――???
(女の子の…泣き声?)
霧の中を歩いて、どれくらい経ったのか。
空気の乳白色が、堕天使の聖堂特有の鮮血の赤に染まる頃、さまよっていた彼女の耳に、微かな声が聞こえてきたのだ。
「――かないで」
なだめるような、声がする。
かん高い女の子の声とは別の、大人びた女の声。
ぐるぐると回る霧の中で、ティナは必死に音源を探る。
「やだ…!! お母さんと、お父さんと、離れたくない…!!」
「いい子だから…」
「レイザ…ルイ…」
泣きじゃくる声。
なだめるような声。
入り乱れて白い霧は、音も無くティナの周りを巡る。
(レイザ…?)
その、言の葉の一欠けらが耳に残って、彼女は眉をひそめた。
レイザ――まさか、ミルガウスの宮廷魔道士の?
――珍しいことも、あるものですよ。
堕天使の聖堂に行く途中――アルフェリアとアベルから聞かされた話。
聖堂に入るのに必要な『印』は、年に一度捧げられる子供たちの犠牲の上に成り立っていた。
そして――たった一人、聖地に連れられていって、『生きて帰った』子供がいた。
――その子供は、何年か前、両親に連れられて、印を持たずに聖地に入っていったんだそうです。周りは止めましたけど、全然聞かない様子で。
…数日後、子供が一人だけで聖地から戻って来ました。不思議なことに、彼女の髪は燃えるような真紅、瞳は深いワインレッドに染まっていたそうです。
燃えるような真紅の髪。
深いワインレッドの瞳。
名前は、『レイザ・ミラドーナ』。
――そうです。しかもおかしいことに、一緒に聖地に入った両親と、もう一人双子の弟がいたそうなんですが、その人たちの行方はそれきり全然なんですよね。
アベルの言葉を記憶に辿れば、レイザは一人で聖地に赴いたのではなかった。
両親と、弟。
どこからか聞こえる、泣きじゃくる子供と、なだめる大人たちの声。
(じゃあ、『ルイ』って)
ひょっとして、レイザの『弟』のことなのか。
だが、どうしてアベルに聞いた『昔』の話が、『今』『ここで』展開されているのだろう…。
「どういうこと…?」
首をかしげたティナは、やがて自分の足が止まってしまったことに気付いた。
いや――踏み出しているのに、進まないのだ。
空を歩いているような、そんな感覚。
草を踏みしめる感触も、木々のけはいもない。
全てが『白』の空間。
――そんなティナの前に、一つの『光景』がざっと現れた。
「っ…!!」
はっと彼女は身構える。
だが、踏み出した足は、まったく進んだ気がしない。
進んだだけ、『光景』が遠ざかっていくかのように。
そして、白い背景の中に、四人の人物がいた。
「泣かないで…レイザ、ルイ」
「やだ…離れたくない、お母さんと、お父さんと…離れたくない…!!」
泣きじゃくっているのは、十歳くらいの女の子。
同じような背丈をした男の子が、しがみつくように隣りに立って、だまって唇を噛んでいる。
黒い髪。
黒い瞳。
典型的な、第一大陸の民族の色をしている。
傍には、膝をついて女の子の頭をなでる若い女性と、それを静かに見守る男性。
女性は真紅の髪にワインレッドの瞳を、男性のそれは、子供たちと同じ色をしていた。
やがて、そのまま静かに時は流れ、突然場面が切り替わる。
(…なに?)
なんなの、とティナは目を細めた。
彼女自身は何も感じなかったのだが――眼前の四人の服が、引きちぎられんばかりにはばたき、その中心に立った女性が、真紅の髪をはためかせながら、何か天に向かって朗々と言葉を紡いでいる。
歌にも似た――そんな旋律。
魔方陣が光とともに描かれていくさまは、とても美しかった。
だが、子供たちは泣きじゃくり、男性は蒼白な顔で立っている。
嵐のような風の強さが、どこか残酷だった。
やがて、女の召喚に応じて『現れた』物体は、属性継承者であるティナですら、まったく覚えの無いものだった。
黒い『光球』。
漆黒――否、それは『虚無』さえ思わせる深さで、彼女の目を貫いた。
空間が、そこだけ『無』くなってしまったかのような。
そんな感覚。
それがだんだんと人型をとり、そしてティナは息を呑む。
(黒い…羽)
堕天使の証。
神の栄光から見捨てられたものたちの羽は、文字通り闇の色に染まりぬく。
黒い――四枚の羽。
どんな書物にも書かれている。
四枚ばねは、魔王の証だ。
(ルシ…ファー?)
