「あ…」
そう呟いたのは、誰だったろう。
眠るアベル。
七君主の毒に倒れたティナ。
二人の傍で、風の結界に守られて、戦局を見守る人間たちの全てが、じっと視線を動かさないままに息を呑んでいた。
カイオス・レリュードが理に逆らって呼んだ水は、結界の向こうで膝の高さに増しながら、勢いを増して押し寄せている。
水をしぶいて駆け寄った二つの影。
膝をついた、カイオス・レリュード。
そこに吸い込まれるように振り下ろされたのは、七君主の黒い刃。
だめだ、と思った。
あの傷では避けることも持ち直すこともできない。
限界か、と思われた。
身を乗り出したクルス。
剣に手をかけた、アルフェリア。
身じろぎしないジェイド。
三対の視線は、結界越しに起こった現象に、吸い付くように注がれていた。
「まさか…」
アルフェリアが、手を握りなおす。
滲んだ汗を服にこすりつけて一言。
「そんな」
■
「忘れ…たのか…?」
地に流れ込む水の音だけが、時を流れていた。
その最中、動きを止めて見合った影が二つ。
膝をついた青年は、口の端に零れた自らの血を拭った。
その口元は、いまいましげに歪んでいるようにも、不敵に笑んでいるようにも、みえた。
「属性、魔法は…呪文無しでも…発動できる…」
――ナ…ドコニ…ソンナ…力…!!
立ち尽くしたまま動きを止めた、七君主の魔力はカイオス・レリュードの前髪に触れる位置で動きを止めていた。
その身体に、突き立つ赤い刃。
膝をつき、魔力が途切れたそのときに、彼は最後の呪を作り出した。
己に降りかかる、黒き魔の刃をその視界いっぱいに受け入れながら――
地を流れる水を――その中によどみ落ちた、自らの赤い血を――魔力で操り、結集させた。
術者の意思により集った、自らの赤い刃は、深々と、相手の腹部につき立っていた。
『水』の――己の液体をも含めた、流れ行く全ての自然を操るもの、『水の属性継承者』の力に拠って。
――ソンナ…マダ…力ガ残ッテイタトハ…!!
かたかたと、七君主の腕が震える。
刃を振り下ろそうと力を入れるも、敵の眼前でとどまった刃は、遅々としてその軌道を掘り下げることはできなかった。
――コ…コノ………!!
「動け…ないだろう」
乱れた息の間から、音が漏れ出でる。
相手を揺らして、水音に溶ける。
「火の属性、が…空間ごと、相手を、焼き尽くす…なら………。水の属性は、空間ごと…相手を斬る」
――ナ…。
「空間ごと――お前を、貫いた…。最後の、最後で………、油断、したな」
――僕ノ気ガ…緩ム時ヲ…図ッテ…イタノカ…!?
「………」
――マサカ…二重魔方陣モ…ギリギリデ、膝ヲツイタ ノモ…!! 全テ…ソノタメノ…布石…?
重症の身体で禁術を使い、七君主へと傷をつけた。
全てを出し尽くすと見せかけて、最後の瞬間に膝をついた。
魔族は、勝利を確信した。
そこに――隙を作った。
生半可な魔法など、鼻で笑って跳ね返すことのできる、魔の大君主。
七君主を――捕らえるための最後の魔法を放つ、隙。
「………。ところで…お前…随分と――喋りにくそうだな………」
――!?
「そんなに…『拠り代』となった、人間と…『相性』が、悪い…のか………」
――何!?
「強大な、魔族が…空間を超えて、『世界』に干渉するには、二つやり方が、ある。一つは――ミルガウスの聖地を、ぶっ壊して………、世界の垣根をなくす…こと。もう一つは――」
――………。
「人間と、契約を成し、その人間を『媒介』とすること…だ」
――………!!
「つまり…『媒介』がなくなれば…――魔族はそこでの『意義』を失う」
――デキルト…イウノカ…!! オ前ニ…!! ソレガ、為セルト!?
