Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  第二章 二人目の来訪者 
* * *
「………」
 王の離宮の扉をくぐると、褪せた金髪が向こう側を向いて横たわっているのが見える。
 彼女のよく知るミルガウスの左大臣は、三年前――ミルガウスに転がり込んで来たときに、介抱されていたときも、彼女が部屋に入ると大抵、あちらを向いていた。
 本当に眠っているときもあったのだろうが――ほとんどが、彼女と視線を合わさないためだと知っていた。
 だから、今回もアベルは気にしなかった。
 聞かれていても、聞かれていなくても、いい。
 大切なのは、彼女の護衛が自分の傍に戻ってきた、という事実。

「一つだけ、あなたに言いに来たんです」

 ひょっとしたら、忘れているかも知れないと思って。
 そう、アベルは切り出した。
 こちらを向いた背中は、何も反応を返さなかった。
 アベルは、続けた。

「あなたが…何者だろうと、実を言うとどうでもいいんです。大切な人は、みんな、私が離れていくんです。お兄さまも、優しかったお父さまも――。
 だから、あなたが、離れていくのだって、別にどうでもいいんです。私には。
 けど…」

 約束しましたよね、と言った声は少し掠れていた。
 祈るように。
 それを聞く相手は、忘れてしまったかも知れない言葉を。

「私が…あなたの命を助けたその分だけは…傍にいて、守ってください。いなくならないで、ください」



 兄たちが死んだ王宮の中では、いつも一人ぼっちだった。
 王位継承者たちが、根こそぎいなくなってしまった城の中では、連日、賢王による粛清が行われ、緊迫した空気と、絶望的な悲しみが、切々と漂っていた。
 自分のお守り役であるバティーダ・ホーウェルンも、忙しく立ち回り、彼女はいつも城を抜け出して、石板の安置してある――鏡の神殿に遊びに行っていた。
 お供の者もいなければ、自分がいなくなって、怒るものも、悲しむものも――いつ、抜け出したのかさえ、知るものもいなかった。
 空気のような、存在。
 仲のよかった召使たちや、貴族の姫たちは、粛清が極まるに従って周囲から消えていった。
 豪華な城に一人取り残される恐ろしさは、彼女の身を蝕みつづけた。
 息が、止まってしまいそうだった。
 止まればいいと、思っていた。
 ――あの日――いつも、行っていた鏡の神殿で、彼に出会うまでは。



「言いたいことは、それだけですから。あと、実務的なことは、全部アルフェリアさんがやってくれてます。心配、要りませんよ」

 そうとだけ、言い置いて、彼女は扉を再び開けた。
 返事を聞く必要はなかった。
 意外に彼は律儀だから、『命の恩人』の言葉は、とりあえず届いているはずだった。



「…」

 始めて、怒ってくれた、人だった。
 そう、呟いていた。
 扉をくぐる、瞬間。
 彼に背を向けて、ティナたちにまた出会う狭間の瞬間に、なぜかそのことが思い出されていた。
 ミルガウスにたどり着いて、半年。
 『カイオス・レリュード』となる、直前の時期。
 なんだかんだで、いつもしぶしぶバティーダからの課題を手伝ってくれたり、内緒で城の外に出るのに付き合ってくれていた彼は、アベルがいつものように外出して、たまたまうっかりと崖から落ちそうになったとき、助けてくれて、そのあとに本気で怒ってくれた。
 姫だったら姫らしく、おとなしくしてろ、バカ、と。
 それまで、ほとんど口を効いたところを聞かないでいたので、ただただ、びっくりしたのを覚えている。
 ちゃんと――怒ってくれた。
 始めてのことだった。
 『いてもいなくても、どうでもいい』存在でなく、自分の命が危うくなったら、困ってくれるような存在。
 そのとき、彼女は半ば反射的に紡ぎ出していた。
 おとなしくしているから――だから。

