――死に絶えた都 町外れ共同墓地付近
「ふ、副船長さん…だいじょうぶですか?」
ダグラスに襲われてから、半刻ほど。
狙われたティナは不可思議な光と共に消え、ひるんだダグラスの隙をついてローブの青年はアベルの手を引き走り出した。
休みなく走り続けながら、アベルは思わず尋ねる。
先導する彼のローブはどす黒い赤に変色し、ダグラスから受けた傷の深さを物語っていた。
艶やかな花が、不気味な大輪を咲かせているようだった。
ほっそりとした手が、傷を抑え、ハタからは何の変哲もなく彼は走っている。
息を乱している様子すらない。
だが、そこから滲む血が、ぽたぽたと地面にしみを作り続けるのを見ていると、彼女は黙っていることはできなかった。
「あの…手当てをしたほうが」
「………」
青年は、言葉から最初から聞こえていないかのように走り続ける。
アベルは、唇を噛んだ。
それはまるで、自分の存在がなくなってしまったような感じだった。
彼女は、ため息をつく。
アベルは、彼女なりにローブの青年の傷に責任を感じていた。
彼が抵抗しなかったのは、自分が刃を突きつけられていたせいだ。
少しでも、楽にして欲しい、休んで欲しい…。
その思いを、無にされるのは、彼女の胸にさらに重いふたをされるようなものだ。
(まあもとから…冷たい人ですけど…)
落ちていく視線は、乾いた大地に落ちた赤い粒を見つめる。
染みていく花がだんだんと大きさを広げている気がするのは、果たして自分の目の錯覚だろうか…。
(けど…何回も、助けてくれました)
始めて彼と会ったのは、クマのような人買いにさらわれて、ゼルリア王都デライザーグの裏通りに引きずられていたときのことだった。
そのときからすると――妾将軍の宝の海域や、今回のシェーレンだって、数え切れないほど命を救ってもらっている。
ルーラ国では、さわられたお姫様を助けにもいった。
行動だけを見ていると、かなり気のいい人間にも思える。
その一方で、めったに喋らないし、たまに口を開いたときには、ぞっとするほどに感情のない言葉を吐く。
人形が喋っているかのような――。
ただ、そんな態度をとられると、相手からあまりに一方的に恩を受けすぎているようで、正直どこかむずがよかった。
対等――といかないまでも、こんなときくらい休めばいい。
(と思うんですけどねー)
はあ、と王女はため息をつく。
こんなとき、自分にできる最後の手段といったら、こんなことくらいだ。
「あの…副船長さん。わたし、疲れたんですけど」
「………」
上目遣いに相手を見ると、ローブの裾が微かに揺れた。
顔の輪郭が、微かに傾いている気がする。
「空間を操る人も、けっこう深いケガをしていたみたいですし、少し休んだって…」
「………」
返事はなかったが、ローブの男は走る足を緩めた。
「…」
さらに上目でうかがうアベルの手をそのまま引いて、崩れ落ちた廃墟の影に移動する。
「あの…」
「………」
青年は何も言わなかった。
ただ、一応は自分の言葉が受け入れられた。そういうことか。
「………」
「………」
音もなく座った青年の隣に、アベルもちょこんと腰を下ろす。
血の匂いが漂っていて、正直気分が悪かった。
けれど、その言葉を音にする気はない。
代わりに、別のことを言った。
「すいません…私が捕まったせいですね」
「…」
返事を期待していたわけではなかったが、どうしても言っておきたいことだった。
副船長は、カイオスのように自分を守る立場ではないし、アルフェリアのように国益が関わる人間でもない。まして、クルスやティナのように親しい間柄でもなかった。
それなのに、こうしてあからさまなわがままを聞いてくれたり、守ってくれる。
一方的なのは分かっていたし、その空しさも予想できた。
けれど、伝えたかった。
「ありがとうございます…いつも」
「…どうして」
「え」
「どうして、王女が旅に」
囁かれた言葉は、どこ行くあてもない風のように、乾いた空気を揺らした。
ふと顔を傾けると、やはり機械的な輪郭がある。
在るのに…『ない』ような。
「えっと…成り行きっていうか…」
「成り行きで、王位継承者が旅を?」
「お父様の言いつけですから。カイオスの…お目付け役みたいなものですね」
一度ミルガウスを『裏切って』石版を持ち出したカイオス・レリュードを、つなぎとめておくための。
過去に彼の命を救ったことのある自分ならば、その役が果たせるだろう…。
父は、そう考えてるのだと。
アベルは思っていた。
だから、そう伝えた。
だが。
「あのドゥレヴァが」
ローブの男は、誰もが崇拝し、そして恐れる賢王をあっさりと呼び捨てた。
「そんな理由で継承者を旅に?」
「えーっと…。一応、私のおとうさまなんですけど…」
「王たる資格のないものに」
驚いて目をぱちぱちとさせるアベルに、青年は応えた。
「敬意を払う必要はない」
「王たる資格って…」
アベルは唇を噛んだ。
その指摘をされて、思い浮かぶのは一つだけ。
――『賢王の粛正』。
その昔、スヴェルとソフィア。そしてフェイ。
三人の王位継承者のなくなったシルヴェア国王ドゥレヴァは、その悲しみで賢臣たちを根こそぎ弾圧した。
「………おとうさまは…すっごく落ち込んでいたんです…」
「…」
「おにいさまたちが死んで…」
何のとりえもない自分だけが残ってしまった。
父の蛮行を止めることは、誰にもできなかった。
誰も――不思議なくらい誰も、父に逆らうことができなかった。
「あんなことさえ起こらなかったら…」
「…」
「わたしが、ちゃんとあのときのことを思い出していたら…」
シルヴェアに安置されていた闇の石版。
それが砕け散ってしまった現場には、王の四人の子供たちがいた。
即死したスヴェルとソフィア。後を追うように石板決壊の犯人として追い詰められ、崖から転落し、『行方不明』となったフェイ。
「フェイおにいさまが死んだのは…私のせいなんです。私が…石板が砕け散ってしまったときに、何が起こったのか…ちゃんと思い出して、おにいさまの無実を証明していれば…フェイおにいさまだけは…」
砂漠の真ん中に佇む廃墟の、ぼろぼろに崩れた建物に落ちた影は暗かった。
呑み込まれそうだった。
砂の国の太陽は、日差しは強いがその分できる影も濃い。
「…」
いやなことを口にして、ため息を落としたアベルは、隣りで何か音がするのを捕らえた。
「…とおもう」
「え」
「それは、違うと思う」
ローブの青年は、立ち上がりかけていた。
流れるすそがアベルの目の前を翻っていた。
「――それは、違う」
「何が違うんですか」
アベルは、唇をとがらせた。
普段は無関心のくせに、こんなときにそんなことを言わないで欲しい。
「副船長さんには、関係ないです」
「…」
強い調子の言葉を背に、彼はすたすたと歩き出す。
むくれたまま、王女はたっと後を追う。
今だ大輪の赤を咲かせたローブからは、信じられない短い時間だったのに、もはや血の滴るそぶりさえ見えなかった。
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