Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  第七章 堕天使の聖堂 
* * *
――???



(女の子の…泣き声?)
 霧の中を歩いて、どれくらい経ったのか。
 空気の乳白色が、堕天使の聖堂特有の鮮血の赤に染まる頃、さまよっていた彼女の耳に、微かな声が聞こえてきたのだ。
「――かないで」
 なだめるような、声がする。
 かん高い女の子の声とは別の、大人びた女の声。
 ぐるぐると回る霧の中で、ティナは必死に音源を探る。
「やだ…!! お母さんと、お父さんと、離れたくない…!!」
「いい子だから…」
「レイザ…ルイ…」
 泣きじゃくる声。
 なだめるような声。
 入り乱れて白い霧は、音も無くティナの周りを巡る。
(レイザ…?)
 その、言の葉の一欠けらが耳に残って、彼女は眉をひそめた。
 レイザ――まさか、ミルガウスの宮廷魔道士の?

――珍しいことも、あるものですよ。

 堕天使の聖堂に行く途中――アルフェリアとアベルから聞かされた話。
 聖堂に入るのに必要な『印』は、年に一度捧げられる子供たちの犠牲の上に成り立っていた。
 そして――たった一人、聖地に連れられていって、『生きて帰った』子供がいた。

――その子供は、何年か前、両親に連れられて、印を持たずに聖地に入っていったんだそうです。周りは止めましたけど、全然聞かない様子で。
…数日後、子供が一人だけで聖地から戻って来ました。不思議なことに、彼女の髪は燃えるような真紅、瞳は深いワインレッドに染まっていたそうです。

 燃えるような真紅の髪。
 深いワインレッドの瞳。
 名前は、『レイザ・ミラドーナ』。

――そうです。しかもおかしいことに、一緒に聖地に入った両親と、もう一人双子の弟がいたそうなんですが、その人たちの行方はそれきり全然なんですよね。

 アベルの言葉を記憶に辿れば、レイザは一人で聖地に赴いたのではなかった。
 両親と、弟。
 どこからか聞こえる、泣きじゃくる子供と、なだめる大人たちの声。
(じゃあ、『ルイ』って)
 ひょっとして、レイザの『弟』のことなのか。
 だが、どうしてアベルに聞いた『昔』の話が、『今』『ここで』展開されているのだろう…。
「どういうこと…?」
 首をかしげたティナは、やがて自分の足が止まってしまったことに気付いた。
 いや――踏み出しているのに、進まないのだ。
 空を歩いているような、そんな感覚。
 草を踏みしめる感触も、木々のけはいもない。
 全てが『白』の空間。
 ――そんなティナの前に、一つの『光景』がざっと現れた。
「っ…!!」
 はっと彼女は身構える。
 だが、踏み出した足は、まったく進んだ気がしない。
 進んだだけ、『光景』が遠ざかっていくかのように。
 そして、白い背景の中に、四人の人物がいた。

「泣かないで…レイザ、ルイ」
「やだ…離れたくない、お母さんと、お父さんと…離れたくない…!!」
 泣きじゃくっているのは、十歳くらいの女の子。
同じような背丈をした男の子が、しがみつくように隣りに立って、だまって唇を噛んでいる。
 黒い髪。
 黒い瞳。
 典型的な、第一大陸の民族の色をしている。
 傍には、膝をついて女の子の頭をなでる若い女性と、それを静かに見守る男性。
 女性は真紅の髪にワインレッドの瞳を、男性のそれは、子供たちと同じ色をしていた。
 やがて、そのまま静かに時は流れ、突然場面が切り替わる。
(…なに?)
 なんなの、とティナは目を細めた。
 彼女自身は何も感じなかったのだが――眼前の四人の服が、引きちぎられんばかりにはばたき、その中心に立った女性が、真紅の髪をはためかせながら、何か天に向かって朗々と言葉を紡いでいる。
 歌にも似た――そんな旋律。
 魔方陣が光とともに描かれていくさまは、とても美しかった。
 だが、子供たちは泣きじゃくり、男性は蒼白な顔で立っている。
 嵐のような風の強さが、どこか残酷だった。
 やがて、女の召喚に応じて『現れた』物体は、属性継承者であるティナですら、まったく覚えの無いものだった。
 黒い『光球』。
 漆黒――否、それは『虚無』さえ思わせる深さで、彼女の目を貫いた。
 空間が、そこだけ『無』くなってしまったかのような。
 そんな感覚。
 それがだんだんと人型をとり、そしてティナは息を呑む。
(黒い…羽)
 堕天使の証。
 神の栄光から見捨てられたものたちの羽は、文字通り闇の色に染まりぬく。
 黒い――四枚の羽。
 どんな書物にも書かれている。
 四枚ばねは、魔王の証だ。
(ルシ…ファー?)
 どきん、と心臓が波打つ。
 『堕天使の聖堂』を『作り上げた』哀しき魔の堕天使。
 カオス亡き後に、魔王となったもの。
 なぜ、それを人間が召喚する。
 なぜ、それを――人間が召喚できる!?

