Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  終章 カレンの手紙 
* * *
 ――『夢』を見た。

 ある男を愛した女と、ある女を愛した男が、互いに結ばれる、幸せな夢だった。


 波が揺らぐ甲板に、月明かりが淡く降り注いでいた。
 藍色の波は、静かに騒がしく、聞く者の耳を撫ぜながら、ゆったりと彼方へと響いていく。
 白く凍る息の向こうで、幾千の星がまたたいている。
 デライザーグを出航して、どのくらい経ったのか。
 時刻が時刻だったせいもあって、言葉をほとんど交わすことなく、すぐに皆眠りに就いてしまい、見渡す限り、視界には誰もいない。
「…」
 ティナはふっと白い吐息をついた。
 たまたま見た『夢』のせいで目が覚めてしまい、しばらくは寝付けそうにない。
 おまけに、最初の頃と比べて気が抜けた所為か、船酔いらしい気分の悪さがこみ上げてきて、風に当たろうと船内から出てきたのだった。
「はー。飛竜といい船といい…。どうも、こう…揺れるものって、苦手だわ…」
 一人ごとを言いつつ、船べりに向かう。
 そういえば、いきおいで『妾将軍の秘宝』――古びた手鏡を持ってきてしまった。
 イクシオンには、彼女の元に返して来てくれ、と言われたのだが、ティナは彼女がどこに眠っているのか知らない。
(そういえば、妾将軍の最期って…)
 考えながら、当てもなく歩いていく。
 あんなに華々しい生涯が語られる妾将軍だったが、彼女の最期に関しては、ウソのように何も聞いたことがない。
 お墓の一つくらい、伝わっているはずなのに。
 ――と。
 ふと、今までは物陰の死角になって見えなかった部分に、人がいるけはいがして、ティナは思わず息を飲み込んだ。
 心臓が一瞬はね上がる。
 幽霊の類かと本気で思って、すぐに思い直した。
「…」
 あの、金髪は。
(カイオス?)
 寝静まった、海賊船の甲板で、彼は、なにやら本のようなものを覗き込んでいた。
 光の文字が淡く闇を照らしている。
 魔封書、か。
 持ち主以外が触れると容赦なく手を吹き飛ばすが、その代わり、その持ち主には自分の知識を惜しげなく与えるという。
 他の人間がいるところでは魔封書は呼びかけに応じないものだ。
 それで、こんなところにいるのだろう。
 こんな、寒い中を。
 こんな時間まで…――。
「………」
 彼は、一体いつ眠るつもりなのか。
 思いながらも、ティナは人影を目指して足を速めた。
 始めは、輪郭が闇ににじんでいた像も、だんだんとはっきりとしてくる。
 彼が覗き込む魔封書の文字が、いい加減読めそうな位置まで近づいても、カイオスは振り向かなかった。その時、紙面に浮かんでいた文字がふっと消える。
 持ち主以外に知識を許さない魔封書は、他人の存在に敏感なのだ。
 同時に、弾かれたように人影も振り返る。
 彼ほどの人間が、ティナのけはいに気付かなかったとは――よっぽど集中していたらしい。
 こちらを見る眼が、不審げに細められる。
 それを受け取って、ティナはあえて明るい声を出した。
「寝られなくってね。ちょっと風に当たろうと思って出てきたの」
「…」
「ごめん、邪魔した?」
 その通りだと撥ね付けられれば、すぐに船内に戻るつもりだった。
 いつかの夜、魔封書を見ている彼と話をして、結果、気まずい思いをしたのは、彼女自身記憶に新しい。
 だが。
「………。別に」
 そんな返事が返ってきて、ティナは思わず目を見開いていた。
 さきほどとは別の意味で、心臓がはねる。
 何気ないふりをして、彼の隣に並ぶ。
 彼の手元の魔封書へと目を逸らしながら、さりげなく口を開いた。
 言い出すのは今しかない、と何となくそう感じていた。
「あの…さ、この間は悪かったわね」
「…」
「それ、勝手に触ろうとして」
 白い吐息に乗せるように、ティナは紡ぐ。
 二人になったのが、あれから初めてだったわけではない。
 だが、彼に対してあのときのことを『謝る』ことができるのは、彼女の中で『今』しかなかった。
 人に謝るのに、こんなに緊張するとは思わなかった。
 自然に逸らした目線は、波の間を漂う。
 傍らからは、何の反応もない。
 それを、実際に感じて、ティナは胸中で苦く笑う。
(やっぱり…ね)
 なにが、『やっぱり』なのか。
 自分で思ったことをとっさに自問して、ティナはすぐに答えを見つけた。
 彼の淡白な性格はわかっていたつもりだったが、妾将軍の一件で、少しは『自分』と言う人間を認めてくれたのかな、と思っていた。
 それだけに、こうしてまた、冷たい態度をとられるとがっくりとしてしまう。
 要するに、自分が思っているほど、彼はティナには心を開いていないということなのだろう。
 そう、半ばあきらめの笑みを浮かべたティナの隣で、カイオスは一つため息をついた。
