Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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    序章 
* * *
――???



「あの…、その人は、私の連れですが」

 それが、『彼女』の第一声だった。
 彼には、一瞬理解できない言葉だった。
 砂漠の国の、乾いた砂が目に染みて、すぐにはその姿が判別できなかった。
「…」
 自分を組み敷く大人たちが、呆然としたようにざわめいていく。
 魔女だ、という囁きの後に、おそるおそる人の輪が広がっていった。
 波から取り残された孤島のように、人々の中心に残ったのは、二人。
 ようやく、顔を上げた彼の前に、その少女は、いた。
 瞳は、永遠に閉じたまま。
 なびく髪は、砂漠の国の典型的な淡い色をしていた。
「そいつは…露店の物を盗みやがったんだ…!!」
「では、私が代わりに」
 周りの野次には、穏やかな返答が。
 ――彼には、到底信じられない言葉を、あっさりと女は吐いた。
 七君主の元を、逃げ出した後のことだった。
 憧れていた『外』の世界は、身一つでさまようたかだか十歳の子供には、決して甘いものではなかった。
 加えて、常に加えられる『ダグラス』たちの攻撃。
 昼は、人売り商や犯罪者の類に怯え、夜は森の魔物や盗賊の類に怯え。
 昼も夜も、ダグラスたちの襲撃に怯えて。
 寄る辺も、着るものも、食べるものも、なく。
 ついに、手を出してしまった白昼の露店の果物。
 あっという間に、取り押さえられた。
 殴られ続けて、意識が遠のいたとき、彼の前にいたのは、盲目の少女だった。

「………なぜ」
 野次馬たちの中を、少女は彼を抱えて歩き続けた。
 街を抜けて、オアシスから離れた砂漠を抜けて、微かに緑が宿る涼しい空間に入る。
「…」
 砂漠なのに、と思ったとき、少女は口を開いた。
「わたしは、『マリア』。王の離宮…ここの領地の端で、私は王の為に薬を調合しています」
 それは、世界の三大公用語と呼ばれる、ミルガウス、キルド族の商用語と並ぶ、アクアヴェイル語だった。
 間違っても、砂漠の民が日常的に使う言葉ではない。
 自分のの容姿から、彼女が合わせてくれたことくらいは、容易に分かった。
 つまり――それだけ、教養と位階も高いということの――厳然たる証明だった。
「…」
「オアシスの…王の恵みの結果、植林が可能になり、こうしてここだけ緑が根付いているのです」
 透き通った声で語る少女は、目の見えないはずなのに、足取りは確かに地を踏みしめていく。
 ふと、彼の耳に先ほどの大人の言葉が蘇った。
 『魔女だ』。
 人々は、確かに彼女をそう呼んだ。
「…私は、『気』が読めるのです。混血児と違って、人の心が手に取るように分かる、というわけではないのですが、大地の気、水の気、空気の気、太陽の気――全ての自然の気を読んで、暮らしているのです。目が見えなくても…分かる」
「………なぜ」
 そんな人間が、自分を助けた、と思った。
 人々は、彼を疎むだけだった。
 所詮は、『外れた』身の上だ。
 そんなことは、痛いほどに身に沁みていた。
 だから。
「困っている人を助けるのは、当たり前のことではないでしょうか」
 その言葉を聞いたとき、何と返答していいのか、分からなかった。
 誰も、今まで彼に手を差し伸べる人間はいなかったし、自分からそれをすることはできなかった。
 いつ、襲ってくるか分からない『ダグラス』たち。
 自身の境遇を、知られるわけには――他人を巻き込むわけには、いかなかった。
 できたのは、『逃げる』ことだけだ。
「…」
「私の家には、薬草があります。よかったら、食事も」
 自分を抱えあげる少女の手が、傷の痛みを越えて温かかった。
 閉ざして凍りついた感情の欠片が、微かに溶け出したような気がした。
「…」
 この地でいう、お礼の言葉は、何と言うんだろうか。
 通り過ぎていく土地の言葉は、耳に流れて消えていく。
 彼の優秀すぎる記憶力は、いくつかの断片を正確に汲み取っていたが、ほとんどは、侮蔑か罵倒――感謝を表す言葉は、知らなかった。
「………」
「そうだ、あなたの、名前は?」
「…」
 思考にふけっていた彼は、とっさの言葉に顔色を失う。
 『赤い目のダグラス』。
 『青い目のダグラス』。
 『意思の無いその他』。
 自分の周りには、それしかいなかった。
 外の人間たちに、『名前』があることすら、最初は実感が湧かないことだった。
 自らの名を問われることすらなかった。
 あえて言うのなら、『失敗作』という呼称だろうか。
 だが、それを『名前』ということはできない。
「…」
「あ…」
 様子が変わったのが、傍目に分かったのか、彼女の声が変化した。
 取り成そうとした。
 その前に、決定的な変化が、起こった。
 ――起こって、しまった。
 彼らの歩く道に。
 突然現れた、幾つもの人影。
「『ダグラス』だ、そいつの、名前は」
 自身と同じ声。
 同じ容姿。
 背後に十数人の『ダグラス』たちを引き連れて、青い目をした意思在るダグラスは、悠然と微笑んで、そちらを見た。
「ダグラス…――七君主さまに逆らう、愚かなる失敗作よ…」
 幾人もの、魔力が立ち昇ったのが、分かった。
 彼には、理解できた。
 それから、起こる惨劇は、その血潮の飛び散る様子まで彼の中に焼き付いていった。
「…――」
 見開かれた目の中で、光景が動く。
 それは――。
 最初の一閃が、もぐりこむように女の胸に吸い込まれていく様子は――色褪せることなく、霞み紛れることなく、氷でできた彫刻の楔が打ち込まれたように、彼の中に残った。



