Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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    序章 
* * *
――???



 深く、遠く――霧が立ち込めていた。
 呼気を吐き出すたびに、淀んだ湿気が体内に入り込む。
 深く、滞る。
 無明の闇よりも、深い沈黙。
 全てが乳白色色の、冷めない夢。

――声がする。

 堕天使の聖堂、と呼ばれていた。
 その昔――第一次天地大戦の起こる、さらに昔、遠い過去。
 天上の栄華を欲しいままにしていた聖天使ルシフェルは、神に背いたとされ堕天を言いつけられた。
 天界に住まうもの、全てのものの最大の屈辱、堕天。
 流浪のものの行き着くのは、地界。
 ルシフェルは己の潔白を必死に説いたが、それはついぞ受け入れられることはなかった。

――誰かが泣いている声がする。

 誉れ高き天上の貴公子は、流刑の地『地界』に赴く最中、『感情』を持ち得ぬ『ひと』の住む地に立ち寄った。
 空気は光り輝き、太陽は全てを祝福し、鮮やかな緑が爽やかに風に踊っていた。
 ルシフェルは、その地にて、自分の命運を嘆いた。
 その嘆きは、かの地を変容させ、地軸を歪め、一転して、そこはうっそうとした木々が生い茂る、不気味な天然要塞に成り代わってしまった。
 彼は、かの地にて己の名を捨てルシファーと名乗り、第一次天地大戦後、カオス亡き地獄で魔王となった後、大空白時代に突如『消滅』する。

――かん高い、女の子の泣き声がする。

 流浪のものの悲哀が、空気の色まで変えたのか。
 ルシファーが慟哭したその地にはいつも深い霧が立ちこめ、魔王が慟哭を発した時刻になると、その乳白色が鮮血の赤に染まり抜くという。
 鮮やかな紅は、夕日すらも圧倒する強さで、人々の目を刺し貫く。
 そのあまりの禍々しさと神々しさから、人はかの地をこう呼んだ。
 後に魔の筆頭となる天使の、悲しみにくれた聖なる地。

――堕天使の聖堂、と。


「………」
 ミルガウスの空は青く、鳥のさえずりが朗らかに響き渡っている。
 くせのある赤毛に、猫を思わせる瞳。
 ミルガウスの宮廷魔術師レイザは、物憂げに息を吐いた。
 人気のない廊下。
 誰かに見咎められる心配もない。
(まさか…)
 彼女は、今朝方もたらされた報告を、改めて思い返す。
(こんなに早く石版が見つかるなんて)

 つい先ほどの朝議の場で、――いつもは遅刻をしてくる上、さらに会議中居眠りまでしているくせに――その日は妙に定時どおりに現れて、改まった態度で会議に臨んだ国王ドゥレヴァは、意外な事態に目を見開く官たちに、さらに度肝を抜く言上をした。
 官位を返上し、自らアレントゥムで砕け散った闇の石版を探すたびに出ているカイオス・レリュードが、一つ目の石版を見つけたこと、そしてそれが風の転移魔法で送られてきた旨の報告だった。
 アレントゥムの悲劇から、わずか一ヶ月。
 一ヶ月で闇の石版の一つが見つかった。
 これは、――仮にこのペースを保てば――全てを集めるのに半年ほどで済んでしまう算段になる。
 官は一様に驚いていたが、カイオス自身に対する評価は見事に二分されていた。
 素直に評価を高めるもの。
 そして、――圧倒的大多数が、彼の手柄の高さから、『異国人』が帰国していよいよ大きな顔をし始めるのでは、と危ぶむ態度だった。
 ただ、レイザにとって、そんな周囲の評価はどうでもいい。
 愛しの左大臣さま、素敵、大好き、愛してる。
 ――それが、彼女の彼に対する思いの全てだったからだ。
 ただ――その続きとしてもたらされた事実が、彼女の気を重くしていた。
 左大臣たちは、そのまま次の目的地――ルーラに行くらしい。
 ルーラ国。
 堕天使の聖堂。

(堕天使の…聖堂)
 左大臣たちが、とりあえずまだしばらくは国を空けたままにしている、という事実に安堵するものが圧倒的大多数の反面、その言葉を耳にしたとたん、彼女の周りから音が消えた。
 そして、今も。
 その懸念は消えないでいる。
 胸の中にわだかまる、『自分』が、息をひそめて泣き声を上げていた。
 癒えない傷跡。
 蝕まれていく心。
「………」
 そして、もう一つ。
 レイザの心を重くしている出来事。
 石版の顛末を、カオラナに知らせなければならない。
 彼女は、よほどの時――たとえば、石版が『盗まれた』当初、王女の石版探しの旅への同行を献上する場などに出席する時――を除いて、滅多に衆目に触れなかった。
 それは、何も『カオラナ』が人あらざるものであるという事情だけではない。
 ただ、それゆえに彼女は主に対して、自分の口で事の報告をしなければいけなかった。
 そのことに改めて思い至って、彼女は重くため息を吐く。
(ああ…もうあたし、くじけそう…)
 だが、いつまでもくじけている訳にはいかない。
 意を決して、彼女は主の部屋へと足を向けた。
 城の最奥への廊下は、異世界に通じているかのような、不気味な静寂を持って、彼女を包み込む。
 自然に呼吸もひそめるように、自然に足音も消していくように――。
 自分が『空気』と一体となっていくような錯覚さえ抱きながら、彼女はやがて目当ての扉の前にたどり着いた。
 意を決して、扉を叩く。
「入りなさい」
 その声と共に、ゆっくりと展開する目の前の景色は、奈落の底に落ちていくような感覚で、レイザをしっとりと包み込んでいった。

* * *
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