Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  第七章 堕天使の聖堂 
* * *
 ――霧の中を歩いていた。


「アルフェリアーー?」
 霧に向かって声を張り上げながら、ティナは何度目か――十何度目かのため息をついた。
 ミルク色の霧は、深々とどこまでも彼女を包み込み、声も彼女自身の下半身さえも呑みこみながら、ゆらゆらとたゆたっている。
 このままじゃあ、双頭の獅子を越えて、聖堂に入ってしまったかもしれない。
 その物騒な門番に鉢合わせるのは絶対にごめんだったが、かといって自分がどこを歩いているのかさえも分からなければ、結局同じことだった。
 どの辺りだろう。
 どのくらい経ったんだろう。
 そして、石版は――
(こんなところで、どうやって…)
 石の欠片を見つけろというのか。
 彼女はふうっとため息をついた。
 堕天使の聖堂――。
 第一次天地大戦が起こる遥か昔。
 天界の栄光をほしいままにしていた天使ルシフェルは、神からいわれの無い『天界追放』を――『堕天』を、命じられた。
 天界に住まうもの、あらゆる者の最大の屈辱。
 己の潔白を説くも空しく、結局地界へと下るルシフェルは、その最中、地上で息を呑むほどに美しい風景を目撃する。
 時は夕暮れ。
 海の彼方にいき行く太陽に、広々とした大地は炎のような茜に染まり、穏やかに吹き行く風が、その地を祝福していた。
 堕天使は、その地に、己の憎しみを――悲しみをぶつけた。
 後に、地界の王カオス亡き後、魔王となった彼の大きすぎる悲しみは、かの地を歪め、呪い、貶めた。
『堕天使の聖堂』。
 今も魔王の血の涙の名残か、霧の立ち込める聖堂は、夕暮れの時刻になると、真っ赤に染まりつくすという…――。
(血色の霧…か)
 さくさくと草を踏み分けていったティナの足が、ふと止まった。
「…」
 辺りを見回し、眉をひそめる。
 立ち込める白い霧。
 太陽の光が遮ぎられているせいで、時間がまったく分からない。
 長いこと歩き回っていたうちに、とうとう日まで暮れてきたのか――
 たちこめる霧が、徐々に血のくれないに染まってき出したのだ。
(やばいな)
 彼女は唇を噛む。
 これから本格的に日没がやってくる。
 今はまだ、視界は保たれているが、もうひと時もしないうちに、暗闇がティナを完全に飲み込んでしまうだろう。
「…」
 ぎゅっと手を握る。
 さすがに、不安でつぶれてしまいそうだった。
 一日二日ならば、なんとかなるかもしれない。
 だが、見果てぬ白い――そして、血に染まっていく霧は、どこまでも深く、どこまでも果てしなかった。
 このまま――村の行方不明者たちのように、このまま、この地に捉えられてしまうかもしれない…
「………」
 ティナは一気に早鐘を打ち始めた心臓を必死になだめた。
 焦っていいことなど一つもない。
 けれども、『どうしようもない』ことも事実で。
「…」
 どうしよう。
 不安がとうとう口をついて出たとき、ふと、彼女の耳が『何か』音を捉えた。
「え」
 思わず呟いたのは、それがあまりに異質な『音』だったから。
「…これ」

 女の子の、泣き声?


