――?年前 シルヴェア国
――彼女は、白い花をくれた。
「あなたは、いつも白い布をつけているのね」
春の風が、ふわりと花びらの香りを運んでいた。
綿毛のような手が、彼の髪を撫ぜる。
一面の花畑の中に咲く小さな花を、そっと青銀の髪へと差した。
首を傾げる仕種。
布の下にある瞳の色をなぞるように。
くすぐったくって、彼はくすくすと笑った。
幼い高い声は、風に乗って花びらの香りに交ざっていった。
「とらないの?」
「目が、見えないんです」
彼は、そう応えた。
幼い王子は、周りが『そのように言いなさい』といったことを、疑いもなく口にした。
本当はちゃんと目が見えるのに、いつも白い布をつけていなさい、と。
彼は、自分の『父』や『母』や『きょうだい』たちが、本当に血のつながった人たちではないことや、『よそからもらわれてきた』自分の立場を理解していた。
だから、大人たちから言われたように、素直にそのように言った。
そんな彼だったが、『混血児』の瞳の特殊な色と、それに向けられる憎悪を彼が知るのは、まだもう少しだけ先の話だ。
なぜ、そんな自分を周りが『王子』とみなしていたのかについて、考えることも。
ただ今は、小さな婚約者への小さな罪悪感で、彼の胸はいっぱいだった。
「目が、見えないの?」
「うん」
「生まれつき?」
「…」
生まれつき見えないのかどうか。
大人たちに教えられた答えの中には、それに関する言葉は見当たらなかった。
彼は首を傾けた。
さらさらと自分の髪が風になびくのを感じながら、一生懸命に考えた答えを言う。
「んーとね。…分からないんです」
「分からないの? 自分が、いつ目が見えなくなったのか」
「うん」
こくんと頷く。
風に舞う花びらが、さらさらと頬を掠めていった。
ルーラ国から来たお姫さまは、ふーん、と考えているようだった。
彼女が考えているその間、彼は、全然お母さんに会えなくて寂しくないのかな、とぼんやり考えていた。
ふと風がやんだとき、彼女は不意に切りだした。
「あのね、フェイ王子」
「はい」
「わたしね」
彼女の声には、とてもいいことを思いついたときの、いきいきと弾んだ調子があった。
首をかしげて続きを待つ婚約者に、ルーラの王女は言った。
「大きくなったら、お医者さんになるわ」
「えっと、僕のおよめさんじゃなくて?」
「ううん、あなたのお嫁さんで、お医者さんになるの。そして、あなたの目を治してあげるの」
「…」
一生懸命に言ってくれる言葉に対して、ちょっとだけ、彼の胸が痛んだ。
本当は見えるのに。
そして、本当のことをいってしまおうかとも悩んだ。
僕はほんとうは目が見えるんです。
「………」
「それでね、あなたの目が治ったらね」
彼の葛藤には気付かず、彼女はふわふわと踊るような調子で先を続ける。
踊るような感じで。
物語に出てくる、妖精のような感じで。
「そのときは、絶対に、わたしを最初にみてね。だって、わたしはあなたのおよめさんなんだもの」
「はい」
とても明るい声に、つられて彼も微笑んでいた。
後ろめたさも、ずきんと痛んだ胸のつらさも、今はうそのように消えていた。
「はい、ぜったい」
目が見えるようになったら、あなたを一番さいしょに見ますから。
「約束ね」
「約束します」
触れて離れた小さな指。
その小さな手のひらに、彼女は白い花をくれた。
「約束…また、来年も会えますように」
そしてそれが、彼が『王子』として出会った彼女の、最後の時になった。
■
「………」
静寂に満たされた森の中。
深く集中するように、ローブの青年は立っていた。
ふわりと振れるすそが、風のけはいを知らせる。
やがて、口から漏れ出したのは、透き通った歌のような旋律だった。
「――空高き天の楽園に 舞い降りし風の一欠けら」
紡がれていく言葉の端々から、きらめくような魔力の残滓が、地面に零れ落ちていく。
具現化していく風の軌跡が、術者の望むものを眼前に展開していった。
城――街――そして、洞窟。
大体の位置を把握し、その情報を整理していく。
(――それでね、あなたの目が治ったらね)
ふと、術の中に邪念が入り込んでいた。
無意識に、手繰り寄せた記憶。
ふたをし、忘れたはずの遠い思い出。
否、『思い出』とすら呼べない。
強いて言えば、幻のようなものだろうか。
(そのときは、絶対に、わたしを最初にみてね。だって、わたしはあなたのおよめさんなんだもの)
声だけの婚約者。
しかも、会った時間は驚くほどに短い間だけ。
とっくの昔に忘れきってしまっているはずの話を、断片でも思い出したのは、旅の間中、例の姫から『フェイ王子』の話を聞かされ続けたからか。
「………」
くだらない。
彼は、いたって淡々と口の中で呟いた。
生まれたときから一切の感情をなくしてしまったような。
そんな冷たさの断片を言葉にして、再び術に没頭した。
流れていく情報。
ここから急げば、歩いて三日ほどで着く距離か。
だが、自分は徒歩。
相手はおそらく馬だろう。
連中が、ただの人さらいか、それとも――例のアルフェリア将軍の話を真実と仮定すればの話だが――王国にとって邪魔な姫君を、王国から抹殺の依頼でも受けた暗殺集団の類か。
人さらいならば、問題はないと言えば語弊があるが、最悪すぐに命は取られることはないだろう。
姫を営利目的に使うことも、労働力として売り飛ばすこともできる。
自噴して死なない限り、時間的な猶予はあるはずだ。
だが、そうでない場合。
王国が手を回して王女の抹殺を依頼した場合。
要は、王宮内で王女が表立って死ぬと、いらぬ噂が立つ。
それを避けるために、別の人間に殺害を依頼したのであって、盗賊の方は足の着かない場所でさっさと『依頼』をこなすだろう。
警備が万全のはずの王宮から、『誰にも気付かれず』忽然とさらわれた姫。
このことを考えると、断然後者の可能性が濃厚だった。
「………」
ふう、と息をついて、彼は駆け出した。
とりあえず適当に馬でも調達するか。
幻に抱く思いはないが、女が殺されるのはさすがに寝覚めが悪かった。
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