「………」
王の離宮の扉をくぐると、褪せた金髪が向こう側を向いて横たわっているのが見える。
彼女のよく知るミルガウスの左大臣は、三年前――ミルガウスに転がり込んで来たときに、介抱されていたときも、彼女が部屋に入ると大抵、あちらを向いていた。
本当に眠っているときもあったのだろうが――ほとんどが、彼女と視線を合わさないためだと知っていた。
だから、今回もアベルは気にしなかった。
聞かれていても、聞かれていなくても、いい。
大切なのは、彼女の護衛が自分の傍に戻ってきた、という事実。
「一つだけ、あなたに言いに来たんです」
ひょっとしたら、忘れているかも知れないと思って。
そう、アベルは切り出した。
こちらを向いた背中は、何も反応を返さなかった。
アベルは、続けた。
「あなたが…何者だろうと、実を言うとどうでもいいんです。大切な人は、みんな、私が離れていくんです。お兄さまも、優しかったお父さまも――。
だから、あなたが、離れていくのだって、別にどうでもいいんです。私には。
けど…」
約束しましたよね、と言った声は少し掠れていた。
祈るように。
それを聞く相手は、忘れてしまったかも知れない言葉を。
「私が…あなたの命を助けたその分だけは…傍にいて、守ってください。いなくならないで、ください」
兄たちが死んだ王宮の中では、いつも一人ぼっちだった。
王位継承者たちが、根こそぎいなくなってしまった城の中では、連日、賢王による粛清が行われ、緊迫した空気と、絶望的な悲しみが、切々と漂っていた。
自分のお守り役であるバティーダ・ホーウェルンも、忙しく立ち回り、彼女はいつも城を抜け出して、石板の安置してある――鏡の神殿に遊びに行っていた。
お供の者もいなければ、自分がいなくなって、怒るものも、悲しむものも――いつ、抜け出したのかさえ、知るものもいなかった。
空気のような、存在。
仲のよかった召使たちや、貴族の姫たちは、粛清が極まるに従って周囲から消えていった。
豪華な城に一人取り残される恐ろしさは、彼女の身を蝕みつづけた。
息が、止まってしまいそうだった。
止まればいいと、思っていた。
――あの日――いつも、行っていた鏡の神殿で、彼に出会うまでは。
「言いたいことは、それだけですから。あと、実務的なことは、全部アルフェリアさんがやってくれてます。心配、要りませんよ」
そうとだけ、言い置いて、彼女は扉を再び開けた。
返事を聞く必要はなかった。
意外に彼は律儀だから、『命の恩人』の言葉は、とりあえず届いているはずだった。
「…」
始めて、怒ってくれた、人だった。
そう、呟いていた。
扉をくぐる、瞬間。
彼に背を向けて、ティナたちにまた出会う狭間の瞬間に、なぜかそのことが思い出されていた。
ミルガウスにたどり着いて、半年。
『カイオス・レリュード』となる、直前の時期。
なんだかんだで、いつもしぶしぶバティーダからの課題を手伝ってくれたり、内緒で城の外に出るのに付き合ってくれていた彼は、アベルがいつものように外出して、たまたまうっかりと崖から落ちそうになったとき、助けてくれて、そのあとに本気で怒ってくれた。
姫だったら姫らしく、おとなしくしてろ、バカ、と。
それまで、ほとんど口を効いたところを聞かないでいたので、ただただ、びっくりしたのを覚えている。
ちゃんと――怒ってくれた。
始めてのことだった。
『いてもいなくても、どうでもいい』存在でなく、自分の命が危うくなったら、困ってくれるような存在。
そのとき、彼女は半ば反射的に紡ぎ出していた。
おとなしくしているから――だから。
『私が、あなたの命を助けた分は、ずっと傍にいてくださいね』と。
■
(…懐かしい、ことですね)
アベルは、苦笑した。
それも、沈んだ気分にさらわれて、すぐに流れさってうやむやになっていく。
何か、おかしい。
