「おい、ティナ!?」
突然風が吹き、霧が目の前を過ぎ去って行ったかと思うと、彼の眼前には、何も残らなかった。
何も――跡形も。
「うそだろ…?」
ありえない、と自分に囁きながらも、彼は呆然と立ち尽くす。
さっきまで、すぐそこに居た。
視界がふさがれたのは、一瞬だ。
それなのに――けはいごとその空間からは、彼の仲間は消えていた。
「…」
呆けたのも一瞬、すぐに現実に立ち戻った彼は、油断なくあたりを見回す。
彼女がその場から『消えた』のか。それとも、『消えた』のは自分の方か。
(まったく…なんなんだここは)
舌打ちしながら、辺りを見回した彼の眼光が、ふとある一点を刺して、すっと細まった。
「…」
動きを止め、けはいを絶つ。
獣の所作で。
彼は、すべての動きを止めた。
呼吸さえも細く、消え入りそうなほどに――
(誰だ)
少し先、距離を置いて、茂みを掻き分ける音が二つ。
男の手が剣の柄にかかる。
かちゃり。
剣が抜かれかけた瞬間、
「もう、なんなのよ、この霧!」
「全然、晴れませんわねえ」
一つは、女にしては多少低いハスキーボイス。そして、一方は彼にとっては聞きすぎて聞き飽きたほどの、紛れもない『知人』の声だった。
(…な)
彼は、珍しく、間の抜けた顔をした。
偶然もここまでくれば、笑えてくる。
死んだと思っていた女。
世界で一番会いたくなかった女――
「ジュレス」
思わず紡いだ言葉が、辺りの霧に吸い込まれていった刹那、眼前のけはいが、ぴたりと止まった。
■
「ティナさん達、行っちゃいましたねえ〜」
小さな村の小さな宿屋に、二人きり。
アベルとクルスは、何となくカードのゲームに興じながら、ぽつぽつと会話を交わしていた。
ここ最近、霧がすごくて村でもあまり太陽が拝めないという。
眉を曇らせて、宿の女主人が語ったところによれば、普段は聖地の周辺を薄く取り囲んでいるだけの霧は、少しずつ村の方まで広がり、そのせいで農作物にも影響が出ているという。
「大丈夫でしょうか…」
「ティナとアルフェリアで大丈夫じゃなかったらさ」
心配そうなアベルに対し、クルスははぐはぐと果物を頬張っている。
自分の手元のカードを見ながら、
「誰が行ってもだめだと思うよ」
「…」
さらりとした言葉に込められた、無言の絶対の信頼。
アベルはぱちぱちと瞬いた。
そして、そうですね、と呟いた。
「ティナさんたちにしてみれば、クルスさんがいないから、大変かもしれないですよね」
「うー?」
「私のせいで残らせてしまった。そういうことですよ」
迷惑しかかけてないですね、私。
そう、アベルは言う。
何となく暗い表情をした少女に向かって、クルスはしばらく考えて、ぽつりと言った。
「確かに…たたかいだと、アベルは役に立たないよね」
「…」
少年は、言葉をあえて選んでいない風に囁いた。
あまりの直球な言い方に、アベルもなかなか二の句が告げない。
クルスはにゃーと手元のカードを捨てた。
ハートとダイヤのエースのペア。
次はアベルの引く番だよ、と差し出しながら、その言葉の続きをいった。
「けど、アベルにしかできないことがあるから、ここにいるんでしょ?」
「…そうなんですけどね」
『自分にしかできないこと』――
それが分からないから、苦労しているのだ。
どこか、どっち付かずな雰囲気をしたカイオスを繋ぎとめておくため?
それとも、アベルの同行を勧めたドゥレヴァには、他に何か意図するところがあるのだろうか。
けれど。
「お父様が何考えているかなんて、私には分かりませんよ」
「…」
うーん、とクルスは唸る。
アベルはその間に、少年の手元から一枚カードを抜き取った。
ジョーカー。
何なんですかソレ。
最悪のカードですね!
「やったー」
にやりと笑ったクルスをにらんでアベルはため息をつく。
そんな少女へと、クルスは黒い瞳を向けた。
「あのさ、アベル」
「何ですか?」
「オレ、思うんだけど」
ひょいっと彼は王女のカードを抜いた。
それは一枚差で彼女のジョーカーを掠めて、また一組、ぽいっと捨てられる。
「国王さまがどうとかじゃなくって、アベル自身が、どう思うかじゃないのかなって」
「私自身が?」
「うん」
アベルはクルスのカードを抜いた。
スペードの八。
ペアを捨てて、彼女はぱちぱちと瞬いた。
「どういうことです?」
「だから、アベルは、このたびについてきて、どう思ってるのかなって」
「…」
「自分の役割を知ってることも大事だけど、それが分からないんなら、自分がいま旅についてきて、楽しいかどうか。それで決めればいいんじゃないかな〜」
「自分が楽しいか…」
アベルはふと、手元に目を落とした。
手の中のジョーカーは、おどけた仕種で彼女を見返している。
それが、ふっと抜かれていった。
視線を上げると、少年は、うわ、と言う顔をしている。
「確かに…」
アベルは呟く。
王宮にいて、ほとんど人と関わらない生活をしているよりは、
「だいぶ、楽しいですね!」
「うん!」
それでいいんじゃないの?
そうやんわりと言われて、彼女はこくんと頷いた。
■
「アルフェリア…」
「ジュレス…」
霧の狭間を縫って、出現した女の陰影。
蒼色の髪。
碧色の瞳。
艶やかな唇を、今は驚きの形に微かに開き、妙齢の女は次にさらりと髪を梳いた。
指櫛の間から、さらさらと数本零れていく。
「…こんなところで会うなんて、ね」
「偶然ってこえぇな」
余裕の女と対照的に、ゼルリアの将軍はどこか旗色が悪い。
少しばかり気圧されたような様子で、ほとんど憎まれ口をたたくように言った。
「生きてたのか」
「あら、私が生きることに、あなたの許可がいりまして?」
「いらねーよ。けど、その服どーにかしろ。二十五にもなって、みっともねーぞ」
「そんなことあなたに言われる筋合いありませんわ! 本当に礼儀のひとつも覚えてないのね。生まれたての猿の方がかわいげがありますわよ」
「言ってくれるな、年増女」
軽口程度の憎まれ口が、どんどんと程度を上げていく。
言い合いが、みるみる加速して音程を二つほど上げたところで、すっと今一人が割って入った。
「ちょっと、お二人さん」
「あ?」
「ウェイさん、何かしら」
「ちょっと話についていけないんだけど」
うっとおしげに振り返った二人に対して、ウェイは同じく碧色の瞳をぱちぱと瞬いてみせた。
「あのね。遮って悪いんだけど、何がなんだか、さっぱり分かりないわ」
「何がだよ。てか、あんた誰だ?」
「ウェイ」
赤い唇が弧を描く。
それは、微かな色香を漂わせていて、一瞬、アルフェリアは押し黙った。
だが、すぐにいつもの余裕を持って続ける。
「なるほどな、ウェイ。俺はアルフェリア。――んで、何なんだよ一体」
「それが聞きたいのは、私の方。二人の関係は一体なんなの?」
「…」
「…」
ジュレスとアルフェリア。
二人は同時にお互いを見た。
そして、同時にウェイの方に向き直る。
これまた二人して、どこかいやそうにお互いを指差しながら、
「姉」
「弟」
そこはかとなくいやそうな声で、同時に淡々と言った。
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