、出る。
言葉は、分かる。
では、『私』の名前は――?
身体を震わせながら、必死にそれを『思い出そうと』していた彼女は、茂みの向こうから迫り来る影に、気付かなかった。
ガァアアアア!!!
「!?」
突然、目の前に何かが現れる。
それは、ぞっとするような形相を張り付かせて、『彼女』に向かって牙を剥いた。
「な…!?」
ばっと獣の手が振り上げられる。
先には鋭いツメが付いている。
(逃げなきゃ…――!!)
『彼女』は、強く念じる。
だが、何か縛り付けられてしまったかのように、全く身体が動かない。
「あ…」
悲鳴が、喉の奥でつぶれる。
振り下ろされていく腕が。
彼女の紫欄の瞳に、ひどくゆっくりと映っていた。
「あ…」
(死ぬ――?)
そう、覚悟した瞬間、
「天を貫く怒りの雷動よ、この一時我が剣となりて、立ちはだかる愚かな者を打ち倒せ!!」
闇を裂いて、高い声が響き渡った。
「ライトニング・ブラスト!!」
(え?)
『彼女』は、思わず振り返る。
同時に、突風を伴って放たれる雷鳴。
吹き飛んでいく獣。
思わず目を閉じるが、衝撃は彼女の方に掠りもしない。
「な…」
(何…?)
獣の末路よりも、自分を助けた不可思議の奇跡に脱力を覚えて、『彼女』はへたりこんだまま、声の聞こえた方を呆然と見つけていた。
がさごそと茂みが動いて、やがて向こうからぴょこん、と何かが姿を現す。
小柄な身体。
ふわふわの髪が彩る顔の中で、くるくるとした瞳が、闇を弾いて輝いていた。
「おねーさん、大丈夫? 危なかったね」
「あ…」
「この辺は、魔物が多いから」
魔物。
自分を襲ったモノの正体か。
「あり…がとう」
喉をつまらせながら何とか礼を言うと、彼は闇の中でにゃはっと笑った。
ひょいっと手を差し出してくる。
「オレはクルス。おねーさんは?」
「あ…私は…」
『彼女』は、言葉を捜す。
私の、名前。
きっと、私には『名前』があるはず。
「私は…」
『彼女』はつばを飲み込んだ。
呼吸を整えて、落ち着こうと手を握り締める。
「?」
怪訝そうな少年に向かって、彼女はすがるような目線を向けた。
「私は――」
その時。
ふっと頭を『何か』が過ぎる。
それは、影のようにも、映像のようにも感じた。
微かな痛みを伴って過ぎった影を、彼女は必死に手繰り寄せる。
(私は…)
私の、名前は――
「私は――ティナ。ティナ・カルナウス」
「そっか! おねーさんは、ティナっていうんだねっ! よろしく、ティナ」
少年は目を輝かせる。
それがあまりにも純粋で、あまりにも素直だったから。
ティナはふっと微笑むと、ゆっくりと手を握り返した。
「…よろしく――」
――それは、彼と彼女の、最初の記憶。
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