――ルーラ国国内 ???
「っ…」
岩肌が剥き出した洞窟の中。
ぽたぽたと滴る水滴が、水溜りをつくる泥の中へ、盗賊は抱えていた人間をどさりと投げつけた。
まるで荷物のように。
「ふん…」
物を見る目つきで、彼は床の物体に向かって眼光を放つ。
さるぐつわをかまされ、髪を振り乱したルーラの姫君は、縛られたせいで身動きができない身体を懸命にひねって、きっと男を見上げていた。
殺すなら、殺せ。
無言の言葉が、強い視線となって、男を貫く。
「………!」
だが、男は軽く受け流しただけだった。
痩せすぎて骨が突き出た顔の中で、何かを亡くしてしまった瞳は、やがて興味をなくしたように姫から視線を外す。
「俺は――あんたを殺す」
ぼそぼそと陰にこもった聞き取りにくい声で、彼は告げた。
夜に城に忍び込み、ほぼ丸一日、馬を使ってここまで来た。
疲れているが、仕事はさっさとこなした方がいい。
入日の赤が、ふと洞窟の中に差し込んできた。
血のような赤だった。
「楽しんでから――と言いたいが、俺も疲れているんだ」
「…」
なぜ、と犠牲者の瞳が問う。
誰が、どうして。
それを見取った暗殺者は、肩を竦めて言ってやった。
「あんたを殺すよう依頼したのは――」
耳元で、残酷な事実を吹き込んでやる。
同時に、目を見開く王女。
信じられないという風に力なく首を振る。
そのさまは。
――若い女がうちひしがれるそのさまは。
皮を剥ぎ取って剥製にしておきたいほど、彼にとっては魅力的だった。
惜しいな。
依頼主から、『全ての証拠を残すな』といわれていなければ、生きたまま皮を剥いでやって、綺麗に剥製にしてやるのに。
「………」
いや、待てよ。
彼の頭の中に、ある考えがひらめいた。
生きたまま皮を剥いで、しばらく飾ったあと、その後に燃やしてしまえばいいではないか。
「…」
そうだ、それがいい。
彼は、頷いた。
ぼそぼそと一人呟きながら、道具をとりに行くために、奥へと一旦引き下がっていく。
仕事としての暗殺は、瞬殺が原則だったが、こうして誰にも邪魔をされない場所でなら、少々楽しんでもいいだろう。
「…」
やがて、愛用の道具を持って、彼は生贄のところに戻ってきた。
何かを覚悟した様子の女は、ひどく青ざめていたが、見事なことに、いまだ取り乱していなかった。
静かな、しかし苛烈な瞳で男を見上げている。
ぎらりと掲げた刃をかざし、男はそれをすっと彼女の顔に当てた。
一筋の赤い線。
「!?」
はっとした様子で、女が彼を見上げる。
「すぐには殺さない…」
ぼそぼそと口の中で呟きながら、女を押さえつける。
すぐには殺さない。
綺麗に、剥ぎ取ってから――
「!!」
その段になって、ようやく女が恐怖のそぶりを見せ始める。
だが、もう遅い。
せいぜい、怖がってみせてくれよ。
「………」
口元に淡い微笑を浮かべて、彼は握ったナイフに力を込めた。
まずは、顔だ。
夕日の赤が、血のようだった。
■
彼は、白い花をくれた。
「…また、会える?」
涙でにじんだ目をぱちぱちと瞬かせ、彼女は馬車の窓から身を乗り出した。
小さな彼女の小さな婚約者は、小首をかしげて朗らかに言う。
「来年また会います。今度はぼくの方から会いに行きます。あなたの国が見たいから」
「目がみえないのに」
「目が見えなくても、大丈夫です。行ってみたいんです、あなたの国に」
きゅっと握って話した手が、風にひどく冷たかった。
彼女は幼いなりに、何か予感のようなものを感じていた。
それは、別れの前の独特の寂しさに交ざって、切々と胸の中にわだかまっていた。
「………」
もう、ここで別れたら、一生あえないんじゃないか。
その思いがただ、心の中にあふれかえっている。
悲しくて、つらくて、泣いてしまいそうになる…
「………」
小首をかしげていた王子は、ちょっと待ってて、と言い置いて、とてとてと走っていってしまった。
お別れの時間は迫っている。
どうせ、別れてしまうなら、少しでも一緒にいたかったのに――彼は、どこに行ってしまったんだろう…
「…」
長い間、彼は戻ってこなかった。
出発の時間が来ても、まだ戻ってこなかった。
そろそろ行きますよ、御者がそう告げて、何度もそう告げて、それでも待って、と言って。
もう待ちきれなくなったとき。
「…ごめんなさい」
とたとたと、軽い足音を立てながら、彼は戻ってきた。
どこに行っていたの…?