 今度こそ、中に帰れと言われるか。
 予想したティナの手が、微かにこわばる。
 だが。
「お前こそ…怒っていたんじゃないのか」
「………へ?」
 波間に投げ込むような調子で吐き出されたそれは、彼女が覚悟していた言葉と、全く違った。
 ティナは、紫の目をぱちぱちと瞬く。
 今、言われたことを三回くらい頭の中で繰り返してみた。
 それから、彼の方を見上げた。
 波間に目を落とした彼は、相変わらず、ティナと視線を交わすのを避けているようにも見える。
「ひょっとして…あんたも、気まずかったとか?」
 彼の気持ちが自分の中で説明つかなくて、わざわざ言葉に出すと、相手はため息をつく。
 その態度が、多分彼の答えなわけで、そしておそらく肯定なわけで。
 ティナは、少し驚いた。
 考えてみたら、相手もモノじゃないんだから、当たり前に抱く感情のはずなのに。
(…それで、態度がそっけなかったわけ)
 仲たがいして気まずいと思ってくれる程度には、嫌われてなかったわけだ。
 彼のよそよそしい態度にやっと納得がいって、ティナはふっと笑った。
「それ、魔封書だったんでしょ? アルフェリアから聞いたけど。まあ、いきなり触ろうとした私も、悪かったし」
「………」
 カイオスは答えなかったが、それは言葉を流しているのではなく、言葉を選んでいる様子だった。
 やがて、波間に落とすように切り出す。
「聞きたいことがあるんだが」
「何?」
 首を傾げると、振り返った青の瞳が彼女を見た。
 そこには、冷たさではなく、微かな問いかけの色がある。
「お前、『妾将軍』が、『カレン・クリストファ』だと知っていたのか?」
「え…」
 ティナは傍らを見上げる。
 カレンの話題がでたのは、海底都市でアルフェリアと別行動をしていたとき。
 『カレンが妾将軍じゃないか』。
 そう言い出そうとした直後、激しい振動に邪魔をされて、結局あやふやなままになってしまっていた。
「えっと…なんで、分かったの」
「その鏡」
 言葉少なに示される視線の先には、ティナが抱えた手鏡がある。
 鏡の背には、カレンの名が書いてある――
 刻まれた文字は古い。
 だが、アルフェリアやティナには読めなくても、左大臣をしているくらい頭のいいカイオスには読めてしまったらしい。
 思わず手鏡に目を落としたティナに対し、さらに言葉が重ねられた。
「それに、あの聖獣は『夢』で会ったといっていたな。どういうことだ」
「………」
 鋭い指摘に、ティナは言葉に詰まる。
 視線を逸らして、波間へと逃げた。
 どう答えていいのか。
 夢でそれらしい女の半生を見た。
 そう言って、まさか受け入れられるとは、ティナも思っていない。
「えっと…」
「アレントゥムのときも、そうだったのか」
 重ねて問われ、ティナは今度こそ、息を止めた。
 船べりを握る手が、震える。
 血の気が引いていくのが分かる。
 思わず、彼を見上げる。
 どうして、知っている――。
 そう、問いかける視線の先で、海を見つめたまま、男はあっさりと答えた。
「アレントゥムではだましていたのは事実だが…それにしても、最初から妙に俺を疑っていただろ」
「………」
 ティナは、息を呑んだ。
 言うか、言うまいか。
 しばらく悩んでから、彼女は相手の横顔をもう一度見た。
 表情を浮かべない彼の様子は、何を言っても受け止めてくれそうな感じもする。
 それがティナの錯覚か真実か――彼女自身には図りきれないところだったけれども。
 もう少しだけためらって、彼女は結局、ため息混じりに言葉を選んだ。
「時々…」
「…」
「夢で見るのよ。そういう――『未来』だとか『過去』みたいな、『夢』を」
「………」
 ミルガウスの国境が突破されたことも、アレントゥム崩壊も、そして、『彼』と対峙した場面も。
 全て『夢』で見ていた。
 それは、全て『現実』だった。
「信じる信じないは、勝手だけどね」
 一気に言って、彼女は続ける。
 彼の反応を、真っ向から受け取る自信がなかった。
 言い訳がましく、口を動かし続ける。
 震えを隠そうとむきになるあせりが、無意識に口調を早めていた。
「理由はわかんないけど、まあ原因があるとしたら…忘れた『わたし』の時間の中、なのかな」
「…」
「ちょっと、二年前からの記憶がさっぱりなくってね。あたし」
 言葉を紡ぐ口だけが、別の人のもののようだ。
 こんなことまで――。
 言うつもりでは、なかった。
 だが、一度言い放ってしまった言葉は、もう収める術はなくて。
「…まあ、そういうことよ」
 締めくくってから、ティナは深く深く息をついた。
 恐る恐る隣りの反応を待つ。
 彼は、感情のにじまない声で、そうか、とだけ応えた。
 ティナに注がれる視線は、意外と、冷たくも鋭くもなかった。
 それにただ安堵しながら、彼女は話を終わらせるために、さっさと続きの言葉に逃げる。
「さって…いい加減寒いし、そろそろ入るかな」
