透明な壁が、行く手を遮っている。
泣いている少年。
無感動に眺める自分。
辺りは暗く、黒く――彼と自分しかいない。
どこまでも暗い――音のない空間。
手を伸ばせば届く距離。
音の聞こえないまま、仕種で泣き続ける少年。
すぐ目の前にある透明な壁が、自分と少年の間の一切の流れを切り取っていた。
小さな背中と、そこからこぼれる金の髪だけが、彼が『生きて』いることを伝える――
『夢』でたまに見る光景。
黒い『部屋』で、自分と少年。
ただそれだけがいる、不可思議な『夢』。
それは、他の他愛のない夢と違い、妙に鮮明に脳裏に焼きつく。
少年に、妙な『既視感』を感じながら――
目の前に縮こまっている、金の色の髪が震えている。
痩せた小さな肩が震えている。
背を向けて、あちらを向いた小さな少年の顔は見えない。
ただ行く手を遮る、透明な『壁』の前で、その姿をぼんやりと見るだけ。
――あれは、『誰』なのか。
どこまでも答えの知れない問いを投げかけるのは、『魔封書』を読みとくのにも似ていた。
一旦契約を結んだ者に対し、その魔力を代償にして望む『知識』を与える、魔力を持った神聖な書。
それは、砕け散った石板の行方を捜すのには、不可欠の存在だった。
果てしない深遠に身を浸し、己の知識を全てなげうって、全身で紙面に浮かびあがっては消えていく漠然とした『文字』を読み取っていく。
それが『形』になるのは、つぎ込んだ魔力と自身の持つ情報に左右される。
だが、砕け散った石板に関しての『情報』など、石板がアレントゥムで砕けた際に、一瞬見分けた、大体の方角くらいしか、彼は持たなかった。
まるで――海に落とした一本の針を、見つけだすような感覚。
魔力が途切れるまで没頭し、夜通し過ごすのも一日や二日の話ではない。
今の感覚は、それに似ている。
遠い波の向こうから、必死に手を伸ばしているかのような。
おそらく、決して、届かない。
透明な壁に手をつけて、彼は問う。
『あれ』は、『誰』なのか。
手を伸ばしかけて――そして…。
■
十年ほど前の昔。
ミルガウスがシルヴェアと呼ばれ、シルヴェアに眠っていた『闇の石版』が、まだ砕け散っていなかった頃。
二人の王位継承者と、二人の王女が、賢王ドゥレヴァの治世の元、健在だった頃。
当時関係が冷たかったアクアヴェイルから、シルヴェア王国に、一人の人質が送られた。
表向きは、アクアヴェイルの王子。
だが、実際は当時において、空前の賢臣と歌われていた、アクアヴェイルの名宰相にして、革新的な魔法理論の功労者、ダグラス・セントア・ブルグレアの一人息子、『カイオス・レリュード』。
一国の王子を差し置いて、人質に望まれるほどの才能を持っていた子供は、だが、その使命を終え、祖国に帰る道中、シルヴェア側の手落ちにて命を落としてしまう。
齢、たったの九歳。
あまりのことに、嘆き悲しんだ父ダグラス・セントア・ブルグレアは、精神を病み、『遁走』してしまう。
そして、自身の身に七君主を宿らせ、その身を明け渡し、世界の破滅を願ったのだった。
その後、闇の石版は砕け散り、シルヴェアの『三人』の王位継承者たちは死に、賢王ドゥレヴァの『粛正』が行われていく。
それから約七年後。
シルヴェアが、名を変え、女性にも王位継承を認めたミルガウスと改まった直後。
一人の青年が、ミルガウスにたどり着いた。
何かに追われている風に、ぼろぼろの姿で迎え入れられた少年は、周囲の者に一切、自分の名や出自を明かさなかった。
だから人は、その髪や目の色も相成って、彼をこう呼んだ。
その昔、シルヴェアに送られ、不慮の事故で死んだ、類まれなる才能を見せた故人。
『カイオス・レリュード』の名を。
そして、周囲の反対を抑え、彼がミルガウスの『左大臣』に抜擢されるのも。
その数年後に突如、集まりかけていた闇の石版を持ち出し、アレントゥムの悲劇の発端を作るのも。
そう遠い、未来のことではなかった。
■
――シェーレン国『死に絶えた都』
透明な壁が、行く手を遮っている。
向かい合うには、二人の男。
一方は、黒い髪血の色の瞳、無邪気な狂気を幼い顔面に貼り付けた少年。
そして、もう一方は整った顔立ちをした、三十を半ばにした金髪青眼の壮年の男。
「ダグラス・セントア・ブルグレア」
少年の声が、ガラスを震わせ向こうに届く。
微かに震える男。
じっと睨みつけるようにこちらを伺った瞳は、深い理性の色が見えた。
赤い狂気の少年と対照的な。
深く沈む湖面のような青。
「君が僕を召喚して、もう十年だよ」
囁くように、告げる。
――あの日。
十年前のあの日。
全てを投げ打って、自分を召喚した人間は、全てを捨てるのかと問うた自分に、ためらいなく頷いた。
たった一つの、『願い』をかなえるために。
そして、その願いは、自分を――七君主である自分をすらも、縛り付けている。
永遠の呪縛。
解けない絆。
――約束した以上、それに縛られるのは、しょうがないんだけどね。
ふふっと、口の端だけで呟いて、七君主は囁くように言った。
いたぶるように。
いつくしむように。
「ちょっと、確認したいことがあってね。いいかな?」
「――」
「ムカつく女がいるんだ。彼女を殺すのに――君の『ダグラス』を使っていいかな?」
「………」
「『契約』では、――彼を殺さない程度ならば、『何をしても』よかったんだよね」
ふふっと、赤い瞳が歓んでいる。
無言の男は、じっと佇んでいる。
沈黙の末に、微かに首肯の合図が金髪の男に現れた。
七君主は嬉しそうに笑った。
とても、嬉しそうに。
「そう、よかった。――実は、もう部下を差し向けているんだけどね。一応確認しておこうかと思ったんだよ。じゃあ、僕は、これで。いい夢を」
バカな人間。
そう言って、空に溶けるように消えた少年の後には、立ち尽くす男だけが残った。
放心したように。
全てを捨てたように。
ただ立ち尽くしたその果てに、彼は一言だけ呟いた。
その声は、深々と心の闇のなかに溶けていった。
「――カイオス」
それは、彼が『亡くした』、最愛の息子の名前だった。
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