 始めて『人』を殺した日の、出来事だった。


(すごい…汗………)
 カイオス・レリュードが意識を取り戻して、三日。
 ティナは相変わらず彼の看病を続けていた。
 本人がぽつりとこぼしたところによると――属性の反動だから仕方のないこと、ということらしいのだが、今だに熱が高く、起き上がることもできないどころか、食事もほとんど受け付けない。
 これは、体力的にやばいんじゃ…と思うも、病気のわけでもなく、薬も医者も効かない状況。
 今も、半ば意識を手放すように眠る彼の汗を拭こうと、ふと、手を伸ばしたときだった。
「………」
(あ…)
 熱に浮かされた口が呟いた、一人の女の名前。
 『マリア』。
(…)
「………」
 とっさに手を引っ込めてしまった自分を、彼女は思わず笑った。
 こんな状態のときに、呼ぶ名前なんて、よほどの大切な人に決まっている。
 ミルガウスの左大臣で、しかも年頃の男子だ。
 性格はともかく、容姿もすばらしい。
 ティナが知らないだけで、『相手』くらい、探さなくてもいるのだろう。
 そんなこと、当たり前のことなのに。
(こーんなところで)
 かちんと来るよりも、むしろ気が抜けたような笑みが、頬に広がっている。
 とほほ。
 あえていうのなら、そんなところか。
「私が看病してるってのに、別の女の子を呼ぶこと、ないんじゃない?」
 もちろん、聞こえていないのくらい、百も承知だし、むしろ聞かれていたら困る。
 これは、彼の問題であって、自分に関係のあることじゃない。
 けれど、湧き上がる笑みと裏腹に、心の中に何かひっかかりが広がっているのも、事実で。
 多分、数日前にうっかり笑顔なんて見たので、舞い上がってしまっていたところに、『現実』を思い知って気が抜けているのだろう。
「…」
 バカねえ、私。
 そう言って、彼女はすっと身を翻した。
 足音を立てないように、扉から出ようとした矢先、逆にノックの音がする。
「?」
 クルスだろうか。
 しかし、少年なら、そんな回りくどいことせずに、さっさと入ってくるものを。
「はい」
 声を返すと、がちゃりと開いた。
 そこから覗いた、ちょっと久しぶりの人物の姿に、ティナは目を見開いて、思わず名前を呼んだ。
「アルフェリア…!」
「ちょっといいか? カイオスに話があるんだが」
「今…?」
 死に絶えた都の後処理もかねて、アベルと共に王宮に滞在しているはずのゼルリア将軍が、どうしてここ、王の離宮に来るんだろう。
 彼は、操られた前後から、カイオスと言葉のやりとりを、ほとんどしていない。
 だが、彼について、疑惑の視線は常に向けていた。
 それが、七君主の戦いを経て、少しは変化したのだと信じたいところなのだが、ティナができたのは、カイオスの『生い立ち』の部分をほんの少しばかり伝えるところだけ。
 アルフェリア自身の見解が、今現在どうなのか、ティナ自身も分からないでいた。
 その彼が、カイオスと話をしに来た、と言う。
 詰問めいたやりとりをする気なのか、そんなところまでは、知れなかった。しかし、その話の相手は、意識も定かではない状態だ。
「あの…まだ、意識が…」
「何?」
 アルフェリアの顔が曇る。
 だから、日を改めて。
 続けようとしたティナの言葉より先に、背後で声がするのが先だった。
「何か、用か」
「カイオス!?」
「…」
 確かに、さっきまで眠っていたはず。
 驚いて声を上げるティナと反対に、アルフェリアは目を細めている。
 半身を起こしたカイオス・レリュードは、血の気のない顔を将軍の方に向けた。
 理性を宿した瞳には、いつもの強さがあった。
「…話がある」
「ああ」
 二人の間に巻き起こった、無言の圧力に押されるように、ティナはその場を後にした。
「………」
 言葉はない。
 思いを、言い表すこともできない。
 ただ、祈るように、彼女はそっとため息をついた。

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