――約十年前 シルヴェア国
自分の『夫』となる人間に、特別な興味があったわけではない。
彼女自身、そんなことを自覚するのには幼すぎたし、それは相手の『夫』にとってもそうだっただろう。
ただ。
――『政略結婚』。
幼すぎた彼女の耳にも、その言葉は良く馴染んでいた。
――時は遡るソエラ朝の大融和時代。
妾将軍の率いる軍が、極寒の国セドリアを分離、独立するそのどさくさに紛れて、南部ルーラ地方が独立した。
その後のソエラ朝とうまく同盟関係を保ってきたセドリア国と異なり、ルーラはひたすらに中央のソエラからの完全な自立、対等関係を目指し、その姿勢は同国の外交政策にも大いに反映されてきた。
中央がソエラ、大空白時代、そしてシルヴェアと名を変えていく最中、ルーラはほぼその干渉を受けることなく独自の発展を遂げ、中央側からすれば、『得体の知れない』独特の歴史を築いてきた。
当たり障りのないその関係が大きく揺らいだのが、シルヴェア朝末期、三大賢臣と呼ばれる左大臣バティーダの補佐によって、後の『賢王』と呼ばれるドゥレヴァが即位して、しばらく経った頃だった。
晩年は『慎重派』として、あらゆることを周囲の理解を経ながら穏便に進めるという手腕を発揮したバティーダだったが、ドゥレヴァが即位した当初の治世は積極的かつきわめて『合理的』――シルヴェアにとっては最良の益を追及しながらも、相手の国にとっては必ずしもそうではない、『強引な』手段を惜しげなく絶妙に使い、『暗黒の隣人』と呼ばれていた南のルーラに干渉をかけ始めたのだ。
世界の頂点に君臨する大国の圧力にはさすがに屈し、考えた末にルーラの国王はしぶしぶ愛娘をシルヴェアに嫁がせることを約束する。
俗にいう政略結婚。
ほぼ『人質』としてシルヴェアへの花嫁となった娘は、当時齢六才。
相手は、シルヴェア国王ドゥレヴァの養子、異民族にして盲目の同じく六歳の王子、フェイだった。
(屈辱的ですわ…)
(どうして、栄えあるルーラの王女が、養子に嫁がなければいけないのだ…)
(これでは、ルーラの体面に傷が)
(王は、何も考えておられないのか)
(姫様もおかわいそうに)
「…」
互いのお披露目にシルヴェアを目指す馬車の中で、彼女は、ふっと息をついた。
六歳という、その年齢にはあまりにそぐわなさすぎる重い、そして暗いため息。
窓の外は降りそうでふらない泣き出しそうな曇り。
馬車の荒々しい振動に揺さぶられて、こちらが泣き出してしまうそうにも思える。
ぎゅっと握りしめたこぶしは、もういい加減にツメが食い込んで痛かった。
「…」
それでも手を開こうとせず、こわばった肩をいからせて、彼女は同じように力を込めた瞳を、じっと窓の外に向けていた。
厚い雲の壁と、周りの者たちが心ならず落としていった言葉の数々が、だぶって見える。
『子供には理解できない』内容だったのだろうが、その本当に意味するところは彼女にはちゃんとわかっていた。
つまり、彼女自身にとっては、決して幸せな出来事ではないこと。
それは、押し潰されそうなほどに、暗くつらいこと。
「…」
馬車の中には、なじみの侍女も、親しんだ小姓もいない。
優しい母も、時々怖い父も。
ただ、景色だけが、彼女の目の前を過ぎていく。
泣き出しそうな目をこすって、ふっと前を見つめなおしたとき、
「え?」
悲鳴が、聞こえた。
馬が、いななく音だった。
「!?」
身体が宙に浮かぶ。
無防備に投げ出された肩が、馬車の扉にぶつかり、横転した衝撃で開いたその空間から、彼女はたやすく投げ出されていた。
「きゃぁあああ」
かすれた悲鳴が、耳を空しく駆けていく。
何があった。
何が起こった。
ぐるぐると回転する頭。
ごろごろと転がる体。
やっと起き上がったと思ったら、首を何かにつかまれて、宙に吊り下げられていた。
背中に感じる、野太い男の呼吸。
父とはまったく違う、荒々しく容赦のない、獣のような吐息。
「きゃ…」
言いかけた悲鳴が、のどの奥で凍った。
見開いた瞳に、横転した馬車と下に轢かれた御者のなれの果てを――彼女は、見た。
見てしまった。
「いやだぁああああ」
泣き叫ぶ。
何があった?
何が起こった?
理解する前に身体がものすごい力で地面にたたきつけられていた。
息が止まる。
悲鳴もとまる。
混乱する情景の中で、おそらくいま彼女を地面にたたきつけた大男が、ちっと唾を吐いた。
「うるさいガキだぜ。宝が手に入れば、用はねえ。死ね」
今、男はなんと言った?
なんと言われた?
呆然と座り込む彼女の脱力した瞳が、振り上げられた剣を映して、見開かれた。
「あ…」
空気が止まる。
時が止まる。
止まった時の中を、剣は降り落ちていく。
――彼女めがけて。
「あっ…!」
私は死んでしまうの?
こんなところで。
人質にやられて。
その使命すら、果たすことのないまま。
「あ………」
そのときだった。
男の腕が、ふっとんだ。
「!?」
驚愕は、同時だった。
少女と、大男と。
地面の少女に負けず劣らず、呆然と目を見開いた男は、直後、鮮血を宙に吹き散らしながら、絶叫した。
「な…あ…」
馬蹄の音がする。
こんなに近くに響くまで、彼女はそれに気付けなかった。
馬を駆ってきた少年は、引き連れてきた背後の大人たちに、何かを言った後、彼女の元に来る。
大人たちが、賊を取り押さえる中を、一人悠然と駒を進め、彼女の目前でふわりと飛び降りた。
「だいじょうぶだった?」
はにかんだような、幼い声。
それが、自分とほとんど同じ年頃の少年のものだと気付いて、彼女ははっと目を見開いた。
だが、彼女が驚いたのは、その幼さだけではない。
こぼれるような、青銀の髪。
異民族の印。
そして、白い布に覆われた瞳。
目の見えない状態で、彼は自分の手にした弓矢で大男の腕を貫いたのだ。
「あなたが来るってうかがったから、むかえに来たんです。このへんは物騒だから…間に合ってよかった」
こぼれるような笑顔。
やわらかい言葉。
その温かさに触れた瞬間、彼女の胸の中にわだかまっていた『夫』に対する悪い思いの全てが、泡のように掻き消えていった。
「あの…お名前は…なんとおっしゃるの?」
どきどきする鼓動とともに、声も高くなる。
はにかんだ異民族の王子は、ちょっと小首を傾げてふんわりと笑った。
「ぼくはフェイ。フェイ・シエル・ルーヴェ・シルヴェア」
手を差し伸べて、
「あなたのおむこさんになる人です」
彼女は、すっかり恋に落ちてしまった。
夢のような『お披露目』を終えて、彼女が国に帰国したのは半年後、また来年会う約束をしっかりと幼い小指に刻んでいた。
彼女は、約束どおり、『夫』に会いに翌年もシルヴェアに赴く。
だが、それは、彼のお葬式だった。
|