Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
 | Back | 目次 | Next | HOME | 
  第八章 戦いの果て 
* * *
「っ…」
 いろいろな考えが、頭をぐるぐると回っていた。
 『カイオス・レリュード』の亡霊である少年の言葉。
 かみ合わせた刃。
 見合わせた、意思のない瞳――。
 自分を殺そうとした…目。
 それが、脳裏に焼きついていた。
 ずっと、――ずっと。
 怖かった。
 『意思』のない亡羊とした瞳。
 悲しかった。
 『自分』をなくしたその目が――ただ、自分以外の意思に従って、自分に剣をつきつけた、姿。
「………」
 胸が、突き刺されたように痛かった。
 けれど、彼女は戦うことを選んだ。
 そこで、逃げる道を選ばなかった。
 必死に、押し殺していた。
 聞きたかったことがあった。
 ――その全てが。
 目を覚ました彼の、いつも通りの静かな瞳を見たときに。
「…」
 何かが、外れたように、頬を涙が伝っていた。
 自分でも、分からない。
 彼も、困っているだろう――。
 意識を失ってから、『どこ』に『どうして』いるのか、説明をしなければいけない。
 他の仲間たちのことや、副船長のこと、話さなければならない。
「っ…」
 けれど、その口を伝って漏れ出でるのは、ただの嗚咽だ。
 これまで、誰かの前で――クルスの前でさえも――涙を流したことなどない。
 それだけに、うまく自分の感情をコントロールできなかった。
 自分自身でも混乱しながら、それでも、必死に言葉を手繰り寄せた。
「――っごめん………」
 ひどい言葉を投げつけたこと。
 本当に、ごめんなさい…。
 言葉足らずの謝罪は、消えるようにしゃくりあげる吐息に交ざる。
 流れても流れても――、とどまることなく溢れてくる涙のせいで、視界がぼやけていた。
 耳だけが、何とか音を聞き分ける。
 放たれるのは、呆れ果てたため息か、それとも再びの拒絶か――。
「………」
(どっちも、ありそう…)
 出て行けと言われれば、すぐに席を立つつもりだった。
 その一方で、こんなこと以前も思ったな、とちらりと感じる。
 ゼルリア国のデライザーグから船により、シェーレン国に向かっていた最中のこと。
 そこでも、それまでの道中で気まずい思いをしていた。
 夜更けの船でたまたま顔をあわせて――。
 魔封書を見ていた彼に対して、湧き上がった後ろめたさ。それから逃げるように、彼女は同じことを思った。
 消えろといわれれば――すぐにその場を後にしよう、と。
「………」
 分かっていても、彼の返事を聞くのが怖かった。
 信じたい――そういいながら、ずっと、質すことができなかった。
 大事なところで、逃げていた。
 以前、胸の内を語ったゼルリア将軍赤竜サラは、こう語った。