 あんたも、いー加減早く寝なさいよ、と。
 そう言って、身体を動かした瞬間、すっかりかじかんだ手の中から、ぽろり、と何かが落ちた。
「げっ」
「…?」
 ごとん、と甲板に転がるそれは、妾将軍の秘宝――手鏡だ。
 しかも、ご丁寧なことに、落下の衝撃で鏡の部分が取れて、ごろごろと転がっていく。
「ひいっ!!」
 ティナは真っ青になって、鏡を追いかける。
「お前な…」
 心の底から呆れた表情で、カイオスは、それを視線で追う。
 ふと、床に落ちた青銅の手鏡の、型の部分に目をやった。
 うつぶせに床に落ちたその下から、白いものがはみ出している。
「…」
 夜風にひらひらと舞う破片は、随分と古い材質の紙だった。
 手鏡の型を拾う傍ら、慎重に開いて、さっと目を通す。
「………」
 青の目が、微かに細められる。
 そこに、やっと鏡を拾ってきたティナが戻ってきて、ひょいっとカイオスの手の中を覗き込んだ。
「なに?」
「鏡と型の間に挟まっていた」
「何て書いてあるの?」
 鏡台と同じく、古い文字で書かれているため、暗がりでちらりと見ただけでは、どういう内容なのかははっきりと分からない。
 しばらく紙面に目を落としていたカイオスは、夜風に揺れる金の髪をかき上げながら、やがて言った。
「どうやら、カレン・クリストファから、デュオンに当てた手紙らしいな」
「え…」
 一瞬、あの透き通った瞳をした、守護聖獣のことを思い浮かべたが、すぐに人間の――大空白時代を築いたソエラ朝の国王デュオンのことだと思い直した。
 吐く息が白く凍る。
 見上げた先でカイオスは、真意の読めない声で続ける。
「大意でよければ、訳してやろうか」
「いいの?」
「…」
 彼は、ふっと手元に視線を落とすと、淡々と言葉を紡ぎ始めた。
 月明かりが波間に揺れ、ガラスのような星の輝きが空を照らしている。
 その中を、涼やかな声が冷気を裂いて流れていった。
 やがて全てを聞き終えたティナは、首をかしげ、純粋に疑問に思ったことを口にする。
「妾将軍って、自分の功績が報われなかったから、逆上してゼルリアに亡命したんじゃなかったっけ?」
「歴史なんか、後でいくらでも捏造できる。妾将軍自身の記録は残っていないから、なおさら彼女に都合の悪いことばかりがでっち上げられた…そういうことなんだろ」
「ふーん…。あ、それからさ、その『手放しの信頼は――』って言葉、デュオンが言った言葉じゃなかったの?」
「どうして」
「サラが、そう教えてくれたんだけど」
「…。それは、多分勘違いかなにかだろ。実際この言葉は、アクアヴェイルの歌曲の中で、失恋した女から男に送られるものだからな」
「そうなんだ」
 アクアヴェイル語は、世界で最も美しい言葉だという。
 そんな美しい言葉で、そんな哀しいことを言うのは、どんな気分なのかしらね、とティナは少し考えてみた。
「…」
 ティナの横で、古い紙を弄んでいたカイオスは、ふっとティナの持っていた鏡の部分を取り上げると、勢い良く波間に投げ込んだ。
「ちょっ…!?」
 いきなりの行動に、思わず声を上げるティナを尻目に、彼はさらに自身の持っていた手紙と鏡台も、あっさりと波間へ放り込む。
 黒い水面に吸い込まれていくカレンの手鏡を、手を伸ばす間もなく、ティナは見送るしかなかった。
 さすがに、カイオスの方を見上げて、声を高めて抗議する。
「いいの!? どーすんのよ、イクシオンに、彼女の元に届けてくれっていわれたのに!」
「お前、妾将軍がどういう死に方をしたか、知らないのか?」
「え…」
 反対に静かに問われて、彼女は言葉に詰まった。
 少しだけ間を置いて、結局正直なところを答える。
「お、お墓とかは聞いたことないけど」
 そんなティナに向かって、カイオスは残酷なほどにあっさりと言い切った。
「惨殺された。自分が過去に弾圧したゼルリアの現地民族に」
「…!!」
「遺体はずいぶんな状態で海に流されたらしい。強いて言えば、『ここ』が彼女の墓場だ」
「…」
 ティナは、暗い波間を覗き込む。
 デュオンに愛され、彼にある意味で裏切られ、妾将軍として生き、死んでいった女性。
 彼女の唯一の遺品を飲み込んだ波は、ゆらゆらとただ揺れている。
 夜明けが近いのだろうか。
 藍色の空の一部が、微かに明け始めていた。
 髪を潮風になびかせながら、彼女は囁くように呟く。
「もう一つだけ、聞いていい?」
「なんだ」
「彼女の手鏡に刻み込んであった言葉、なんて書いてあったの?」
「…」
 カレン・クリストファ、と彼は切り出した。
 ――カレン・クリストファ
 ただ一人の私の妃へ
 ただ一人の貴女の伴侶より、と。
「ふーん」
 ティナは、吐息で指を温めながら、ただそう返す。
 カイオスも、特に言葉を返さない。
 何となく声の途切れた二人の見つめる先で、白んだ空に導かれて、冬の太陽が姿を現しつつあった。


