――シェーレン国 緑の館
「………」
うーん、とティナは、ため息交じりの吐息を漏らしていた。
とっぷりと日の暮れた館の、あてがわれた部屋で一人。
ろうそくの明かりを見つめながら、彼女の脳裏をぐるぐると何回も、夕方の景色が巡っていた――
「…へ?」
「は?」
ティナ・カルナウスとカイオス・レリュード。
二人の声のタイミングが、珍しく完全に一致したのは、黒髪の将軍アルフェリアが王女アベルを連れてやってきた後――。
第一声を放った直後だった。
「いやだから、今日カイオスと一緒に、朝帰りしてくるからよ」
にやりと笑った将軍が、一字一句違わず繰り返す。
改めて、それを聞いたティナは、言葉とそれの表す内容の凄まじさに、怒髪天を貫く勢いで、狼狽した。
「な、なななななななな!?」
「別に、珍しいことじゃねっつの。なー? 左大臣?」
からっと爽やかなアルフェリアの視線の先で、件の左大臣は、ものすごく呆れた表情(かお)をして佇んでいる。
「ほらアレ。飲みに行こうっつってたじゃんかよ。アベルはティナに預けてりゃいいじゃん」
「………」
カイオスは推し量るような視線を向けるが、アルフェリアはあえて軽い調子だった。
ティナが、傍で混乱するのを尻目に、しばし無言の応酬が続いてから、
「分かった」
「そうこなきゃなー」
「な!!」
意外な承諾に、ティナは目を剥く。
何あんた『マリア』がいるんじゃないの『マリア』が!!!
男ってやっぱりケダモノなのね信じられない…!!
そんな、痛々しいほどの心の叫びを、全開に撒き散らして凝視する先で、二人は、じゃ、と連れ立っていく。
一人――いや、アベルと二人残されて、ティナは呆然と立ち尽くしていた。
「………」
はあ、とティナは思いため息を吐く。
いや、分かっている。分かってはいるのだ。
彼がどこで何をどんなことを誰としようと、それは彼の自由であって、ティナがどうこう思うことではない。
分かってはいるのに、なぜか、彼が七君主に操られて、ティナに剣を向けた――いや、ひょっとしたら、その時以上の衝撃が、ティナを襲っていた。
「…」
どうしてだろうか。
分かってはいるのに、よく、分からない。
(こんなの…)
こんなの、初めてだ。
アベルや――もしも、ここにいたとしても――クルスに、相談する類のことではないことだけは、どこかで分かっていた。
だからといって、気持ちが晴れるわけではないのだが。
「…」
そういえば、アベルはアルフェリアに連れて来られてから、ずっと奥の部屋で一人、閉じこもって姿を見せないでいる。
死に絶えた都の後から、何かがおかしい。
そんな彼女に対して、クルスが何気なく言った言葉――『気配が違う』…。
(気配…?)
確かに、雰囲気が、全然違う。
けれど、だからといってそれ以上のことではないのも事実な気も…するのだが。
「…」
ふうと、彼女は何度目かのため息をつく。
そう、この館には、自分とアベルがいるだけではない。
カイオスのいない今、自分では気付くことのできない、誰かの『目』。
自分が、しっかりとアベルを守らないといけないのだが、自分にできることは、せめて気を抜かないことだけ…。
「アベル…部屋に入れてくれないからな…」
一人になりたい、といって引きこもった少女は、何かを拒絶するような空気が感じられて、それ以上踏み込むことはできなかった。
不審なアベル。
外出した男子たち。
不在の相棒。
去ってしまった副船長。
自分たちを監視する『誰か』。
「………」
いつの間にか慣れてしまった日常が、どこか、懐かしかった。
砂漠の夜は、長そうだった。
■
――シェーレン国 王都アクアジェラード酒場
雑多な音が、こじんまりとした酒場に響いていた。
褐色の肌をした砂漠の民が半分、残りの半分はさまざまな色彩を持った流通に関わる異民族たちが、日中の疲れを癒すために、酒を酌み交わしている。
その一角――店の隅にひっそりと陣取った、二人の異国人――カイオス・レリュードとアルフェリア・ラルバスク・J・フェーダンは、大半の客の例に漏れず、酒を肴に会話を進めていた。