堕天使の聖堂で、あのローブの正体が、忌まわしい『モノ』であったと知れてから――。
どういうわけか、気分が一向に晴れなかった。
混血児に裏切られたのが、尾を引いている――といったばかりでもない。
心に重く、蓋をされたような――自分が、押し込まれていくような――そんな、得体の知れない、不気味な感覚が、どういうわけかずっと付きまとっている。
「………」
扉をくぐった先には、アルフェリアやクルス、そしてティナが、入ったときと同じように待っていた。
早かったのね、と言葉をかけるティナにも、あいまいに頷くことしかできない。
何かが、おかしい。
けれど、何がおかしいのか、アベル自身にも、理解できなかった。
そういえば、どうして自分はここに来ようと思ったのだったろうか…。
確かに、理由があった気がしたのだが、それさえも、思い出すことができなかった。
「…早く…帰りましょう」
彼女はとてとてと歩き出す。
慌てて、アルフェリアが付いてくるのにも、ティナとクルスが呆然としたように見送るのにも、ほとんど気付くことができなかった。
離宮の外に出て、豪華な乗り物へと再び乗り込む。
涼しげな離宮を離れ、炎天下の砂漠に入っても、贅を凝らした天幕の中では、比較的快適な移動を実現していた。
「………」
垂れ幕の合間から見える、砂漠の蜃気楼が、遠くの景色をぼやかしている。
まるで、自分のようだ、と感じた。
ゆらめいて、歪んで、――そして、消えてしまう。
(消えて…しまう?)
それは、何か不吉なことのような思えた。
アベルは、呆然と外を見つめ続けた。
やがて、その意識は、滑るように眠りの底へと引き込まれていった。
眠りへと――過去の、『記憶』へと。
■
「おにいさま!! まってください〜」
新緑のみずみずしい匂いが、爽やかな風に運ばれて頬を撫ぜていく。
とてとてと、走る視界が、ずっと前の方を行く二人の兄姉を映している。
「――! 早くなさいな!」
「先に、行ってるよ」
「まってください…」
がんばって、がんばって。
必死に足を動かしているのに、どんどん二人の姿は離れて知ってしまう。
目にじんわりと涙がたまっていく。
何で…どうして、置いていってしまうの…?
「う…ふぇ…」
「――」
「あ…、フェイおにいさま!」
「スヴェル兄さまも、ソフィア姉さまも…とっても足が速いねえ」
後ろから声をかけられて、少女の涙は、みるみるうちに引っ込んでしまった。
大好きなもう一人のお兄さま。
白い布で目を隠して、前は全然見えていないはずなのに、その足取りは、まったく危なげがない。
「――。一緒に、行こうか」
「はい!」
手をつないで、歩き出す。
触れたぬくもりが、とても心地いい。
四人の兄弟たちの、秘密の場所。
決して普通の人は近づけないところ。
『鏡の神殿』。
全部で七つ。
世界を分断する闇の石板を、沈め奉る、『天と地と地の交わる地』。
「おにいさまたち、足が速いですねえ」
「そうだね」
「わたし、ぜんぜん追いつけません」
「――も、すぐに、速くなるよ」
「フェイおにいさまは、ほんとうは、追いつけるんでしょう?」
「うーん」
さくさくと草を踏みしめて歩く。
兄姉の足取りは、すでに遥か遠くに去り、アベルは傍らを見上げた。
異民族の髪の色が、さやさやと揺れている。
いつも、剣の稽古をしていて、なかなかお話できないけれど、アベルはこの兄がとても大好きだった。
「本当は、追いつけるかも知れないんだけど」
「はい」
「僕は、――と一緒に行きたいから」
「ほんとうに、ですか!?」
「うん」
嬉しかった。
いつも、一緒に歩いてくれる。
いつも、守ってくれる。
優しい兄。
「あ、そろそろ神殿ですね!」
「そうだね。………!?」
「おにいさま…?」
神殿が見えたとき、兄の様子が豹変した。
見えないはずの目が、神殿を見据え、いつもは穏やかな表情が硬くこわばっている。