そう、尋ねようとする彼女に向かって、彼はすっと手を差し出した。
目が見えないはずなのに、それはまっすぐ、彼女に向かって届いていた。
「これ」
落ち葉のような小さな手の中に、咲きかけの白い花がちょこん、と座っている。
綺麗な、小さな白い花。
「これが咲く頃には、ぼくがあなたを訪ねて行きます」
「…」
「だから、待っててください。すぐに行きますから」
よっぽど急いでつんできたんだろう。
見えない目で、とってきてくれた――
そのとき、彼女の中に、お別れのさびしさとは違う気持ちが、こんこんと湧いてきた。
「また…」
声を詰まらせて、彼女は言った。
「また、…必ず…!!」
馬車は、重い音を立てて、シルヴェアから去っていった。
彼女が彼からもらった白い花は、開く前にかれてしまった。
彼が彼女に会いに来る前に――
そして…。
「っ…!!」
背中を伝い落ちる恐怖。
顔の上を、刃物の冷たい感触が這いずり回る。
どこから刃を入れていこうか――絶好の場所を探しているように、彼女には感じられた。
狂った男の手で、狂った殺され方をされる――、さすがに、テスタロッサは身を竦めるしかなかった。
誰も見ていなくても、どんなに惨めだろうと、どんな辱めを受けようと、王族の誇りを持って死のう――そう思っていた。
最期まで取り乱すことなく、凛としていよう、と。
だが。
だが、これはあまりにも――
(誰か――!!)
ほとんど祈りに似た心境で、彼女は叫んだ。
夕日の赤が目に痛い。
誰も助けにくるはずがないと分かっていても、だが、彼女は祈ることをやめられなかった。
(どうか…)
こんなときに、あの人が助けに来てくれたら…!!
「え?」
その瞬間は、あまりにもあっけなく訪れた。
シルヴェア王国で、闇の石版が砕け散り、王位継承者スヴェル、王女ソフィアは死亡、彼女の婚約者であるフェイは一命は取りとめたが、石版を砕け散らせたのは彼ではないか、という噂がまことしやかに流れているというのだ。
「…そんな」
周囲の人間の言葉など、一切耳に入らない。
世界が崩れ落ちていく感覚。
――石版を砕け散らせた王子の婚約者、という彼女の肩書きが、『元』婚約者、となるのに、時間は掛からなかった。
容疑をかけられた王子は、シルヴェアの高い崖から、城中の人間から追いつめられ、高い高い影の上からまっさかさまに落ちていってしまったのだ。
そして、彼女には、『石版を砕け散らせた王子の元婚約者』という肩書きだけが、残った。
どんな気持ちだったんだろう。
崖の上からまっさかさまに落ちていくのは。
どんな恐怖だったんだろう。
ナイフを突きつけられ、顔を傷つけられようとしているのと同じくらい、怖かったんだろうか。
死の恐怖を。
今、彼女を支配している、耐え難いこの恐怖を。
それを、彼女の婚約者は、たったの七歳で味わわなければいけなかったのだ。
「っ…」
涙が滲む。
この恐怖の先に、彼が待っているのだろうか。
夕日の赤が目に痛い。
あの赤に負けないくらい、自分の血も赤いのだろうか――
「ぎゃああああああああ!!!」
じっと目を閉じて考えにふけっていた彼女は、突然耳を襲った声にぱっと双眸を見開いた。
焼きつくのは、夕日の赤、そしてその赤に負けないほど鮮やかな、真紅の水――
(え?)
ナイフを持った手にナイフを突き立て、そこから血を噴出していた暗殺者が、彼女の視界に映りこんだ。
何が起こった。
どうなったの?
「…っ」
不自由な身体を何とか起こし、テスタロッサはじっと目をこらす。
開けた視界。
差し込む赤い夕日を背にして――見覚えのあるローブの男が立っていた。
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