――名前も、出自も、何も分からない。それは、自分を相手にさらけ出していないということだ。そんな相手が信頼に足りるとは、思えないね。

 それに対して、自分は何と、答えただろうか。

「…」
 向き合うことが必要だと感じながら、確かに、自分はこれまで逃げてきた。
 ダグラスの接触。
 七君主の復活。
 いくつかの幻と、『夢』が導く、不吉な未来。
 ――『彼が、裏切るかも知れない』と。
 怖かった。
 信じきることができなかった。
 だから、逃げた。
 そして、逃げた結果が――。
 キルド族のテントで起こってしまった、いくつかのすれ違いと、その末のあの言葉だ。
 決定的な溝があって、彼は、その場を去ってしまった。
 次に会ったのは、『操られた』彼の、『意思のない』悲しい目。
 そして――そのまま、もしも堕天使の聖堂で見た『幻』の光景や、『夢』の通りになってしまえば、永遠に向き合えないままに『終わって』しまったのかも知れなかった。
 ――自分を奮い立たせていた。
 何が何でも、元に戻してやる、と。
 意気込んでいた。
 ――考えないようにしていた。
 不吉な『夢』。
 不吉な『幻』。
 逃げても追いかけてきた最悪の『未来』から逃れるように――。
 前に進んだ結果が、『現在』ならば。
 ちゃんと、向き合いたい。
 『向き合える』ことのできる『現在』があることが、嬉しかった。
 始めて『夢』を変えられたことが、嬉しかった。
 なのに、気持ちと裏腹に、涙は流れていく。
 情けないと思いながら、止められない。
 相手は、黙っている。
 困っているかも知れない。
 呆れているのかも知れない。
 そう思って、いい加減席を立とうと思ったとき、ぽつりと声が漏れた。
「…なんで…お前が謝る必要がある」
「っ…」
 普段の覇気を失った声に、普段は感じる険はない。
 だが、静かな――穏やかな、とさえ感じる調子には、確かに普段の理性が宿っていた。
「………」
 目の奥が、じんと痛くなった。
 確かに、『彼』だ。
 そう、思った。
 同時に、『船で話したときと一緒だな』とぼんやりと思った。
 帰れといわれるのを覚悟していたのに、予想とは全然別の言葉が放たれた。
 あの時と、同じ言葉。
 そして、さらに思い当たる。
 私は――また、向き合おうとしてなかったんだな、と。
 相手の拒絶を勝手に決め付けて、そこから『逃げる』口実にしていたのかも知れないな、と。
 だが、キルド族のテントで、『予想通り』の冷たい言葉を聞けば、こちらもムキになって、あんな言葉を言ってしまった。
 何て――自分勝手なんだろう。
 何て――相手のことを考えてなかったんだろう。
「………ひどい…こと…言った…から」
 震える息の間から、何とか言葉を作り出した。
 もう、逃げてはいけない。
 ちゃんと、言わなければいけない。
 それは、恐ろしいほどに、勇気のいることだった。
 だが、――取り返しの付かないことも起こりうる――もう、あんな思いは、絶対に、したくない。
「キルド族の…テントで…ひどいこと…言った………っ」

――そうやってまた…街を滅ぼすの? 人殺し…!!

「…っ。アレントゥムでも…そう、だった…私…」
 何も、考えずに、感情に走って。
「あんたの…――あんただけの、せいじゃ、なかったのに」
 石板を盗んだせいで。
 ミルガウスがよければ、アレントゥムなんて、どうでもよかったのか。
「…っ」
「結果的に…」
 応えた声は、とても静かだった。
 すすり泣く音をすり抜けて、それは彼女に届いた。
「死んだ人間にしてみれば…『誰が原因か』なんてのは、どうでもいい話だ」
「…」
「ただ、俺が判断を誤ったのは、間違いない。最初に石板を渡したのが、すべてのきっかけだ」
「それ…は…」
 言葉が、うまくまとまらない。
 いろいろな考えが、頭を過ぎていく。
 その中には、『過去の少年』の声もあった。

