――シェーレン国首都 アクアジェラード王城
アベルを引き連れたアルフェリアが、王城に戻ると、そこには混乱の渦が待っていた。
「な」
国を動かす最上級の官吏たちが、ばたばたと廊下を走り回っている。
庭を捜せだの、部屋を見ろだの…。
「何だってんだ…?」
仮にも、他国の貴賓が逗留中に、さらしていい姿ではない。
呆然と立ち尽くすアルフェリアを傍に、アベルは相変わらず黙りこくったままで、すたすたと自室に戻ってしまった。
見送るアルフェリアは、一人立ち尽くす。
行動するのに、荷物はなくなったが、かといって状況を把握するのには、時間がかかった。
「おい…」
「今、取り込み中ゆえ、失礼」
「っ…」
どの人間も、そんな言葉を返す。
形振りを構っていられないとはいえ、他国の人間に知られてはならないことが、起こっているということなのだろうか。
「………」
眉をひそめたアルフェリアに、突然背後から、声がした。
「『水の巫女が消えたのだ』」
「!?」
一瞬、鳥肌が立つ。
気配など、感じなかった。
現に、聞こえるのは声だけ――素早く伺った背後には、人影も見えない。
仮にもゼルリアの将軍職にある、場数を踏んだ自分が。
背後を突かれた、薄気味悪い恐怖。
「何者だ」
人影のない場所に移動し、低く問いかける。
自分の背後を影のように移動した気配は、囁くように答えた。
「あなたを、ずっと監視していた者だ」
「………」
「緑の館に滞在中の左大臣たちの元にも、同じような『監視』があったろう」
「…」
言葉を受け取ったものの、すぐには返答できず、アルフェリアは口を閉ざす。
次の一手をどう打つべきか。
『監視』をしているということは、それはシェーレンの手の者であるという可能性が高い。
それでいて、こういった事態で接触をしてくるということは、シェーレン側が自分たちに対して揺さぶりをかけているのか、もしくは本当に自分たちと手を結びたがっているのか――。
(図られてるのか…)
どのように出るべきか。
打つ手をあぐねたゼルリアの将軍は、結局話の矛先を変えた。
「巫女が、消えた、とは」
「あなたが、外出するのと入れ違いで、『いなくなった』らしい。実は、昨晩も行方が知れなかったが、それは内々に処理された。朝には、戻ってきたからだ。――あなたに連れられて」
「な!?」
「私は、ずっとあなたを監視していた。王族以上の階級でなければ謁見できない水の巫女にも、会ったことがある。それで、知った。昨日、巫女があなたに連れられて王城に戻られたことを」
「………!」
昨日の夜、と聞いて、彼は息を呑んだ。
左大臣と二人で酒を飲んでいた最中。
酔っ払いに絡まれていた女を助けた。
カイオス・レリュードが、珍しくありありと驚きを見せていたのを、アルフェリアはよく覚えていた――その印象が強すぎて、その後城近くまで送っていった女の記憶は、そんなに残っているわけでなかった。
城の近くまで送っていく道中、ずっと、下を向いて――なにやら、考え込んでいた女。
「………それが、本当だという、確信はあるのか」
「ないな」
声は、恐ろしくあっさりと言い放った。
アルフェリアは背後を伺うが、相変わらず気配のみで姿は見えない。
「だが、事の真偽に関わらず、あなたは俺に話を聞きたいはずだ」
「…そうだな」
「――頼みがある」
「…」
アルフェリアは迷った。
自分たちを監視していた、シェーレンの人間。
それが、直接話をしてくるとなれば、本来願ってもいないことのはずだが――
(なるよーに、なるかな)
ぐずぐずしていても、拉致が空かない。
アルフェリアは、ちらりと王女のことが気になったが、シェーレンの王宮で滅多なことはないだろうと見当をつけた。
ため息混じりに、低く告げた。
「…とりあえず、姿見せな。――信じて欲しいんならな」
「………」
人気のない場所の、闇の中で。
切り取られるように、人影が姿を現した。
(どんな…ヤツだってんだ)
アルフェリアは、胸中で呟く。
シェーレンの、機密に関わり――自分たちを監視する人間だ。
国の実態はヴェールの向こうとは言え、かなりの重要な地位を占める人間のはず。
その人間が、裏切るような行動をしているのだから、その姿を拝むといえば、いくらアルフェリアとは言え、身が引き締まった。