どきん、と心臓が波打つ。
『堕天使の聖堂』を『作り上げた』哀しき魔の堕天使。
カオス亡き後に、魔王となったもの。
なぜ、それを人間が召喚する。
なぜ、それを――人間が召喚できる!?
「契約の時は来たわ、ルシファー」
髪をはためかせながら、女は言う。
その顔色は、蒼白を通り越して、どこか土気色だった。
「契約どおり―― 一人の命と引き換えに、次の『ヒトガタ』に宿ってちょうだい」
四枚羽の死の天使は、女を睥睨して、にやり、と笑った。
そして、ティナが息を呑んでいるうちに、その場を黒い光が浸食していく――
逃げようとしても、それは叶わない話だった。
足元の感覚がなく、足を踏み出すことさえできない。
なす術なく、光に呑まれ、視界を奪われ…――
「…」
視界が戻ってきて、ティナはほっと息をついた。
目の前には、女の子。
たった一人だけ。
途方にくれたように立っている。
真紅の髪。
ワインレッドの瞳――
(レイザ…)
そこに彼女の良く知る少女の面影を認めて、ティナは胸中で呟いた。
この『光景』が、何を示しているのか、この『光景』にどんな意味があったのか――それは、分からない。
分からないけれど。
「おかあさん…」
女の子が泣いている。
声を上げて。
母を求めて。
「おとうさん…ルイ…」
少女の周りには、もう誰もいない。
一人足をひきずるようにしながら。
自分の『変化』に気付いているのか――少女はとぼとぼと歩いていた。
さっきの女性が『魔王』を召喚し――それが何かの契約を発現して…少女は真紅の髪とワインレッドの瞳を手に入れた。
――彼女の母と、同じ色を。
(どういうこと…?)
とぼとぼと。
とぼとぼと。
少女は、泣きながら歩いている。
すぐ目の前にいるはずなのに、彼女はいつまでもティナに気付くことはなかった。
いつまでも、ティナとかち会うこともなかった。
少女とティナとの間には、一定の距離があった。
やがて、彼女はあることに気付く。
いつの間にか――泣いているのは、少女ではなかった。
それは、金の髪をした、少年だった。
「あれは――」
ティナは目を見開く。
■
「カイオス…?」
あせた色の金の髪。
青い瞳。
これも十歳――をニ、三越えたくらいなのだろうか。
いつか夢で見たことのある、本ばかりの部屋に閉じこもっていたときの少年よりも、もっと痩せて、もっと小さく見えた。
「っ…」
愕然としたように突っ立っている少年の足元に、同じような背丈の別の少年が転がっている。
『モノ』のように。
それは、死んでいるのは明らかだった。
泣いている少年の手の中のナイフが、その命を奪ったものであることも。
なぜ、なぜ…と、少年は、問う。
動かない『モノ』に向かって。
どうして、殺さなれなければいけないのか。
どうして、殺さなければいけないのか。
(あいつが…殺したの…?)
――彼は逃げ出した。そして、差し向けた追っ手をたくさん殺した。同胞殺し。
『同胞殺し』。
どきん、と。
さきほど魔王ルシファーの降臨を見たときとは別の意味で、ティナの心臓が跳ね上がった。
「っ…」
無意識に胸を押さえ込む。
では、この『光景』は。
まさか、いろいろな人間の『過去』を見せるものなのか――
(どうなってるの…)
これも、石版が堕天使の聖堂にもたらした影響の一つなのか。
さまざまな『時』を見せるといったような…
ティナは、そこに迷い込んでしまったのか。
思う間に、場面は移り変わっていく。
這いずるようにして逃げ回り、自分と同じ顔をした『追っ手』から逃れ、そういった境遇のために町に住み着くこともできず、貧民街を転々としていく日々。
――そして。
『時』が移り変わっていくに連れて、少年が『追っ手』を殺す回数も、増えた。
最初は、戸惑っていた、その手つきに、ためらいがなくなっていった。
『無駄』が――なくなっていった。
なぜ、と問うことももはやなかった。
冷たい目の男が、そこに居た。
成長した男は、恐ろしいほど、彼女が良く知る人間に似ていた。
「っ…!!」
ティナは、血の気が引いていくような感覚を覚えた。
冷たい――男の、目。
それが、ティナをじっと見ているような。
そんな感覚。
(まさか)
彼女は、胸中でそれを打ち消した。
さっきの『レイザの』光景の時には、こんなことなかったのだ。
多分、この場面には、ティナは干渉できないし、あっちだって、自分のことが見えているはずがないのだ――
おそらく…
だが。
(…っ)
亡羊とした、意思のないかのような瞳が、じっとティナを見据え続けている。
やがて、たっと地を蹴って、男はティナに向かって疾走した。
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