「契約の時は来たわ、ルシファー」
 髪をはためかせながら、女は言う。
 その顔色は、蒼白を通り越して、どこか土気色だった。
「契約どおり―― 一人の命と引き換えに、次の『ヒトガタ』に宿ってちょうだい」
 四枚羽の死の天使は、女を睥睨して、にやり、と笑った。
 そして、ティナが息を呑んでいるうちに、その場を黒い光が浸食していく――
 逃げようとしても、それは叶わない話だった。
 足元の感覚がなく、足を踏み出すことさえできない。
 なす術なく、光に呑まれ、視界を奪われ…――

「…」
 視界が戻ってきて、ティナはほっと息をついた。
 目の前には、女の子。
 たった一人だけ。
 途方にくれたように立っている。
 真紅の髪。
 ワインレッドの瞳――
(レイザ…)
 そこに彼女の良く知る少女の面影を認めて、ティナは胸中で呟いた。
 この『光景』が、何を示しているのか、この『光景』にどんな意味があったのか――それは、分からない。
 分からないけれど。

「おかあさん…」
 女の子が泣いている。
 声を上げて。
 母を求めて。
「おとうさん…ルイ…」
 少女の周りには、もう誰もいない。
 一人足をひきずるようにしながら。
 自分の『変化』に気付いているのか――少女はとぼとぼと歩いていた。
 さっきの女性が『魔王』を召喚し――それが何かの契約を発現して…少女は真紅の髪とワインレッドの瞳を手に入れた。
 ――彼女の母と、同じ色を。
(どういうこと…?)
 とぼとぼと。
 とぼとぼと。
 少女は、泣きながら歩いている。
 すぐ目の前にいるはずなのに、彼女はいつまでもティナに気付くことはなかった。
 いつまでも、ティナとかち会うこともなかった。
 少女とティナとの間には、一定の距離があった。
 やがて、彼女はあることに気付く。
 いつの間にか――泣いているのは、少女ではなかった。
 それは、金の髪をした、少年だった。
「あれは――」
 ティナは目を見開く。


「カイオス…?」

 あせた色の金の髪。
 青い瞳。
 これも十歳――をニ、三越えたくらいなのだろうか。
 いつか夢で見たことのある、本ばかりの部屋に閉じこもっていたときの少年よりも、もっと痩せて、もっと小さく見えた。
「っ…」
 愕然としたように突っ立っている少年の足元に、同じような背丈の別の少年が転がっている。
 『モノ』のように。
 それは、死んでいるのは明らかだった。
 泣いている少年の手の中のナイフが、その命を奪ったものであることも。
 なぜ、なぜ…と、少年は、問う。
 動かない『モノ』に向かって。
 どうして、殺さなれなければいけないのか。
 どうして、殺さなければいけないのか。
(あいつが…殺したの…?)

――彼は逃げ出した。そして、差し向けた追っ手をたくさん殺した。同胞殺し。

 『同胞殺し』。
 どきん、と。
 さきほど魔王ルシファーの降臨を見たときとは別の意味で、ティナの心臓が跳ね上がった。
「っ…」
 無意識に胸を押さえ込む。
 では、この『光景』は。
 まさか、いろいろな人間の『過去』を見せるものなのか――
(どうなってるの…)
 これも、石版が堕天使の聖堂にもたらした影響の一つなのか。
 さまざまな『時』を見せるといったような…
 ティナは、そこに迷い込んでしまったのか。
 思う間に、場面は移り変わっていく。
 這いずるようにして逃げ回り、自分と同じ顔をした『追っ手』から逃れ、そういった境遇のために町に住み着くこともできず、貧民街を転々としていく日々。
 ――そして。
 『時』が移り変わっていくに連れて、少年が『追っ手』を殺す回数も、増えた。
 最初は、戸惑っていた、その手つきに、ためらいがなくなっていった。
 『無駄』が――なくなっていった。
 なぜ、と問うことももはやなかった。
 冷たい目の男が、そこに居た。
 成長した男は、恐ろしいほど、彼女が良く知る人間に似ていた。
「っ…!!」
 ティナは、血の気が引いていくような感覚を覚えた。
 冷たい――男の、目。
 それが、ティナをじっと見ているような。
 そんな感覚。
(まさか)
 彼女は、胸中でそれを打ち消した。
 さっきの『レイザの』光景の時には、こんなことなかったのだ。
 多分、この場面には、ティナは干渉できないし、あっちだって、自分のことが見えているはずがないのだ――
 おそらく…
 だが。
(…っ)
 亡羊とした、意思のないかのような瞳が、じっとティナを見据え続けている。
 やがて、たっと地を蹴って、男はティナに向かって疾走した。

* * *
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