「………!!」
アベルの手を振り解いて、彼は神殿の入り口に向かって、駆け出した。
突然ぬくもりが消えて、アベルはびくりと立ちすくんだ。
反対に、身軽な動きで身を翻した兄王子は、神殿の入り口へとたどり着いていた。
スヴェルとソフィアは中に入ってしまったようで、姿はない。
本当は、入ってはいけない所。
いつもは、入り口の付近で遊ぶだけだった。
なのに、何で今日は、その中に入ってしまえているのだろう――。
黒い入り口が、ぽっかりと口をあけていた。
「にいさま!! ねえさま!!」
ほとんど叫びながら、ためらいなく、神殿の中に入っていくフェイのその姿が、なぜか不吉な予感を持って、アベルの目に焼きついていった。
そのまま――兄が、消えてしまいそうで。
「お…にい、さま…」
息を途切れさせながら、アベルもやっと神殿の入り口にたどり着く。
その瞬間だった。
中から突き出した手が、アベルを外に突き飛ばしていた。
「!?」
あまりに強い力に、アベルはまともに転がされる。
草が肌を切って、とても痛かった。
自分を突き放した人間が、フェイだと、それだけは分かっていた。
後は、何も分からない。
どうして、兄は、そんなことをするのだろう。
ひどい、とても、ひどい――。
じんわりと、目に涙が溜まる。
だが。
「!?」
轟と。
空気が、啼いた。
突然、立ち昇った、黒い炎。
スヴェルが、ソフィアが、そしてフェイが。
中にいるはずの、自分が今入ろうとして突き飛ばされた、正にその場所から、煌々と赤い煙が立ち昇っていた。
「…あ」
どうしよう。
どうすれば、いい?
空回る思考は、立ち昇る煙に蝕まれていく。
爆煙。
白煙。
全てが、大切なものを飲み込んでいく。
「な…んで…どうして…?」
何が、起こっているんだろう…
お兄様たちは…?
(――助けてあげてもいいわよ)
「!?」
アベルは、目を見開いた。
自分の『記憶』には――これまでの、夢には、こんな情景、ない。
今までは、なかった。
(なんで…? 誰…?)
(助けて、あげてもいいわよ。あなたの、大切な兄弟たちを)
(助けて、ください!!)
アベルは、必死に念じた。
何でもいい。
兄たちが、助かるのならば。
何を、支払っても、いい!!
(じゃあ…)
声が、くすりと微笑んだ気がした。
甘い、夢魔の、甘美な、美酒。
自分の夢の中で――。
夢だと分かっている情景の中で、アベルは、目を見開いた。
自分の内なる声に、心臓を、わしづかみにされた気がした。
(あなたを、ちょうだい。『あなた自身』を)
■
結局、兄と姉は、助からなかった。
そして、ただひとり生き残ったフェイおにいさまも、石板が砕け散った原因とされて、追い詰められた挙句、崖から転落してしまった――。
大好きだった、お兄様。
自分があのときのことを思い出せていたら、彼は――死なずに済んだはずだ。
彼女は、その後自分の名を捨てた。
『アベル』と――。
兄に殺された、天使の名前を名乗るようになった。
罪なる己の存在。
(助け…られなかった…)
手足が、重い。
頭が、ぼうっと霞んでいく。
アベルは、夢の中で、一人涙を流した。
■
「よく寝てるな…」
同じ天幕で揺られながら、死んだように眠る王女を見遣って、アルフェリアは苦笑した。
どんな、夢見てんだか、と呟いて、彼はその寝顔を見つめる。
クルスは、『けはいが違う』とか言っていたが…。
「どこも、違わねえよなあ」
ぼそりと呟いて、彼は外の景色に目を向けた。
炎天下の砂漠は、ゆらめく陽炎を立ち昇らせて、ゆらゆらとたゆたっていた。
それきり、外の景色へと目を遣った彼は、眠っている少女が、夢を見ながらふとこぼした涙には気付くことはなかった。
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