――堕天使の聖堂 近隣の村付近
「すごい…霧が深いわね」
「だな、はぐれなんよ。ティナ」
「うん」
アベルとクルスを村に残して、聖堂直近の村にたどり着いた翌朝。
ティナとアルフェリアは、行方不明者と、そして『蒼い髪の女』と『異民族の女』を探すために、聖堂の近くに赴いていた。
彼女たちの手元には、『印』が一つしかない。
カイオス・レリュードが南方守護府からもたらすもう一つの印がなければ、聖地に立ち入ることは自殺行為に等しいので、彼女たちは自然、聖堂の周囲を周るしかなかった。
だが、その道々を、深い霧が阻む。
息を吸ってはくたびに、霧が身体の中に入ってくる。
吐き出すたびに、体内の霧と『自分』とが、一緒に外に出て行く気がする――
そうして、自分が、乳白色の空気の中に、溶け出して行き出しそうな。
深々とした、静寂。
耳が痛くなるほどに。
その中を、朝露を払いながら、彼女たちは進んでいた。
「行方不明の人たち――なかなかいないわねえ」
「女たちもな」
ティナは肩を竦めた。
いつもはすがすがしいほどに、『人は人』『自分は自分』で割り切っているような男が、どうして、『聖地に踏み込んで行った女』を気にするのか。
少し前に、接触して来た『ダグラス』とカイオスの関係を話さないで済ませた手前、彼女の方から聞くに聞けない話題ではある。
だが、もしもティナの知る『蒼い髪の女』と、アルフェリアの探す『蒼い髪の女』が同じ人間だったなら。
彼女と彼は、どんな関係なんだろう…
ちらりと伺った拍子に、足元がつまずいて、彼女は慌てて歩くことに注意を戻した。
歩き続けてどれくらいになるのか。
ひんやりとした南の朝のなかで、額の汗を拭いながら、二人は言葉を交わす。
時間の感覚が狂いがちだが、そろそろ三時間くらいは経つかもしれない――
日も大分高くなっているんじゃないか。
――霧で何も分からないが。
「しっかし、この霧――」
ティナは呆れたように自分の目線を少し上向けた。
「むちゃくちゃよねえ…」
「確かに、時間的にはとっくに消えてもいいわなあ」
「魔力が捻じ曲がっているところじゃ、よくある現象なんだけどね」
応じたアルフェリアに向かって、ティナは肩を竦める。
「夕方には、毎日のように霧が出てる――とは聞くけど、朝は、そんなに出てないそうじゃない。それがこの有様ってコトは、やっぱり魔力が変動してるんだと思うんだけど」
「道が、分かりにくいな。うっかり、聖地に入らないようにしねーと」
「けど、聖地って、入り口に目印か何かがあるんでしょ?」
「ああ。双頭の獅子だな」
『聖地』と『その他の部分』を分けるのは、地面に突き立った二本の銅柱――その上に鎮座する、双頭の獅子を境にしていた。
人は、このたった二本の柱を頼って、自分たちの『領地』と堕天使の聖堂とを住み分けているのだ。
しかし、そうはいってもやはりよく迷う。
それで、この土地には『行方不明』者が後を絶たない。
その『行方不明』者が爆発的に増えているから、村人たちの間に不安が出てき始めているのだろうが。
カイオス・レリュードの予想通り、堕天使の聖堂に石版があるとして、真っ先にその魔力に飲み込まれるのはあの村だ。
まだ、小さな不安。
早めに潰してしまうに限る。
「そういや、知ってるか?」
「何?」
「人がここでよく行方不明になるのは、聖地との境が分かりにくいだけじゃないって」
「そうなの?」
視線をずらして、見上げた男は、いつものように、にやりと笑っている。
かなり距離は近いはずなのに、その姿さえも、霧の向こうにかすんでいた。
本当に、身体の脇に下ろした自分の手すら、乳白色の空気の中に溶け込んでいる。
うっかりとつまずかないように注意をしながら、彼女は話の続きを待った。
アルフェリアは語る。
霧にさらわれて、それはどこか間遠に聞こえた。
「迷い人は、聖地と人の地の狭間で迷った挙句、どこでもない『異世界』に通じてしまう…ってな…」
「…」
異世界…。
その言葉は、どこか不思議な感覚で、彼女を打った。
霧の中の白い世界で。
隣りの男さえも見えない空間で。
それでも普段どおりの男の声音が、それはとてもよそよそしくティナの耳に届いた。
「時空が歪められている…そうとも言われてるらしいぜ」
聞いた話だけどな、と。
語る言葉の半ばから、ざあ、と風にあおられた深い霧が、ティナの目の前から、一瞬、アルフェリアの足音や、その影さえも連れ去って行った。
「!!」
はっと我に帰って、ティナは手を伸ばす。
白い壁を突き破って、探った先はウソのように何もなかった。
「ちょっと…アルフェリア!?」
うそ、はぐれた?
慌てて声を高めても、全て周りの霧が持っていってしまう。
石版の魔力は、ここまで影響を持つのか――
白い霧が、ティナを飲み込んでいく。
ゆっくりと。
幼子を腕(かいな)に包み込むように。
白い霧が全てを。
覆い尽くしていった。
|