――ナカナカ…ヤルジャナイカ…。『失敗作』。
ぽたり、と赤い雫が流れる水の渦へと溶けていく。
足元に渦巻く濁流が、それを下流へと運んでいく。
上流のカイオス・レリュードから――七君主の元へと。
――僕ヲ…焦ラセルナンテ…。ケド、君自身モ、ボロボロダヨ?
「………」
七君主の半身が、赫に染まっている。
血を流して、水を濁している。
二重魔方陣と、剣戟。
だが、それに劣らないほどの深手を、見合う男の方は負っていた。
腹部の裂傷は完全に傷が開き、片足がほとんど真紅に染まりぬいている。
それだけではない。
禁術を使った反動か――
魔力の逆流で刻まれた傷が、そこから生命の血流を滲ませていた。
さすがに普段は冷静な顔は、息を乱し、乱れた金の髪が血と汗で張り付いていた。
血の気がない顔色で眉をしかめた彼は、しばらく呼気を整えると、やがて剣を構えた。
――フフ…。マダ、ヤルンダ。
七君主の目は、禍々しい笑みに毒されている。
そこに在るのは、絶対的な勝利への確信。
――分カッテイルンダロウ…。君ニダッテ。僕ニイクラ攻撃ヲ加エテモ…。無駄ナコトクライ。
「………」
――僕ハ、『ダグラス・セントア・ブルグレア』ニ、トリ付イテイルンダヨ? ダメージヲ 受ケルノハ、人間ノ『ダグラス』デアッテ、七君主デアル僕ジャナイ。
ソコニ倒レタ 死ニ損ナイノ 女ノ不死鳥ガシタヨウニ…。『僕』ゴト…精神ゴト焼キ尽クサナイト ダメナンダヨ…。
まあそれでも、僕は復活できたわけなんだけどね、と七君主はくつくつと笑った。
そんな、勝ち目のない戦いを、まだ続けるの? と。
「………」
カイオスは、剣を構えたまま、無言を貫いている。
一見平静に見える男の切っ先が、微かに震えていた。
その重量を――支えられないほどに。
傷は深かった。
ぽとり、と。
再び血の雫がしたった。
息を吸って吐くたびに、脈動を刻むたびに、雫は流れ落ちていった。
流れた雫は、水の勢いに乗って、七君主の方へと流れていった。
透明な水の中で、不思議と、赤い血の雫は、拡散することなくひとところに拠り集まって流れて行くようだった。
――フフ…。失敗作。君ニ最後ノ チャンスヲ アゲテモ、イイ。
「…」
そんなカイオス・レリュードを見つめ、七君主は突然話を変えた。
微かに緊張が緩む。
七君主は、見下ろすかのような角度で相手を睥睨した。
宿った光は、相手の誇りを踏みにじる酷薄な悦びに満ちている。
――最後ダヨ…。君ノソノ手デ 君自身ノソノ手デ…。
アノ女ヲ 殺セ。僕タチノ元ニ 戻ッテオイデ…。
「…」
――ダッテ、君ニハ ココ以外ニ 居場所ハナインダ。
ドコニイッテモ 外レタ『者』ナンダヨ。失敗作。僕タチダケダ…君ノ仲間ナノハ。
「………」
――女ヲ殺シタラ…認メテアゲル…。僕タチノ …仲間、ダト。
「………」
つまり、と。
カイオスはやがて静かに切り出した。
剣を下ろし、相手を見る。
満身創痍でありながら、理性を宿した静かな目が、刺し貫く勢いで放たれた。
「裏切れと…そういうことか」
――ソウダネ。
「断る」
――…。
「と、言ったはずだ」
――………。
放たれた言葉には、ためらいがない。
七君主は、目を細めた。
ふと、その身が膨張した――そんな錯覚を抱かせるほど、急激な変化が起こった。
流れる水がしぶきを立てて、そこを中心に波紋を広げていく。
――ジャア…仕方ナイ…ネ…。
ゆらりと立ち昇る、凶悪な波動。
それが空間をゆらめかせて発現したせつな、空を切り裂く女の悲鳴が、高く上がった。
「…」
そちらへと注意を向けたカイオスの一瞬の隙を逃さず、七君主が肉薄する。
「っ!」
かろうじて間に合った剣が、その一撃を食い止めた。
力を込めた反動で、赤い水がしぶいた。
喉の奥から、呼気の漏れる音がする。
だが、その拮抗は決して揺らぐことはない。
ぎりぎりと刃をかみ合わせながら、赫と青。
二つの目が、見合って、やがて平静な言葉が紡がれた。
底光りする双眸には、憎悪と怒りがあふれていた。
「…何をした」
――アノ女ガ 喰ラッタノハ、『僕ノ』毒ダヨ。僕ノ魔力ニ反応シテ…毒ハソノ力ヲ増ス!!