「…いやー、しかし、回復したもんだなー。一回会ったときには、今にも死にそうだったから、心配してたんだけどよー」
「…」
「しかし、クルスが不在だってのは、驚いたな。こっちは、仕事してんのによー。若い女と二人なんて、うらやましーね」
「………」
「おい、何とか言えって」
酒のせいか、普段よりは態度と口が軽い。
随分と杯が進んでいる割に、平然としたアルフェリアの催促に乗る形で、カイオス・レリュードはやっと口を開いた。
酒の影響は全くといっていいほど見受けられない――そんな、端正な顔に浮かべた、うんざりとした表情を、隠そうともせず、はき捨てるように呟く。
「誘うにしても、言葉を選べよ」
「ああー『朝帰り』ってヤツか」
「…」
「ティナも子供じゃねーんだから、大丈夫だろ」
「そういう問題じゃない。妙な噂でも立ったら、どうする」
「マジメだねえ」
「…」
実際、男からも女からも言い寄られると評判の『ミルガウスの左大臣』の色恋沙汰は、驚くほど噂になることが少なかった。
ほとんどない、と言っても過言ではない。
「何、お前人に言えない『趣味』でもあるのかよ。あっち系とか」
「…『趣味』もあっちでもない。こっち側だ。邪推するな」
「…」
「何がきっかけで、揚げ足とられるか、分かったもんじゃない。身辺は、綺麗にしておくに越したことはない」
「あー、なるほど、そっちの話ね」
『異国人』で、出自不明。
そんな立場での、絶大な権力者という肩書き。
快く思わない人間は、掃いて捨てるほどいる…つまりそれは、何かの拍子に追い落とす『アラ』を四六時中探されていることを意味している。
政治的な配慮、というわけだ。
(オレだったら嫌気差すけどねー。そんな生活)
針のむしろに座っているような心地なんだろうな、と身を固めるまで、自身は奔放な生活を楽しんでいたゼルアリの将軍は、同情するような心地で呟いた。
「あんたのミルガウス語が、カンペキなのも、その関係?」
「…まあな」
「なるほど」
カイオス・レリュードは、異国人にありがちなミルガウス語における訛りが、一切といっていいほどにない。
かつては、それで問いただしたこともあったが、ティナから彼の出自の一端を聞いた今では、他人事ながら感心する思いの方が勝っていた。
「七君主に『作られて』、そこ逃げ出して、放浪して。んで、挙句にたどり着いたミルガウスで、バティーダ殿に見出されたって? ウソみたいな話だよなー」
軽い調子はそのままに、何気なく切り出すと、カイオスは目を伏せた。
そこに、ほとんど感情はないようにも見える。
そう例えば――ティナを傷つけた、七君主に対してみせたような激情――そんな、人間らしい感情を持っているようには、見えなかった。
どこまでも、突き放したような。
「信じるのも、信じないのも、そっちの自由だろ。勝手にしろ」
「勝手にするね。とりあえず、ウソにしても、マシなウソつけよって感じの話だからな」
信じるしか、ないのかね、と将軍は言い切った。
間髪いれずに、続ける。
「けど、一つ気になったんだけどな。あんたのミルガウス語は、訛りがないのに」
「…」
「あんたの話すアクアヴェイル語は、ミルガウス語寄りの訛りがあるよな」
「………」
何でかな、とアルフェリアはさりげなく問う。
さあな、とだけ応えたカイオスは、そのまま話題を変えた。
「ところで、あの女の前で、あんな言葉まで使って俺を連れ出したわけを、そろそろ話してもらおうか」
「おっと。男の親睦を深めるのに、酒と女はツキモノよ?」
「………」
「悪い。ウソウソ」
ふざけた調子で、肩を竦めたアルフェリアは、カイオスの殺気を感じて、素直に謝った。
表情を改めて、ことりとグラスを置く。
揺れる琥珀色のきらめきを、黒い瞳で見つめながら、
「…気付いてるか?」
そう、低く切り出した。
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