――ミルガウスも、世界も、どちらも大切だった。そんなことは痛いくらい分かっていたよ。けれど、どうしようもなかったんだ。

「…選べない…と思う。誰だって…」
 震える息を押し殺して、何とか言葉をつなぎ出して、彼女は改めて感じた。
 そうだ、誰にだって、選べない。
 誰にだって――責められることじゃない。
「わたしが…同じこと言われても…。………っ、選べなかった…」
 過去の少年に言われるまで、そのことに――そんな簡単なことに、気付けなかった。
 ただ、その事実をもって、『七君主側の人間』だと、無意識に彼のことを見つめていた。
「結果が大事で…それは、そうなんだけど………。起こったことなんて…変えられないじゃない…っ。だから…」
「…」
「そっからどうするかの方が…大事だし…あんたは、石板が砕け散った後に…ちゃんと…それをしてたのに………。一人で、ちゃんと、償ってたのに…」
 二ヶ月あまりの間に、石板が三つ。
 アルフェリアの話から、ジュレスたちが一つ持っているのを考えれば、既に四つの欠片が集まったことになる。
 驚異的な早さだ。
 犠牲だって、石板の持つ影響力を考えれば、ないに等しい。
 だが、そこに、ティナたちができたことは少ない。
 ただ、指示されるままに国や遺跡を巡って、石板を『回収する』という最後の仕上げに関わったに過ぎない。
 魔封書を操って、行く手を示し続けたのは、カイオス・レリュードだ。
「なのに…わたしは…それでも、疑ってた…………」
 ずっと、自分でも向き合えなかった内面を、泣きながら相手にさらしているのは、消えてしまいたいくらい、みじめな気分だった。
「石板を見つける…旅の…、同行…ひきうけといて…。………っ」
 歯をいくら噛みしめても、嗚咽は止まらなかった。
 言葉は途中で消えて、ティナは深く顔を伏せる。
 こらえられない思いが、なおも止まることなく頬を濡らしていく。
「…っ」
「お前が言うように、確かに、石版は早く集まったかもな。――だが、その結果が今回のことだ」
「な…」
「七君主の――いや、俺のせいで、死に掛けた。なのに…なんで、まだお前が『ここ』にいる」
「………」
「分かっただろ。お前の言葉の方が正しかった。俺は、お前に――皆に剣を向けた。それが『何』を意味するのか…。『疑惑』が………『確信』に変わったな」
 涙で歪んだ視界の中で、声だけがこだましていく。
 とても静かな声だった。
 いつもと、変わらない調子の。
 けれど――どこか、疲れたような響きも持った声音だった。
 あきらめと、開き直りをにじませたような声音だった。
 ただ、淡々と『言うべきこと』を言い聞かせている――その内容に頓着しなければ、親が子供に話しているようにも思えた。
「だけど…」
「…」
 ティナは、口を開く。
 相手は、言葉を切った。
 自分の言うことを、聞いてくれている。
 それが分かった。
 だから、彼女は続けた。
「結果が…どうとか、言うけど…、剣を向けたとか…っいうけど…っ。じゃあ…私が…七君主にやられた後、…っ、一人で戦って、…助けてくれたのは…」
 助けてくれたのは。
 命を救ってくれたのは、彼だ。
 彼が七君主を撃退しなかったら、――毒にやられていた彼女は、助かることは、なかった。
 彼女が『彼』の未来を変えて、助けたように。
 彼女もまた、彼の行動で助けられた。
 彼がいなかったら――現在(いま)の自分は、なかった。
「…」
「今回、だけじゃない…。アレントゥムでも、妾将軍の海域でも…いつも…助けて…くれた…、だから………」
 そこまで言葉にして、彼女は次の一言を、心をこめて呟いた。
 届けばいい。
 向き合えなかった。
 怖かった。
 逃げていた。
 それは、いつもどこかに不安があったからだ。
 『彼は本当に信じられるのか』。
 それに対して、答えは。
 すれ違いの末の、結末は。

「ありがとう」

 彼が、どんな反応をするのか、分からなかった。
 けれど、彼女の――ティナなりの、必死に探して出した答え。
 眠る彼を診続けながら、過去の少年の言葉や、これまでの旅のことを想いながら。
 手繰り寄せた、一つの結論。

 当たり前の――本当に、当たり前のこと。
 もらったものには、ちゃんと感謝を。
 それは、疑惑だとか、ダグラスのことなどは関係ない。
 そんなことも、言えなかった自分が、情けなかった。
 だから。
 だからせめて、今までの分まで。

「…ありがとう…助けて…くれて………」

 いつも、助けてくれて。
 やっと、それだけのことが――やっと、ちゃんと言えた気がした。
 ほっとした。
 その分、気が抜けてしまって、涙をこらえることが、いよいよ難しくなってしまった。
「………」
 後は、言葉なく、ただ顔を伏せ続けるだけだ。
 相手も、無言だった。
 静かな沈黙が、気まずさを感じさせず、二人の間を抜けていった。
 やがて、ふとティナの傍らでけはいが動いた。
 衣が擦れる音が、耳を掠めていく。
 はっと顔を上げると、涙で歪んだ視界の中で、彼が身を起こしたところだった。
 満身創痍でぼろぼろだった上、三日も意識を失っていた矢先だ。
 急に起き上がって大丈夫なのか。
 思わず身を乗り出しかけたティナへと、逆に彼が近づいてきた。
(…え?)
 めまいでも起こしたのだろうか。
 とっさのことで、どう反応したものか分からず、固まっているうちに、彼の顔は、触れるほどまでになった。
 けれど、決して触れない。
 すれ違うように、傍らへ身を交わし、耳元で囁いた。

