「っ…」
いろいろな考えが、頭をぐるぐると回っていた。
『カイオス・レリュード』の亡霊である少年の言葉。
かみ合わせた刃。
見合わせた、意思のない瞳――。
自分を殺そうとした…目。
それが、脳裏に焼きついていた。
ずっと、――ずっと。
怖かった。
『意思』のない亡羊とした瞳。
悲しかった。
『自分』をなくしたその目が――ただ、自分以外の意思に従って、自分に剣をつきつけた、姿。
「………」
胸が、突き刺されたように痛かった。
けれど、彼女は戦うことを選んだ。
そこで、逃げる道を選ばなかった。
必死に、押し殺していた。
聞きたかったことがあった。
――その全てが。
目を覚ました彼の、いつも通りの静かな瞳を見たときに。
「…」
何かが、外れたように、頬を涙が伝っていた。
自分でも、分からない。
彼も、困っているだろう――。
意識を失ってから、『どこ』に『どうして』いるのか、説明をしなければいけない。
他の仲間たちのことや、副船長のこと、話さなければならない。
「っ…」
けれど、その口を伝って漏れ出でるのは、ただの嗚咽だ。
これまで、誰かの前で――クルスの前でさえも――涙を流したことなどない。
それだけに、うまく自分の感情をコントロールできなかった。
自分自身でも混乱しながら、それでも、必死に言葉を手繰り寄せた。
「――っごめん………」
ひどい言葉を投げつけたこと。
本当に、ごめんなさい…。
言葉足らずの謝罪は、消えるようにしゃくりあげる吐息に交ざる。
流れても流れても――、とどまることなく溢れてくる涙のせいで、視界がぼやけていた。
耳だけが、何とか音を聞き分ける。
放たれるのは、呆れ果てたため息か、それとも再びの拒絶か――。
「………」
(どっちも、ありそう…)
出て行けと言われれば、すぐに席を立つつもりだった。
その一方で、こんなこと以前も思ったな、とちらりと感じる。
ゼルリア国のデライザーグから船により、シェーレン国に向かっていた最中のこと。
そこでも、それまでの道中で気まずい思いをしていた。
夜更けの船でたまたま顔をあわせて――。
魔封書を見ていた彼に対して、湧き上がった後ろめたさ。それから逃げるように、彼女は同じことを思った。
消えろといわれれば――すぐにその場を後にしよう、と。
「………」
分かっていても、彼の返事を聞くのが怖かった。
信じたい――そういいながら、ずっと、質すことができなかった。
大事なところで、逃げていた。
以前、胸の内を語ったゼルリア将軍赤竜サラは、こう語った。
――名前も、出自も、何も分からない。それは、自分を相手にさらけ出していないということだ。そんな相手が信頼に足りるとは、思えないね。
それに対して、自分は何と、答えただろうか。
「…」
向き合うことが必要だと感じながら、確かに、自分はこれまで逃げてきた。
ダグラスの接触。
七君主の復活。
いくつかの幻と、『夢』が導く、不吉な未来。
――『彼が、裏切るかも知れない』と。
怖かった。
信じきることができなかった。
だから、逃げた。
そして、逃げた結果が――。
キルド族のテントで起こってしまった、いくつかのすれ違いと、その末のあの言葉だ。
決定的な溝があって、彼は、その場を去ってしまった。
次に会ったのは、『操られた』彼の、『意思のない』悲しい目。
そして――そのまま、もしも堕天使の聖堂で見た『幻』の光景や、『夢』の通りになってしまえば、永遠に向き合えないままに『終わって』しまったのかも知れなかった。
――自分を奮い立たせていた。
何が何でも、元に戻してやる、と。
意気込んでいた。
――考えないようにしていた。
不吉な『夢』。
不吉な『幻』。
逃げても追いかけてきた最悪の『未来』から逃れるように――。
前に進んだ結果が、『現在』ならば。
ちゃんと、向き合いたい。