事の運びようによっては――シェーレン内部に、つてを持てるかも知れない。
だが。
「…な」
闇の中から、輪郭が切り取られていく。
堂々とした体躯。
闇のどこに隠しきれていたのかと、いっそ嘆息するほどの――細身のアルフェリアよりも、一回り大きく堂々とした存在感を示していた。
しかし、ゼルリアの黒竜を驚かせたのは、影者にそぐわない、威容ではなかった。
「…あんた」
闇の向こうから、その黒よりもなお深い、漆黒の瞳が、将軍を射抜いている。
「ミルガウス人…」
なぜ、シェーレンの機密に、ミルガウスの風貌をした男が携わっているのか。
乾いた声を落としたアルフェリアの眼前で、男はちらりと、目礼をしてみせた。
■
――シェーレン国 王都裏町
燦然と輝く太陽に照らされた王宮は、眩しいほどの威容を遥か彼方の砂の大地にまで、悠然とさらしている。
王宮の膝元たる、王都アクアジェラードの賑わいも、その繁栄を彼方まで轟かせながらも、ひっそりとした深い闇を隠し持っていた。
夜の間だけ、姿を現すとさえ言われる、郊外の闇街。
太陽が全てを照らす昼は、閑散とした石造りの家屋が立ち並び、特に人通りも無い。
表の姿だけ見れば、廃墟にも見まがう。
風だけが吹きすさぶ寂れた道を、アクアヴェイル人の青年と、シェーレン人の少女は、無言で歩いていた。
「……」
平然と地を踏みしめる青年と違い、少女は辺りの様子を伺いながら、そわそわと落ち着かない。
――無理も無い。
一見、整然と立ち並ぶ、寂れた石の壁の間から、こちらを監視する――何十もの視線。
自分たちの縄張りに、足を踏み入れた愚か者を、息を殺し、注意深く動向を見据える住人たちの緊張が、こちらの少女の息をも、切迫したものに変えていた。
もしも――彼らが一斉にこちらに襲い掛かってきたら――ここは、王国の治安統治外の特別な場所だ。
王国の法は自分たちを守らない。
何をされようと、助けは来ない。
夜の間だけ咲き誇る、ならず者達の独立した楽園。
それだけに、さまざまな闇の情報が取引される。
しかし、生半可な覚悟で足を踏み入れれば、逆に自分が、その闇に食まれて消える。
「…」
少女は、隣りを歩く青年を見た。
平服に身を包み、普通の道を歩くのと変わらない様子で平然としている。
しかし、彼女は知っていた。
彼の方は彼女の『正体』を知らなかったが、彼女の方は彼の正体を知っていた。
(ミルガウスの…)
異国人の身で、世界一の大国の位大臣の頂点を極めた人。
今は、闇の石板が砕け散った責任を負い、その身分を剥奪されたという。
しかし、自ら砕けた石板を探すため、旅をしているという話は、彼女の耳にも届いていた。
文官の長である人が旅なんてと、半ば話し半分で聞いていた彼女だったが、なるほど、この落ち着きぶりはただ者ではない。腕に、覚えがあるのか、肝が相当据わっているのか…。
(…それに)
彼女は、昨夜の様子を思い出す。
昨夜――裏町に行こうと、決死の覚悟で道を急いでいた彼女は、通り道でもある、酒場の前で酔った男に店に連れ込まれてしまった。
助けてくれたときは、知っている顔に驚いたものだが――もっと驚いたのは、その時彼が口にした名前。
『マリア』。
(どうして…)
彼が、その名前を知っているのだろう。
彼女にとって、大切な――大切だった女性(ひと)の名前。
「…」
そっと隣りを伺ったとき、その男の足が止まった。
「!」
思わず息を止める彼女の視線の先で、アクアヴェイル人独特の青い眼が、冷静な光を湛えてこちらを見た。
「着きましたよ」
「ええ」
二人は、何の変哲も無いように見える、一軒の家屋の前に居た。
陽光が、表面をさらさらと零れ落ちている。
風と砂にさらされて、崩れかけた扉を押し開けると、その一歩先から闇に呑まれた空間が広がっていた。
「…」
ひんやりとした空気が、明るい外に漏れ出し、彼女の首筋をなぜた。
それは、心地よさではなく、ぞっとするような不快感を、彼女に与えた。
「行きますよ」
「…はい」
彼は、何も感じていないかのように平然と、闇にすっと溶け込んでいく。
置いていかれないように、彼女も急いでその後を追った。
二つの影が扉に飲まれると、錆付いた音を残して、扉はパタンと閉まった。
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