『私が、あなたの命を助けた分は、ずっと傍にいてくださいね』と。


(…懐かしい、ことですね)
 アベルは、苦笑した。
 それも、沈んだ気分にさらわれて、すぐに流れさってうやむやになっていく。
 何か、おかしい。
 堕天使の聖堂で、あのローブの正体が、忌まわしい『モノ』であったと知れてから――。
 どういうわけか、気分が一向に晴れなかった。
 混血児に裏切られたのが、尾を引いている――といったばかりでもない。
 心に重く、蓋をされたような――自分が、押し込まれていくような――そんな、得体の知れない、不気味な感覚が、どういうわけかずっと付きまとっている。
「………」
 扉をくぐった先には、アルフェリアやクルス、そしてティナが、入ったときと同じように待っていた。
 早かったのね、と言葉をかけるティナにも、あいまいに頷くことしかできない。
 何かが、おかしい。
 けれど、何がおかしいのか、アベル自身にも、理解できなかった。
 そういえば、どうして自分はここに来ようと思ったのだったろうか…。
 確かに、理由があった気がしたのだが、それさえも、思い出すことができなかった。
「…早く…帰りましょう」
 彼女はとてとてと歩き出す。
 慌てて、アルフェリアが付いてくるのにも、ティナとクルスが呆然としたように見送るのにも、ほとんど気付くことができなかった。
 離宮の外に出て、豪華な乗り物へと再び乗り込む。
 涼しげな離宮を離れ、炎天下の砂漠に入っても、贅を凝らした天幕の中では、比較的快適な移動を実現していた。
「………」
 垂れ幕の合間から見える、砂漠の蜃気楼が、遠くの景色をぼやかしている。
 まるで、自分のようだ、と感じた。
 ゆらめいて、歪んで、――そして、消えてしまう。
(消えて…しまう?)
 それは、何か不吉なことのような思えた。
 アベルは、呆然と外を見つめ続けた。
 やがて、その意識は、滑るように眠りの底へと引き込まれていった。
 眠りへと――過去の、『記憶』へと。


「おにいさま!! まってください〜」

 新緑のみずみずしい匂いが、爽やかな風に運ばれて頬を撫ぜていく。
 とてとてと、走る視界が、ずっと前の方を行く二人の兄姉を映している。

「――! 早くなさいな!」
「先に、行ってるよ」
「まってください…」

 がんばって、がんばって。
 必死に足を動かしているのに、どんどん二人の姿は離れて知ってしまう。
 目にじんわりと涙がたまっていく。
 何で…どうして、置いていってしまうの…?

「う…ふぇ…」
「――」
「あ…、フェイおにいさま!」
「スヴェル兄さまも、ソフィア姉さまも…とっても足が速いねえ」

 後ろから声をかけられて、少女の涙は、みるみるうちに引っ込んでしまった。
 大好きなもう一人のお兄さま。
 白い布で目を隠して、前は全然見えていないはずなのに、その足取りは、まったく危なげがない。

「――。一緒に、行こうか」
「はい!」

 手をつないで、歩き出す。
 触れたぬくもりが、とても心地いい。
 四人の兄弟たちの、秘密の場所。
 決して普通の人は近づけないところ。
 『鏡の神殿』。
 全部で七つ。
 世界を分断する闇の石板を、沈め奉る、『天と地と地の交わる地』。

「おにいさまたち、足が速いですねえ」
「そうだね」
「わたし、ぜんぜん追いつけません」
「――も、すぐに、速くなるよ」
「フェイおにいさまは、ほんとうは、追いつけるんでしょう?」
「うーん」

 さくさくと草を踏みしめて歩く。
 兄姉の足取りは、すでに遥か遠くに去り、アベルは傍らを見上げた。
 異民族の髪の色が、さやさやと揺れている。
 いつも、剣の稽古をしていて、なかなかお話できないけれど、アベルはこの兄がとても大好きだった。