 明ける直前の、暗い海の闇のただ中を、ひらひらと、白い紙が舞っている。
 波に遊ばれ、海に抱かれ、ただ一人虚空をさすらう旅人のようにも見えた。
 羽のような紙面が翻るたびに、刻まれた文字がちらちらと躍る。
 水に触れてインクが解(ほど)けていく。
 糸を引いて消えていく言葉は、ついに伝わらなかった思いを、波間へと溶かしていった。


 ――デュオン。

 ただひとり、私の愛したひと。
 一度はこの鏡を私にくれ、愛を誓ってくれた貴方が
 異民族の娘であるシェイリィを選んだあと
 私がどれだけ貴方を愛しても、どれだけ貴方のために尽くしても
 結局は報われなかったけれど。

 貴方は、妾将軍として私なりに貴方を支えた私に
 北の国への追放を命じた。
 極寒の国に赴く私は
 それでも貴方を信頼していた。

 手放しの信頼は、弧絶と暴走を生む。

 歌曲の中でそう謳った女は、そう言って劇の中で死んだけど。
 私は生きて生き抜いてみせる。
 生きて生き抜いて、貴方の国を影から支えられるような
 そんな国を作ってみせる。
 決して折れない、覇者の国を。

 そのためには、鬼にも悪魔にもなりましょう。
 そのためには、思いも心も捨てましょう。
 そして、それが全て終わったら、
 また貴方に会いに行きましょう。
 そのとき、貴方は私を迎え入れてくれるかしら。
 
 デュオン。
 ただひとり、私の愛したひと。
 私は今はただひとり、私を愛した貴方を信じるだけ――


カレン・クリストファ



 海はやさしく彼女の思いを包み込み、やがて波間へと全てを飲み込んでいった。


第二話 妾将軍の秘宝 完
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