「――」

 すっかり身を硬くした彼女へ、その言葉は、風のように届いた。
 アクアヴェイル語。
 とっさに意味を考えて、ティナは目を見開いた。
 世界で最も美しい言葉。
 そして、最も複雑な言葉。
 『愛している』という言葉だけで、十種類も言い方を変える。
 そのくらい繊細で、心を言葉に託す――。
 そんな言葉の、伝えられた意味、は。
(あ…)
 意外、というよりも、驚きでティナは目を見開いた。
 あまりのことに涙が途切れて、視界がはっきりと回復する。
 すっと身を離したカイオス・レリュードと、ふっと、目が合った。
(…あ)
 笑った、と思った。
 嘲笑でも、冷笑でも、ましてダグラスがよくするような、侮蔑をこめたものでもない。
 ただ、自然にあふれて浮かび上がってきた。
(こんな表情(かお)…するんだ)
 ほんの、微かな。とても、小さな。
 けれど、確かにそこにある…
 驚くほど素直な仕種。
 それは、鮮明に、彼女の中に焼きついていった。
「…」
 呆然としていたのは、一瞬。
 すっと表情を改めた彼は、悪いが休むぞとミルガウス語の言葉を残して、背を向けるように横たわっていた。
「あ…うん…」
 なんだか、夢を見ているような心地だった。
 けれど、そこにはほっとした安心感が確かに、ある。
「あ…じゃあわたし…ご飯…作ってくる」
 泣いていた余韻でまだ少し息を乱しながら、彼女は立ち上がると、泣き崩れた顔を伏せるようにして、部屋を後にした。


(………)
 火照った頬が、赤くなっているのが自分でも分かる。
 どうしよう、という思いがティナの中に渦巻いていた。
(だって…まさか…あいつが…)
 まだ、信じられなかった。
 耳元で囁かれた、アクアヴェイル語の、短い言葉。
 最も単純で、最も明快。
 率直な――感謝の言葉。
 『ありがとう、ティナ』と。
 そして、零れ落ちたような――確かな、笑み。
(えーっと………)
 ティナは、深く考えた。
 聞き間違い。
 訳し間違い。
 勘違い。
 幻聴。
 錯覚。
 けれど、――その言葉が、目に焼きついた笑みとともに、ぐるぐると自分の中を回っていることは、事実で。
「………」
 ティナは、ちょっと顔に触れた。
 やっぱり熱い。
「ご飯…つくろ…」
 気の抜けた声で呟いて、彼女は食材を取りに、倉庫の方に足を向けた。
 こんな顔、相棒に見せられないな、と思いながら。


「…いつまでそこにいるつもりだ」
 ティナが部屋を去って、数秒後。
 戸口に背を向けたまま、カイオス・レリュードは呟いた。
 傍目からすれば、完全に独り言にも見える。
 実際、暫く沈黙の間を挟んだが――結局、その影からひょっこりと少年の姿が覗いた。
「…ばれちゃってた〜?」
 ティナは、気付かなかったのになあ、と少年はのんびりと笑う。
「よっぽど、周りが見えなかったんだね」
 ティナが泣いたのなんて、オレ始めてみたよとクルスは続けた。
 あちらを向いたままの青年の背中に向かって、
「けど、オレ…ちょっと安心したんだ。ティナはずっと元気がなかったんだよ?」
「…」
「さっきので元気になったと思う。カイオス…ティナになんて言ったの?」
 無邪気とは、かくも恐ろしいものか。
 カイオスは、直接答えることをしなかった。
 代わりに、短く言った。
「今の…他のやつらに話すなよ」
「えっと…うん」
「それから」
「…」
 悪かったなと続けると、背中越しにでも、クルスが立ち尽くしているのが分かった。
 びっくり。
 一言で表すと、そんな感じになるのだろうか。
「ええっと…うん、オレ」
 動揺している。
 そのままあたふたと得体の知れない言葉を呟きながら、クルスは扉の向こうに消えていく。

「………」
 一人残された部屋で、カイオス・レリュードは息をつく。
 まさか、あの女にあんな言葉、吐かれるとは思っていなかった。
 七君主の側にあって、彼女らに剣を向けた事実。
 その事実をもって、決別の言葉を言うものだとばかり思っていた。
「…」
 砂漠の国の風が、穏やかに吹き抜けていく。
 完全に音を上げた身体でそれ以上のことを考えるのは、今は不可能だった。
 目を閉じて眠りに落ちていくその脳裏に、いつも感じる不安はない。
 『七君主が、再び現れるかもしれない』可能性。
 まあ、来たら来たで、何とかなるだろうと思った。
 そこには、自分自身の戦闘能力を超えた、周りへの依存の気持ちも確かにある。
 そんなことを考えるのは、七君主の元を逃げ出してから、始めての気もした。
「………」
 風が、穏やかに窓辺を漂っている。
 その音を聞きながら、彼は意識を手放していった。

* * *
 | Back | 目次 | Next | HOME | 
Base template by WEB MAGIC.   Copyright(c)2005-2015 奇術師の食卓 紫苑怜 All rights reserved.