『向き合える』ことのできる『現在』があることが、嬉しかった。
始めて『夢』を変えられたことが、嬉しかった。
なのに、気持ちと裏腹に、涙は流れていく。
情けないと思いながら、止められない。
相手は、黙っている。
困っているかも知れない。
呆れているのかも知れない。
そう思って、いい加減席を立とうと思ったとき、ぽつりと声が漏れた。
「…なんで…お前が謝る必要がある」
「っ…」
普段の覇気を失った声に、普段は感じる険はない。
だが、静かな――穏やかな、とさえ感じる調子には、確かに普段の理性が宿っていた。
「………」
目の奥が、じんと痛くなった。
確かに、『彼』だ。
そう、思った。
同時に、『船で話したときと一緒だな』とぼんやりと思った。
帰れといわれるのを覚悟していたのに、予想とは全然別の言葉が放たれた。
あの時と、同じ言葉。
そして、さらに思い当たる。
私は――また、向き合おうとしてなかったんだな、と。
相手の拒絶を勝手に決め付けて、そこから『逃げる』口実にしていたのかも知れないな、と。
だが、キルド族のテントで、『予想通り』の冷たい言葉を聞けば、こちらもムキになって、あんな言葉を言ってしまった。
何て――自分勝手なんだろう。
何て――相手のことを考えてなかったんだろう。
「………ひどい…こと…言った…から」
震える息の間から、何とか言葉を作り出した。
もう、逃げてはいけない。
ちゃんと、言わなければいけない。
それは、恐ろしいほどに、勇気のいることだった。
だが、――取り返しの付かないことも起こりうる――もう、あんな思いは、絶対に、したくない。
「キルド族の…テントで…ひどいこと…言った………っ」
――そうやってまた…街を滅ぼすの? 人殺し…!!
「…っ。アレントゥムでも…そう、だった…私…」
何も、考えずに、感情に走って。
「あんたの…――あんただけの、せいじゃ、なかったのに」
石板を盗んだせいで。
ミルガウスがよければ、アレントゥムなんて、どうでもよかったのか。
「…っ」
「結果的に…」
応えた声は、とても静かだった。
すすり泣く音をすり抜けて、それは彼女に届いた。
「死んだ人間にしてみれば…『誰が原因か』なんてのは、どうでもいい話だ」
「…」
「ただ、俺が判断を誤ったのは、間違いない。最初に石板を渡したのが、すべてのきっかけだ」
「それ…は…」
言葉が、うまくまとまらない。
いろいろな考えが、頭を過ぎていく。
その中には、『過去の少年』の声もあった。
――ミルガウスも、世界も、どちらも大切だった。そんなことは痛いくらい分かっていたよ。けれど、どうしようもなかったんだ。
「…選べない…と思う。誰だって…」
震える息を押し殺して、何とか言葉をつなぎ出して、彼女は改めて感じた。
そうだ、誰にだって、選べない。
誰にだって――責められることじゃない。
「わたしが…同じこと言われても…。………っ、選べなかった…」
過去の少年に言われるまで、そのことに――そんな簡単なことに、気付けなかった。
ただ、その事実をもって、『七君主側の人間』だと、無意識に彼のことを見つめていた。
「結果が大事で…それは、そうなんだけど………。起こったことなんて…変えられないじゃない…っ。だから…」
「…」
「そっからどうするかの方が…大事だし…あんたは、石板が砕け散った後に…ちゃんと…それをしてたのに………。一人で、ちゃんと、償ってたのに…」
二ヶ月あまりの間に、石板が三つ。
アルフェリアの話から、ジュレスたちが一つ持っているのを考えれば、既に四つの欠片が集まったことになる。
驚異的な早さだ。
犠牲だって、石板の持つ影響力を考えれば、ないに等しい。
だが、そこに、ティナたちができたことは少ない。
ただ、指示されるままに国や遺跡を巡って、石板を『回収する』という最後の仕上げに関わったに過ぎない。