あの女を助けたければ、僕に付けよ。
このままじゃ、あの子死んじゃうよ? と。
赤い目が、にやりと微笑んだ。
それは、歓喜の表情だった。
カイオスが、仮にここで七君主についたとしても、七君主が命じるのは、『ティナの命を奪うこと』だ。
かといって、ティナが毒に対抗できている間に、カイオス・レリュードが七君主を倒せるのか。
その保証はなかった。
要は――七君主が手をかけるのか、カイオスがとどめを刺すのか――。
その選択を、カイオス自身にさせようというのだ。
(どこまでも)
最悪の存在だな、と彼は胸中でこぼした。
続けて思った。
絶対に、ぶっ殺す。
「――浄の集(すだ)く白き壁 全き虚空に佇みて…」
――ヘエ…。
あくまで、『僕』に殺されるのがお望みか、と七君主は笑った。
それをあくまで冷静に、カイオスは受け止める。
かみ合った刃を振りほどき、彼は呪を編み上げた。
ふと、眉をしかめる。
(目が…)
汗と血に閉口しながら、そう思った。
かすんだ視界の中で、急速に音が遠のいていく。
痛みを通り越して、感覚をなくした四肢には、すでに熱さえ感じられなかった。
それでいて、思考を続ける頭だけが、妙に熱い。
限界か、とそれでも冷静に判断するその脳裏に、様々な言葉が過ぎっていく。
黒い霞に呑み込まれていく視界と裏腹に、身体だけが、戦闘を続ける。
それだけは、分かる。
久々の感覚だった。
限界を通り越した状態での、『生きる』ための、本能。
七君主から逃げているときに、自然と身についた。
身についたのは、それだけだ。
後は、すべて捨てた。
『死を悼む感情』も、『涙』も。
全てを。
捨てたと思っていた。
あの国に、たどり着くまでは。
■
「異国の者が戦線に立てば、混乱が起こり、それがひいてはこの疲弊した国を滅ぼすかも知れない」
その言葉を語った老人は、いつも穏やかな目をしていた。
前左大臣バティーダ・ホーウェルン。
誰もが認めた、シルヴェアの賢臣。
そして、シルヴェア最後の、ミルガウス初代の国王ドゥレヴァの自分勝手な粛正の下で、ただひとり生き続けた三大臣の一人。
たまたまうっかりアベルに拾われて、素性も明かすことのできないままに、一年。
彼だけが、自分の力を『透明』な目で見てくれた。
それは、病魔に冒され死を間際にした者だからこその、境地だったのかもしれない。
まともな感性を持った人間が、アクアヴェイル人の容貌をした人間を、ミルガウスの中枢へと推したなどと。
「それが王の狙いでもあるようだ。しかし、――君次第では、この国は再生できる」
君次第で、と言われたときには、素直に嬉しかった。
その一方で、不安は常にあった。
いくら老人の言葉が、彼の真実の言葉だったとしても。
簡単に答えのでることではなかった。
だから、彼はこう答えた。
「国には、覆すことのできない、秩序があると思っています。いくら、能力があるものでも、それを生かす場を間違えれば、とんでもない惨劇を招いてしまう。それに――」
「…」
「俺の闇が、この国を蝕むことがあるかも知れない」
その危険は、常にあった。
むしろ、ミルガウス国で過ごした『何事もなかった』一年が、信じられないような時間だった。
いつも、追い立てられていた。
自分に関わったせいで、命を落とした人もいた。
果てのなかった、逃亡の中で、生き地獄のような目を見続けてきた。
それがいつ再発するのか――分からなかった。