「ふーん、アレントゥムで行き倒れた男…ねえ」
 ジュレスたちから『ダグラス』のことを聞き終わり、アルフェリアはあいまいに相づちを打った。
 彼女たちが崩壊したアレントゥム自由市にいたこと。
 そして、光と闇の陵墓で、あの『軌跡の召喚』に立会い、傷ついたダグラスを手当てした。
 アレントゥムで石版まで見つけた、という。
「何で、あんたらそこにいたんだよ」
「別に、なんとなく、ですわよ」
「なんとなくか」
 何となく、であんな目に遭い、何となく、であんな目に遭って生き残っていたら、世話はない。
 どこはなとなく、はぐらかすような印象も受けたが、突っかかるように詰問したのは自分だったので、彼はそこは素直に引いた。
「まあ…じゃあ、オレの勘違いだ。悪かったよ」
 殊勝に謝れば、目を細めたジュレスは何かいいたげだったが、ウェイの方がそれを止めた。
 大きな目で、アルフェリアを見上げる。
「じゃあ、今度はこっちが聞きたいんだけど、あなたは私たちに会いに来ただけ?」
「いや…」
 彼は、髪を掻く。
 堕天使の聖堂近くでの行方不明者を、探しに来た。
 石版を見つけに来た。
 もともとは、単純に詮索のつもりだったのだが――
「そういえば、あんたらは、金の髪の男やら、村人たちやらを見つけたのか?」
「いえ…」
「よく、この霧の中、一週間近くも無事だったな…と言いたいが、さすがにこのままうろついているのは、命取りだぞ」
「…え?」
「一週間?」
「?」
 アルフェリアの言葉に、女たちは、心の底から不思議そうに首をかしげる。
 ウェイが、眉をひそめていった。
「ねえ…あなた今、一週間って言った?」
「ああ」
「私たち…村を出たの…今朝方よ」
「は?」
 今度は、アルフェリアが眉をひそめる番だった。
 今朝方――というのは、彼女たちの感覚では、まだこの霧に入って、一日経っていない――と言うことである。
 これは、村人の『一週間くらい、戻ってこない…』という言葉と、相反するが…――
(あのおばさんが、勘違いしてたとかか?)
 彼は、ちらりと思って、すぐに自分の考えを打ち消した。
 まさか、そんなはずあるまい。
 だったら、彼女たちの時間間隔が狂っているのだろうか。
 ここは、外界から隔絶された、霧の中。
 ――だが、
(さすがに、昼と夜の違いくらいは分かるだろ)
 だとすれば、この時間の食い違いは、どういうことなのか。
「…」
「何よ、アルフェリア。何とか、言いなさいな」
「いや…」
 ジュレスに急かされて、彼はなんとなく、口を開いた。
 だが、肝心の言葉が出てこない。
 結局、さきほどの言葉をただ繰り返すだけになってしまう。
「オレも聞いただけだから、なんともいえないが、あんたらは、一週間聖地に入り浸ってることになってるらしい」
「…それって…」
 ウェイが言いかけたときだった。
 不意に、三人の間を風が流れていく。
 ざわざわと、霧の向こうで木々が鳴いているのが聞こえた。
 空気が、茜に――血の色に染まっていく。
 日没。
 堕天使の聖堂、魔王ルシファーの慟哭の刻。
「…」
 急速に流れていく景色に、三人の意識がそれた。
 風は流れ、空気は流れ、血色の霧もゆらゆらと漂うながら、流れていく。
 ふと、霧が薄れ、視界が蘇った。
 アルフェリアの目の中に、黒々とした陰影が移る。
(…?)
 彼は、内心首を傾げた。
 木々の陰、葉の影。
 では、それらと切り離されたところに――平坦な場所と思われるようなところに、泰然と鎮座する、あの棒のような影は何だ?
(棒ってか…――柱みてーな…)
 木々の節くれだったようなものとは違う、空に整然と直進する高い影。
 随分と装飾に富んだ柱なのだろう。
 ところどころに、規則正しい節がうかがえる。
 距離は測り切れないが、随分と太く――そして、彼の身長よりも高いもののようだ。
 まるで、大神殿に使われているかのような。
(んで…)
 柱の上に、鎮座するかのように存在する、『獅子のような』影。
(獅子みてーな?)
 そこまで考えて、彼ははっと目を見開いた。
 深い霧。
 道を失い、位置を失った。
 堕天使の聖堂と人間の土地を分ける、唯一の印。
「まさか…」
 双頭の獅子の柱。
 知らない間に、こんなに近くまで来ていたのか。
 いや、すでに『入ってしまった』可能性もある。
 霧に紛れた空間では、どこを歩いているのかさえ、分からないのだ。
 こちらは、安全な外か、危険な中か――『どっち側』か?
「…」
 厳しい視線で、身構えた彼の背後で、不意にけはいが現れた。

* * *
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