Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  第五章 砂荒れる地の涙 
* * *
――???



 ふわふわと、宙を漂う感覚は、水の中をさまよっているのに似ていた。
 ティナは、必死に手を伸ばす。
 何をつかもうとしているのか、何を求めているのか。
 力なく揺れる指の間を、空気より重く、水より軽い何かがすり抜けていく。
 呼吸が、間遠になっていく。
 ダメだ、と頭のどこかで警鐘が鳴り響く。
 だが、彼女はそれを、そよ風のようにやり過ごした。
 彼女の中は、からっぽだった。
 自分がどうしてここにいるのか。
 何が起こったのか。
 仲間たちのことも、不死鳥のことも。
 『現在(いま)』と『過去』のはざまで弄ばれたことも。
 すべて、忘れ去った、空虚な喪失感の中にいた。
(私…は………)
 紫欄の瞳が、抗うように瞬く。
 しかし、それも空しく、彼女は瞼を閉じていく――

 ――剣を打ち合う、男女が見える。
 一人は、栗色の髪をした女。
 一人は、金色の髪をした男。
 それは、何度も見た、夢の中の一場面だった。
 死に絶えた都。
 放たれる黒い波動。
 自分が変えたはずの――『過去』。

(なんで…)
 ティナは、声なき絶望の中で、ふとこぼした。
 なんで、『前に進まない』?
 夢はそこで繰り返すだけ――。
 次の景色を映し出そうとしない。

「………」
 視界が闇へと閉じていく…
 闇へと飲み込まれていく。
 その時、だった。
(ダメです…。戻って…!!)
(!?)
(こっちです。早く…)
(…)
 突然、彼女の頭に響いた声に、ティナははっと目を見開いた。
 声の誘うまま、無我夢中で手を動かし、彼女は夢魔の倦怠感を必死に抜け出そうともがく。
 実体のない水を掻くような感覚の果てに、微かに指先が何かに触れた――と思うと、ぐいと引き上げられる。
 水中から空中へ。
 空と水の境にある、透明な膜を破るときの、抵抗感。
 その狭間にあって、彼女の目に、透明な映像が飛び込んできた。

「ごめんなさい」
 雨が、降っていた。
 赤い、雨が、降り終わって、あちらこちらに溜まり場を作っていた。
「ごめんなさい…あなたは、僕を助けて…くれた、のに…」
 乱れた金の髪が、血と汗で痩せこけた頬に張り付いていた。
 ぽたぽたと、透明な涙が、頬を伝って流れていた。
「ごめん…なさい。僕が…僕の、せいで…」
 痛々しいほどにの、骨ばった肩が、震えている。
 土の上に横たわる、安らかな表情をした女に、語りかけている。
「僕が…あなたに…関わってしまった、せいで…。僕さえ…関わらなければ…」

(誰…?)
 まさか、と思う予感がなかったわけではない。
 だが、それが明確に何を示すのか分からないまま、ティナは引きづられた。
 夢のような感覚が、現実に引き上げられていく――。
 身体全体でそれを感じた果てに、彼女は奇妙な空間に立っていた。


「………ここは」
 ティナは、辺りを見回した。
 空と大地。
 はてなく広がる砂の帝国。
 日光にさらされた肌はまったく熱を感じず、ほのかな冷気さえあるようだ。
 不死鳥の召喚をしそこなったことだけは、覚えている。
 それから――何か、過去と現在が交ざった記憶に弄ばれてから。
 ここに来るまでの出来事が、どーにもこーにも、思い出せない。
「大丈夫ですか?」
「…」
 柔らな声が、ティナへと発せられて、彼女は反射的に振り向いた。
 そこに居たのは、少女だった。
 ティナよりは、年上。だが、20を越して間もないくらいだろうか――
 線の細い身体だが、か弱さは不思議と感じなかった。
 褐色の肌に、淡い色の髪。
 おそらくシェーレン人だろう――しかし、瞳の色は分からなかった。
 瞼は、閉じられていた。
 おそらく、永遠に。
「あなた、誰?」
「『マリア』」
「マリア…」
 その名は、どこかで耳にしたことがある。
 ありふれた名前ではあるけれども。
 特別な意味を持っていた。
 ある男にとっては。
「マリア…あなた、誰なの? ここは、どこなの? さっき私を呼んでくれたのは…助けて、くれたのは…あなた?」
「…」
 矢継ぎ早の問いかけに、彼女は薄く微笑んだまま頷いた。
 大地そのものが形を成したような。
 包み込む優しさ。
 堅実な剛さ。
 なぜか、そう感じた。
「死に絶えた都は、この世に思いを残してしまった、人ならざる者の集う地です。私は、『ここ』にいました。あの日から、ずっと」
「人…ならざる…?」
 血の巡りが、一気に速度を増した気がした。
 しかしマリアは微笑んだままだった。
 ティナの想像した不気味な予感とは、まるで無縁に。
「あなたの魔力がすごいから、引き寄せられたの。そうですね…それだけじゃなくて、『彼』に未練があったのかも、知れないけど」
「私の魔力に…? 『彼』って、カイオス・レリュードのこと?」
「そう」
 こっくりとマリアは頷いた。
 一方でティナは、死に絶えた都で、こんな風に『人ならざる者』――カイオス・レリュードの亡霊と話をしたことを思い出していた。
 そんな風に、自分には『人ならざる者』を引き寄せてしまう力が、あるのだろうか。
「あなたは、死に絶えた都に『居た』っていったわよね。私も、そこに居たの。けど、『ここ』は、違う。死に絶えた都じゃなくて、別の空間にいるって…そういうこと?」
「ええ」
 マリアは、物憂げに微笑んだ。
「あなたは、捕らわれてしまったの。七君主の、黒い、波動の中に」
「…!!」


――シェーレン国 死に絶えた都



――ふふふ。

 石版は、微笑んだ。
 傍に佇んだ少年を従えて。
 目の前に身体を投げ出した少女を見遣って。

――不死鳥を操る女も、こうなっては、かたなしだね…・

 散った栗色の髪が、女の俯いた顔を覆い隠していた。
 壁に縫い付けるように、少女の四肢を、黒い魔力が締め付けていた。
 そこから立ち昇る瘴気が、辺りの空気を、不気味な色に染め上げていた。

――ゆっくりと殺してあげるよ…。

 石版は、少年の手の中で、ふわふわと微笑んだ。

――ゆっくりと――…ゆっくりと、ね。

 緩慢に眠るがいい。
 再起不能になるまでに。


――???



「黒い…波動?」
 マリアの言葉を受けて、目を見開いたティナは、七君主と言う言葉と、捕らわれた、という言葉で、自分がどういった状況だったかを思い出した――やっと。
「私…不死鳥呼ぶの…失敗、して…」
 それから。
「それから…分からない…昔の…記憶みたいなのを漂って…」
「…そして、引き寄せられた私が、あなたをお助けしました」
「………」
「私は、あなたをこの闇から救うことはできません。けれど、あなたにこの国に巣くう闇のことを、話すことはできる――」
「…え?」
「聞いて…いただけますか?」
 瞼の奥に眠った、見えないはず瞳が、ティナを確かに刺し貫いた――そんな感覚を確かに感じて――彼女はマリアの言葉に耳を傾けた。

* * *
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