魔封書を操って、行く手を示し続けたのは、カイオス・レリュードだ。
「なのに…わたしは…それでも、疑ってた…………」
ずっと、自分でも向き合えなかった内面を、泣きながら相手にさらしているのは、消えてしまいたいくらい、みじめな気分だった。
「石板を見つける…旅の…、同行…ひきうけといて…。………っ」
歯をいくら噛みしめても、嗚咽は止まらなかった。
言葉は途中で消えて、ティナは深く顔を伏せる。
こらえられない思いが、なおも止まることなく頬を濡らしていく。
「…っ」
「お前が言うように、確かに、石版は早く集まったかもな。――だが、その結果が今回のことだ」
「な…」
「七君主の――いや、俺のせいで、死に掛けた。なのに…なんで、まだお前が『ここ』にいる」
「………」
「分かっただろ。お前の言葉の方が正しかった。俺は、お前に――皆に剣を向けた。それが『何』を意味するのか…。『疑惑』が………『確信』に変わったな」
涙で歪んだ視界の中で、声だけがこだましていく。
とても静かな声だった。
いつもと、変わらない調子の。
けれど――どこか、疲れたような響きも持った声音だった。
あきらめと、開き直りをにじませたような声音だった。
ただ、淡々と『言うべきこと』を言い聞かせている――その内容に頓着しなければ、親が子供に話しているようにも思えた。
「だけど…」
「…」
ティナは、口を開く。
相手は、言葉を切った。
自分の言うことを、聞いてくれている。
それが分かった。
だから、彼女は続けた。
「結果が…どうとか、言うけど…、剣を向けたとか…っいうけど…っ。じゃあ…私が…七君主にやられた後、…っ、一人で戦って、…助けてくれたのは…」
助けてくれたのは。
命を救ってくれたのは、彼だ。
彼が七君主を撃退しなかったら、――毒にやられていた彼女は、助かることは、なかった。
彼女が『彼』の未来を変えて、助けたように。
彼女もまた、彼の行動で助けられた。
彼がいなかったら――現在(いま)の自分は、なかった。
「…」
「今回、だけじゃない…。アレントゥムでも、妾将軍の海域でも…いつも…助けて…くれた…、だから………」
そこまで言葉にして、彼女は次の一言を、心をこめて呟いた。
届けばいい。
向き合えなかった。
怖かった。
逃げていた。
それは、いつもどこかに不安があったからだ。
『彼は本当に信じられるのか』。
それに対して、答えは。
すれ違いの末の、結末は。
「ありがとう」
彼が、どんな反応をするのか、分からなかった。
けれど、彼女の――ティナなりの、必死に探して出した答え。
眠る彼を診続けながら、過去の少年の言葉や、これまでの旅のことを想いながら。
手繰り寄せた、一つの結論。
当たり前の――本当に、当たり前のこと。
もらったものには、ちゃんと感謝を。
それは、疑惑だとか、ダグラスのことなどは関係ない。
そんなことも、言えなかった自分が、情けなかった。
だから。
だからせめて、今までの分まで。
「…ありがとう…助けて…くれて………」
いつも、助けてくれて。
やっと、それだけのことが――やっと、ちゃんと言えた気がした。
ほっとした。
その分、気が抜けてしまって、涙をこらえることが、いよいよ難しくなってしまった。
「………」
後は、言葉なく、ただ顔を伏せ続けるだけだ。
相手も、無言だった。
静かな沈黙が、気まずさを感じさせず、二人の間を抜けていった。
やがて、ふとティナの傍らでけはいが動いた。
衣が擦れる音が、耳を掠めていく。
はっと顔を上げると、涙で歪んだ視界の中で、彼が身を起こしたところだった。
満身創痍でぼろぼろだった上、三日も意識を失っていた矢先だ。
急に起き上がって大丈夫なのか。
思わず身を乗り出しかけたティナへと、逆に彼が近づいてきた。
(…え?)