「本当は、追いつけるかも知れないんだけど」
「はい」
「僕は、――と一緒に行きたいから」
「ほんとうに、ですか!?」
「うん」

 嬉しかった。
 いつも、一緒に歩いてくれる。
 いつも、守ってくれる。
 優しい兄。

「あ、そろそろ神殿ですね!」
「そうだね。………!?」
「おにいさま…?」

 神殿が見えたとき、兄の様子が豹変した。
 見えないはずの目が、神殿を見据え、いつもは穏やかな表情が硬くこわばっている。

「………!!」

 アベルの手を振り解いて、彼は神殿の入り口に向かって、駆け出した。
 突然ぬくもりが消えて、アベルはびくりと立ちすくんだ。
 反対に、身軽な動きで身を翻した兄王子は、神殿の入り口へとたどり着いていた。
 スヴェルとソフィアは中に入ってしまったようで、姿はない。
 本当は、入ってはいけない所。
 いつもは、入り口の付近で遊ぶだけだった。
 なのに、何で今日は、その中に入ってしまえているのだろう――。
 黒い入り口が、ぽっかりと口をあけていた。

「にいさま!! ねえさま!!」

 ほとんど叫びながら、ためらいなく、神殿の中に入っていくフェイのその姿が、なぜか不吉な予感を持って、アベルの目に焼きついていった。
 そのまま――兄が、消えてしまいそうで。

「お…にい、さま…」

 息を途切れさせながら、アベルもやっと神殿の入り口にたどり着く。
 その瞬間だった。
 中から突き出した手が、アベルを外に突き飛ばしていた。

「!?」

 あまりに強い力に、アベルはまともに転がされる。
 草が肌を切って、とても痛かった。
 自分を突き放した人間が、フェイだと、それだけは分かっていた。
 後は、何も分からない。
 どうして、兄は、そんなことをするのだろう。
 ひどい、とても、ひどい――。
 じんわりと、目に涙が溜まる。
 だが。

「!?」

 轟と。
 空気が、啼いた。
 突然、立ち昇った、黒い炎。
 スヴェルが、ソフィアが、そしてフェイが。
 中にいるはずの、自分が今入ろうとして突き飛ばされた、正にその場所から、煌々と赤い煙が立ち昇っていた。

「…あ」

 どうしよう。
 どうすれば、いい?
 空回る思考は、立ち昇る煙に蝕まれていく。
 爆煙。
 白煙。
 全てが、大切なものを飲み込んでいく。

「な…んで…どうして…?」

 何が、起こっているんだろう…
 お兄様たちは…?

(――助けてあげてもいいわよ)

「!?」

 アベルは、目を見開いた。
 自分の『記憶』には――これまでの、夢には、こんな情景、ない。
 今までは、なかった。

(なんで…? 誰…?)

(助けて、あげてもいいわよ。あなたの、大切な兄弟たちを)

(助けて、ください!!)

 アベルは、必死に念じた。
 何でもいい。
 兄たちが、助かるのならば。
 何を、支払っても、いい!!

(じゃあ…)

 声が、くすりと微笑んだ気がした。
 甘い、夢魔の、甘美な、美酒。
 自分の夢の中で――。
 夢だと分かっている情景の中で、アベルは、目を見開いた。
 自分の内なる声に、心臓を、わしづかみにされた気がした。

(あなたを、ちょうだい。『あなた自身』を)


 結局、兄と姉は、助からなかった。
 そして、ただひとり生き残ったフェイおにいさまも、石板が砕け散った原因とされて、追い詰められた挙句、崖から転落してしまった――。
 大好きだった、お兄様。
 自分があのときのことを思い出せていたら、彼は――死なずに済んだはずだ。
 彼女は、その後自分の名を捨てた。
 『アベル』と――。
 兄に殺された、天使の名前を名乗るようになった。
 罪なる己の存在。

(助け…られなかった…)



 手足が、重い。
 頭が、ぼうっと霞んでいく。
 アベルは、夢の中で、一人涙を流した。


「よく寝てるな…」
 同じ天幕で揺られながら、死んだように眠る王女を見遣って、アルフェリアは苦笑した。
 どんな、夢見てんだか、と呟いて、彼はその寝顔を見つめる。
 クルスは、『けはいが違う』とか言っていたが…。
「どこも、違わねえよなあ」
 ぼそりと呟いて、彼は外の景色に目を向けた。
 炎天下の砂漠は、ゆらめく陽炎を立ち昇らせて、ゆらゆらとたゆたっていた。
 それきり、外の景色へと目を遣った彼は、眠っている少女が、夢を見ながらふとこぼした涙には気付くことはなかった。

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