――???
ふわふわと、宙を漂う感覚は、水の中をさまよっているのに似ていた。
ティナは、必死に手を伸ばす。
何をつかもうとしているのか、何を求めているのか。
力なく揺れる指の間を、空気より重く、水より軽い何かがすり抜けていく。
呼吸が、間遠になっていく。
ダメだ、と頭のどこかで警鐘が鳴り響く。
だが、彼女はそれを、そよ風のようにやり過ごした。
彼女の中は、からっぽだった。
自分がどうしてここにいるのか。
何が起こったのか。
仲間たちのことも、不死鳥のことも。
『現在(いま)』と『過去』のはざまで弄ばれたことも。
すべて、忘れ去った、空虚な喪失感の中にいた。
(私…は………)
紫欄の瞳が、抗うように瞬く。
しかし、それも空しく、彼女は瞼を閉じていく――
――剣を打ち合う、男女が見える。
一人は、栗色の髪をした女。
一人は、金色の髪をした男。
それは、何度も見た、夢の中の一場面だった。
死に絶えた都。
放たれる黒い波動。
自分が変えたはずの――『過去』。
(なんで…)
ティナは、声なき絶望の中で、ふとこぼした。
なんで、『前に進まない』?
夢はそこで繰り返すだけ――。
次の景色を映し出そうとしない。
「………」
視界が闇へと閉じていく…
闇へと飲み込まれていく。
その時、だった。
(ダメです…。戻って…!!)
(!?)
(こっちです。早く…)
(…)
突然、彼女の頭に響いた声に、ティナははっと目を見開いた。
声の誘うまま、無我夢中で手を動かし、彼女は夢魔の倦怠感を必死に抜け出そうともがく。
実体のない水を掻くような感覚の果てに、微かに指先が何かに触れた――と思うと、ぐいと引き上げられる。
水中から空中へ。
空と水の境にある、透明な膜を破るときの、抵抗感。
その狭間にあって、彼女の目に、透明な映像が飛び込んできた。
「ごめんなさい」
雨が、降っていた。
赤い、雨が、降り終わって、あちらこちらに溜まり場を作っていた。
「ごめんなさい…あなたは、僕を助けて…くれた、のに…」
乱れた金の髪が、血と汗で痩せこけた頬に張り付いていた。
ぽたぽたと、透明な涙が、頬を伝って流れていた。
「ごめん…なさい。僕が…僕の、せいで…」
痛々しいほどにの、骨ばった肩が、震えている。
土の上に横たわる、安らかな表情をした女に、語りかけている。
「僕が…あなたに…関わってしまった、せいで…。僕さえ…関わらなければ…」
(誰…?)
まさか、と思う予感がなかったわけではない。
だが、それが明確に何を示すのか分からないまま、ティナは引きづられた。
夢のような感覚が、現実に引き上げられていく――。
身体全体でそれを感じた果てに、彼女は奇妙な空間に立っていた。
■
「………ここは」
ティナは、辺りを見回した。
空と大地。
はてなく広がる砂の帝国。
日光にさらされた肌はまったく熱を感じず、ほのかな冷気さえあるようだ。
不死鳥の召喚をしそこなったことだけは、覚えている。
それから――何か、過去と現在が交ざった記憶に弄ばれてから。
ここに来るまでの出来事が、どーにもこーにも、思い出せない。
「大丈夫ですか?」
「…」
柔らな声が、ティナへと発せられて、彼女は反射的に振り向いた。
そこに居たのは、少女だった。
ティナよりは、年上。だが、20を越して間もないくらいだろうか――
線の細い身体だが、か弱さは不思議と感じなかった。
褐色の肌に、淡い色の髪。
おそらくシェーレン人だろう――しかし、瞳の色は分からなかった。
瞼は、閉じられていた。
おそらく、永遠に。
「あなた、誰?」
「『マリア』」
「マリア…」
その名は、どこかで耳にしたことがある。
ありふれた名前ではあるけれども。
特別な意味を持っていた。
ある男にとっては。
「マリア…あなた、誰なの? ここは、どこなの? さっき私を呼んでくれたのは…助けて、くれたのは…あなた?」
「…」
矢継ぎ早の問いかけに、彼女は薄く微笑んだまま頷いた。
大地そのものが形を成したような。
包み込む優しさ。
堅実な剛さ。
なぜか、そう感じた。
「死に絶えた都は、この世に思いを残してしまった、人ならざる者の集う地です。私は、『ここ』にいました。あの日から、ずっと」
「人…ならざる…?」
血の巡りが、一気に速度を増した気がした。
しかしマリアは微笑んだままだった。
ティナの想像した不気味な予感とは、まるで無縁に。
「あなたの魔力がすごいから、引き寄せられたの。そうですね…それだけじゃなくて、『彼』に未練があったのかも、知れないけど」
「私の魔力に…? 『彼』って、カイオス・レリュードのこと?」
「そう」
こっくりとマリアは頷いた。
一方でティナは、死に絶えた都で、こんな風に『人ならざる者』――カイオス・レリュードの亡霊と話をしたことを思い出していた。
そんな風に、自分には『人ならざる者』を引き寄せてしまう力が、あるのだろうか。
「あなたは、死に絶えた都に『居た』っていったわよね。私も、そこに居たの。けど、『ここ』は、違う。死に絶えた都じゃなくて、別の空間にいるって…そういうこと?」
「ええ」
マリアは、物憂げに微笑んだ。
「あなたは、捕らわれてしまったの。七君主の、黒い、波動の中に」
「…!!」
■
――シェーレン国 死に絶えた都
――ふふふ。
石版は、微笑んだ。
傍に佇んだ少年を従えて。
目の前に身体を投げ出した少女を見遣って。
――不死鳥を操る女も、こうなっては、かたなしだね…・
散った栗色の髪が、女の俯いた顔を覆い隠していた。
壁に縫い付けるように、少女の四肢を、黒い魔力が締め付けていた。
そこから立ち昇る瘴気が、辺りの空気を、不気味な色に染め上げていた。
――ゆっくりと殺してあげるよ…。
石版は、少年の手の中で、ふわふわと微笑んだ。
――ゆっくりと――…ゆっくりと、ね。
緩慢に眠るがいい。
再起不能になるまでに。
■
――???
「黒い…波動?」
マリアの言葉を受けて、目を見開いたティナは、七君主と言う言葉と、捕らわれた、という言葉で、自分がどういった状況だったかを思い出した――やっと。
「私…不死鳥呼ぶの…失敗、して…」
それから。
「それから…分からない…昔の…記憶みたいなのを漂って…」
「…そして、引き寄せられた私が、あなたをお助けしました」
「………」
「私は、あなたをこの闇から救うことはできません。けれど、あなたにこの国に巣くう闇のことを、話すことはできる――」
「…え?」
「聞いて…いただけますか?」
瞼の奥に眠った、見えないはず瞳が、ティナを確かに刺し貫いた――そんな感覚を確かに感じて――彼女はマリアの言葉に耳を傾けた。
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