「………。我…水の属性継承者…――カイオス・レリュードが…命じる!!」
青年は、ゆらりと立ち上がった。
血の刃で、相手をとらえたまま、彼は魔力を解き放った。
青い――光が水面へと落ち、血の赫と相成って幻想的な色で術者を照らす。
展開した魔方陣は、その紋様の中に優美な龍を描くと、さらさらと魔力の欠片を巻き上げながら、術者の髪をなぜた。
「集い集えよ正邪の輪 巡り謳えよ生死の狭間 狂いし時に誘われ 佇みし水の一欠けら」
魔力が流れていく。
清涼な水の音に添って。
魔力が編み上げられていく。
広がり行く水の流れに沿って。
「因果の螺旋に惑い込み 別れし三世の鍵の地に 淀む汝の力より」
紡がれるたび、光を増す陣の光に照らされて、立ち尽くす男の姿は、まるで、一人でさすらっているようにも、戯曲を謳っているようにも、見えた。
血に塗れた満身創痍の青年は、魔力の波動に包まれて、しかし不思議と、高雅な印象を見るものに与えた。
「乱れうつ命動 狂わせし愚かなる者への聖なる鉄槌の果てに 秩序の刻(とき)へと戻したまえ…」
万物の流れの根底に在りし原子を操る者、と声が響く。
流れる水の狭間に流れた声に呼応して、魔方陣の光はまばゆさを最高潮へと増し、立ち昇る螺旋の魔力が青い光を帯びて、七君主へと――『ダグラス』を拠り代とした『魔族』へと吸い込まれていった。
「出でよ…。根源を司りし理性の守護神――オリジン」
折り重なるように幾重にも舞い踊る光。
金色の髪をなびかせて、その中心に立った男の呼び声に呼応して、形作られた蒼い光の玉座に、現れた賢者の姿をした精霊は、理性に満ちた瞳で、場を睥睨した。
穏やかな双眸が術者を見、そして放つ。
『汝…我を呼び出だし者。その望みは何か』
「場の秩序を乱して存在する、邪魔な存在を消し去りたい」
『人と魔族の契約は、最悪の禁術。その理の歪みは、いらぬ波紋を招きうる。心得た。汝の望みを叶えよう。
――しかし、問う。汝、それに見合うだけの対価を持つか?』
穏やかな理性の双眸は、そこに一片の妥協も許すことはない。
見返す青年の方は、ふっと息をついた。
ため息のようにも、あきらめのようにも、見えた。
「確かに――お前に渡す魔力は残っていない」
『ならば――どうする?』
「代わりに…この地上において、生きとし生けるもの…すべての『生命』の源――その『根源』を好きなだけ与える」
『………』
そのやりとりを見守っていた、全ての者たちが息を呑んだ。
無理だ…と誰かが言葉にした。
その傷で、その出血で、与える『対価』がまかなえるのか?
『…よかろう』
精霊の言葉は、風のように。
青年の身体から、赤いしぶきが弾けるように、血が飛んだ。
抑えた悲鳴を後に、その雫を受けて、精霊は姿を変える。
血の赫と、精霊の青。
『汝の望み…叶えよう。その対価と引き換えに!』
ゆらりとその姿が空に溶ける。
空を流れる清流は、優美な曲線の軌跡を残して、七君主へと吸い込まれていった。
『我は、『根源』の精霊…オリジン。『人』と『魔』。相反する二者の魂を同居させる、歪んだ存在よ。その『秩序』、再び取り戻そうぞ…』
――ガ…ヤメ…!! 契約ヲ…終ワラセルナ…体ガ離レテイク…!?
その先端が、微かに七君主へと触れたとき。
搾り出すような絶叫が、轟いた。
血の刃に捕らえられ、まともに光に貫かれた体が、びくりと痙攣し、弓なりにのけぞる。
全ての者の因果と秩序を司りし、根源の精霊『オリジン』。
水に属する神の力は、属性継承者の求めに応じて、人間と魔族との身を強制的にひきはがしていった。
禁術に犯された契約を、『無』にすべく。
赫き目の青年を光の波は通り過ぎ、通り過ぎた後に、空に溶けるように消えていく。
同時に、光を受けた男の身体から黒き波動が立ち昇り、それは、ゆらりと空を揺らすと溶けるように消えていった。
後には――褪せた金髪の男が一人。
壮年の男性は――たまりゆく水の中に倒れ込んで――動かなくなった。
同時に――かろうじて立っていたカイオス・レリュードの身体も、壁にもたれかかるように崩れ落ちた。
■
「っ………」
開ききった傷から、血があふれて水へと溶けていく。
視界は暗い。
音も聞こえない。
在るはずの『水』の感触さえ、感じなかった。
これが、『対価』か、と思う。
七君主を倒したことの。
だが――
七君主が本当に消滅したのかは分からない。
オリジンの力は、根源を操ること。
その能力によって、魔族をその媒介と切り離すことのできたならば、――七君主は『地上』に干渉する術を失い、暫くは手が出せないはずだった。
だが、それが本当になせたのかすら、もう知りえなかった。
深く――沈んでいく。
暗闇の中に。
おそらく永遠に覚めない――常闇の中に。
■
「無理を…する人ですね」
声がした。
「そういうところは、『昔』から、変わってない」
かろうじて、遠くの音を拾った。
「ですが、あなたのおかげで、ティナは助かりましたよ」
中性的な声。
淡々とした、無感情な音。
「七君主は、拠り代を失い、空間へと還りました。しかし…本当に――事をなすとは」
何か、温かい『もの』を感じた。
それは、急速に彼を包み、同時に意識を奪っていく。
「一つ、貸しておきます。『カイオス・レリュード』」
回復魔法か、と思った瞬間、意識は闇に沈んでいった。
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