めまいでも起こしたのだろうか。
とっさのことで、どう反応したものか分からず、固まっているうちに、彼の顔は、触れるほどまでになった。
けれど、決して触れない。
すれ違うように、傍らへ身を交わし、耳元で囁いた。
「――」
すっかり身を硬くした彼女へ、その言葉は、風のように届いた。
アクアヴェイル語。
とっさに意味を考えて、ティナは目を見開いた。
世界で最も美しい言葉。
そして、最も複雑な言葉。
『愛している』という言葉だけで、十種類も言い方を変える。
そのくらい繊細で、心を言葉に託す――。
そんな言葉の、伝えられた意味、は。
(あ…)
意外、というよりも、驚きでティナは目を見開いた。
あまりのことに涙が途切れて、視界がはっきりと回復する。
すっと身を離したカイオス・レリュードと、ふっと、目が合った。
(…あ)
笑った、と思った。
嘲笑でも、冷笑でも、ましてダグラスがよくするような、侮蔑をこめたものでもない。
ただ、自然にあふれて浮かび上がってきた。
(こんな表情(かお)…するんだ)
ほんの、微かな。とても、小さな。
けれど、確かにそこにある…
驚くほど素直な仕種。
それは、鮮明に、彼女の中に焼きついていった。
「…」
呆然としていたのは、一瞬。
すっと表情を改めた彼は、悪いが休むぞとミルガウス語の言葉を残して、背を向けるように横たわっていた。
「あ…うん…」
なんだか、夢を見ているような心地だった。
けれど、そこにはほっとした安心感が確かに、ある。
「あ…じゃあわたし…ご飯…作ってくる」
泣いていた余韻でまだ少し息を乱しながら、彼女は立ち上がると、泣き崩れた顔を伏せるようにして、部屋を後にした。
■
(………)
火照った頬が、赤くなっているのが自分でも分かる。
どうしよう、という思いがティナの中に渦巻いていた。
(だって…まさか…あいつが…)
まだ、信じられなかった。
耳元で囁かれた、アクアヴェイル語の、短い言葉。
最も単純で、最も明快。
率直な――感謝の言葉。
『ありがとう、ティナ』と。
そして、零れ落ちたような――確かな、笑み。
(えーっと………)
ティナは、深く考えた。
聞き間違い。
訳し間違い。
勘違い。
幻聴。
錯覚。
けれど、――その言葉が、目に焼きついた笑みとともに、ぐるぐると自分の中を回っていることは、事実で。
「………」
ティナは、ちょっと顔に触れた。
やっぱり熱い。
「ご飯…つくろ…」
気の抜けた声で呟いて、彼女は食材を取りに、倉庫の方に足を向けた。
こんな顔、相棒に見せられないな、と思いながら。
■
「…いつまでそこにいるつもりだ」
ティナが部屋を去って、数秒後。
戸口に背を向けたまま、カイオス・レリュードは呟いた。
傍目からすれば、完全に独り言にも見える。
実際、暫く沈黙の間を挟んだが――結局、その影からひょっこりと少年の姿が覗いた。
「…ばれちゃってた〜?」
ティナは、気付かなかったのになあ、と少年はのんびりと笑う。
「よっぽど、周りが見えなかったんだね」
ティナが泣いたのなんて、オレ始めてみたよとクルスは続けた。
あちらを向いたままの青年の背中に向かって、
「けど、オレ…ちょっと安心したんだ。ティナはずっと元気がなかったんだよ?」
「…」
「さっきので元気になったと思う。カイオス…ティナになんて言ったの?」
無邪気とは、かくも恐ろしいものか。
カイオスは、直接答えることをしなかった。
代わりに、短く言った。
「今の…他のやつらに話すなよ」
「えっと…うん」
「それから」
「…」
悪かったなと続けると、背中越しにでも、クルスが立ち尽くしているのが分かった。
びっくり。
一言で表すと、そんな感じになるのだろうか。
「ええっと…うん、オレ」
動揺している。
そのままあたふたと得体の知れない言葉を呟きながら、クルスは扉の向こうに消えていく。
「………」
一人残された部屋で、カイオス・レリュードは息をつく。
まさか、あの女にあんな言葉、吐かれるとは思っていなかった。
七君主の側にあって、彼女らに剣を向けた事実。
その事実をもって、決別の言葉を言うものだとばかり思っていた。
「…」
砂漠の国の風が、穏やかに吹き抜けていく。
完全に音を上げた身体でそれ以上のことを考えるのは、今は不可能だった。
目を閉じて眠りに落ちていくその脳裏に、いつも感じる不安はない。
『七君主が、再び現れるかもしれない』可能性。
まあ、来たら来たで、何とかなるだろうと思った。
そこには、自分自身の戦闘能力を超えた、周りへの依存の気持ちも確かにある。
そんなことを考えるのは、七君主の元を逃げ出してから、始めての気もした。
「………」
風が、穏やかに窓辺を漂っている。
その音を聞きながら、彼は意識を手放していった。
|