そんな半端な状況では、素直に頷くことができなかった。
「君は――」
そんな彼に、老人は穏やかに言い放った。
さも、それが当然といったように。
「君自身の闇には、君が打ち勝てばいいじゃないか。ただそれだけのこと」
答えは、限りなく簡単で、限りなく不可能に思えた。
不可能だと、思い込んでいた。
だから――。
それから二年。
ついに接触をしてきた七君主に石板を渡した。
だから、直接対決するような事態は避けながらも、何とか被害を防ぐことの出来るように立ち回った。
その足かせが解けるのならば。
自身で打ち勝つことができるのならば。
たとえ、『七君主』が相手だったとしても。
■
死に掛けた手に、再び力が入り、視界が戻ってきた。
底知れぬ光を宿した目で相手を見据え、彼は呪を完成させていく。
■
「…あいつ………」
カイオス・レリュードの状態を見て、思わずアルフェリアはこぼしていた。
悲鳴を上げるティナも気がかりだったが、あの状態で戦いを続ける男にも気が散ってしまう。
「七君主の魔力が上がったな…。彼女の体内に入った毒が、それに呼応しているんだ」
副船長は、魔法を使いながら、淡々と応じる。
「このままだと、彼女も危ない」
「…だが、あいつの状況は? てめーの方が、ぼろぼろになっちまってるじゃねーかよ」
「逆流したんだ…。魔力が。二重魔方陣とか…自然の理に反したから…」
「…そこまでして…ちゃんと、勝てるんだろうな!?」
愕然と呟くクルスに、アルフェリアが食って掛かる。
手を出すなといわれ、行かせたのは自分だ。
そこには、ある程度の勝利の確信があるのだと思っていた。
――思い込んでいた。
激情したとはいえ――あの男が、そういった、計算なしに動くことはない、と。
「彼の魔力は、元々低い」
「何?」
「魔法の威力も…同じく四属性を操るティナの半分…それ以下しかない」
「…」
「だから、量より質…――二重魔方陣や理に反するようなことをやらなければ――たぶん、相手には、傷一つ付かなかった」
ジェイドの声は、感情を一切、排してただ響く。
それは、否応もなく聞くものへ届き、状況を理解させた。
「………な」
「うん…ジェイドの言うとおりだ」
「…」
「何で、同じ属性継承者のティナと、そこまで違うのか分からないけど…。カイオスは、魔族相手にもほとんど剣で戦ってた。それって、すごく回りくどいことなんだ。魔力が低いのは…間違いないよ」
じゃあ、とかすれた声でアルフェリアは呟く。
どうなる? と。
「………」
「………」
魔法に長けた二人は、何も言わなかった。
アルフェリアもただ拳を握り締めるしかない。
ティナの悲鳴は高く、果てない苦痛に痙攣を繰り返している。
クルスが、思わずその手を握った。
その瞳の中には、抑えがたい悔しさがある。
「勝てるかなんて…分からない…だって、相手は七君主だ。ティナくらいのものなんだよ…? まともに相手ができて、吹っ飛ばせるのは…」
オレたちが加勢しても、どうにかできる状況じゃないんだ、と。
少年は搾り出すように呟いた。
ぎこちなく震える怒りの只中で、その瞳には涙が浮かんでいた。
「属性の反動もなく、七君主を一撃でだまらせる力。それが不死鳥。七君主が恐れるのも分かる」
一方で、冷たいとも取れるほどの無感情さで言葉を紡ぐのはジェイドだ。
彼は、目を伏せて、ティナに魔法をただ注ぎ続ける。
「せめて…『ダグラス・セントア・ブルグレア』という、仮の肉体ではなく、七君主本体に直接攻撃ができたら、な」
「不可能なのか? 四属性魔法は、『空間』に干渉できるんだろ!?」
「『干渉』できることと、『干渉してダメージを与える』のとは、全く別の問題だ」
それこそ、ティナの魔法の方が異常だ、と。
彼は締めくくった。
「空間は、完全なる精神的な世界。意思と意思がぶつかり合う場所。元々精神体の魔族は、無敵だ。少々の術は、跳ね返されてお終いだ」
七君主に直接ダメージを与えられ、たかだか一個人ごときが闇の七君主に『命を狙われる』。
それほどの存在。
ティナの方が、異常なのだ。
「オレたちにできるのは…最悪の時に、時間をかせぐことだけだ」
クルスが静かに言う。
「だから…ぎりぎりまで、彼を信じるしかないよ。最悪の場合…助かる人たちだけでも、助けなきゃ」
「………」
やがて、落ちた沈黙の果てに、全ての視線が戦いへと注がれていった。
■
「浄の集(すだ)く白き壁 全き虚空に佇みて…」
魔力が編みあがっていく。
並行して、紡がれる二つ目の魔方陣。
細心の集中を注ぎ込んで術の完成に没頭する間に、七君主の方が、動く。
――死ネ!!
ぱしゃぱしゃと血に染まった水を散らしながら、一瞬で肉薄する。
「!」
呪文を途切れさせることなく、彼は剣で受けた。
七君主の手から、黒い魔力が上がる。
わだかまった闇が、針のように尖り、幾欠片もの破片となって雨のように降り注いだ。
「ちっ」
全てを避けることはできない。
急所を狙ったものだけを正確に叩き落し、カイオスは体位を変えると流れるように肉薄した。
魔法を封じるために、こちらも降り注ぐような刃の軌道をはじき出していく。
その激しい運動に、新たに刻まれた傷が悲鳴を上げたが、完全に閉め出した。
それでいて、その口からは詠唱が途切れることはない。
紡がれる魔力は、徐々にその形を顕にし光の紋章を周囲に描いていた。
対する七君主の口元が、微かに歪む。
血のような赫。
すごいね、と形だけで呟いた。
まだ、二重魔方陣をつくる力が残っていたんだ…。
――ケド、チャント放テル ノカナ?
二者の姿は一旦離れ、呼気を整える静かな緊張の一瞬をはさむ。
二重魔方陣を従えた、カイオス・レリュード。
黒き魔力をその手に宿した七君主。
立ち昇る魔力が、蒼と黒。
二色の光を煌々と放ち、辺りの水へと反射していた。
――…!!
「!」
たっと、足が水を蹴る。
駆け寄る勢いは互角。
同じタイミングで手を掲げ、ほとんど同時に術を解放し――
「!?」
せつなの、出来事だった。
一方の四肢が弾かれたように硬直し、直後、真紅の水が口の端を伝った。
「ぐっ…」
たまらず、膝をつく。
魔方陣が、霧散する。
青い花が散るように、四散する魔力の残骸越しに、青の目が、視線だけで相手を見た。
それを見下ろした赫の目、――勝利への確信へと歓喜に歪んだそれとが―― 一瞬、交わった。
限界か、と、口の端が歪んだ。
よく頑張ったよ。所詮は――『人間』の分際で。
――死ネ。
周りの人間たちが、一斉に息を呑み、思わず身を乗り出す。
笑みを貼り付けたまま、七君主はばっと手を掲げた。
動きを止めたカイオス・レリュードに、しぶく水の合間を縫って、その黒き魔力は吸い込まれるように落とされていった。
鮮血が、上がった。
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