――???
ティナが佇むそこは、空と大地が限りなく広がる、狭くて、広い場所だった。
隣りの少女がいなければ―― 一人でいるには、広すぎる場所。
「…この国の闇?」
マリアが口にした言葉をオウム返しに、尋ねると、彼女はこっくりと頷いた。
「ええ」
頼りなげに空を見つめるマリアの姿は、そのまま天に昇っていってしまいそうにも見える。
儚げな人。
自分にはない、女性らしさを持っている――彼の記憶を生きる女性(ひと)。
(じゃなくて!!)
無意識に、逸れまくっていた考えを引き戻し、ティナは彼女の話に意識を集中する。
「あなたは、その…もうこの世には、いない人なのよね」
「はい」
「けど、すごい力を持っていて――魂が身体を抜けた後も、ずっと何年も地上に止まり続けて、しかも魂が損なわれてない。普通の人間だったら、大体魔物化しちゃうもの」
「そう…ですね」
「しかも、この国を蝕む闇を――多分、私の相棒が巻き込まれてる、この国の闇についても知ってる」
「はい」
「一体、何者なの?」
「………」
空を仰いだ姿勢のまま、彼女は首だけをこちらに向けた。
それは、底知れない予感を、ティナに伝えた。
「水の巫女」
「――え」
思わず、一歩踏み出す。
それは、王族以上の人間の目にしか触れることができない、超特権階級に在るはずの、人間だった。
世界一の大国、ミルガウスで、曲りなりに左大臣という地位についていたカイオスですら、彼女に面会を許されたことはなかったという。
しかし、そこで新たな疑問が生まれる。
現在はともかく、生前の彼女と出会った――と思われるカイオス・レリュードは、行く当てのない浮浪の身だったはず。
どうして、そんな彼と彼女が、面識を持っているというのだろうか。
「…誤解を生む表現でしたね。正確に言えば、『元』水の巫女でした。私は、巫女失格の烙印を押され、都を追われてしまったのです。あなたがたが滞在している、緑の館の近くに、静かに暮らしていました――そこで、『彼』に会いました」
「…どうして」
巫女失格の烙印。
その言葉が、眼前の人物からはどうにも連想できない。
彼女の持つ雰囲気、そして秘めた力は、水の巫女としてふさわしいものを感じる。
清廉とした――それでいて、凛とした強さも秘めた――。
「その経緯は、後ほどお話いたします。とにかく――水の巫女を追われた私の代わりに、巫女として据えられたのは、私の妹――セレアでした」
「妹…」
「はい」
緑の館に現れた少女を、彼は『マリア』と呼んだ。
それが、『マリア』の面影を残した、妹だ、という可能性は――考えられないことではない。
(じゃああの子が…)
――水の巫女だったんだ。
(けど、じゃあ、どうしてあんなところに…)
それこそ、限られた人間にしか姿を見せない、特権階級のはずだったのではなかったのか。
「…」
その謎を探ってみても、答えは出ない。
すがるように仰ぎ見た先のマリアは、一つ頷いて、再び口を開いた。
「まだ、14才でした…。幼い上に、巫女としての力も――不安定でした」
「………」
「私の口から言うのも、はばかられますが、私の力と比べても、彼女が劣っていることは明白でした。王族だけでなく、本来拝謁できず、言葉を交わすことすら適わない貴族たちからも、不安の声が――影で囁かれるほどに」
「!」
ティナは思わず口を覆った。
力もないのに、重責を追わせられる苦痛。
そして、表面ではかしずかれながら、能力のあった姉と比べられ、陰で非才であることを囁かれる悲しみ。
もしもそんな中に、ポツリと一人投げ出されてしまったら。
「…あのこ…そんな、大変だったんだ…」
「それだけだったら…まだ、救いがあったかも知れません。あの子の非才が――あの子の問題だけで終わっていたなら」
「どういうこと?」
「あの子が――セレアが、巫女として立ったときから、『雨』が減り始めました。――砂の国で、雨が減るということが、どれだけそこに住む人に、恐怖をもたらすか――あなたには、分かりますか?」
「………」
見えない眼が虚空をなぜた。
彼女は、これまでの過去の歴史を、瞼の裏に描いているように見えた。
「女王は、それを憂いました。雨が減り――そして、水の巫女の権威が…ひいては、国の権威が失墜することを。ただ、水の巫女が――セレアが、女王にとって、ただの『巫女』に過ぎなければ、そこで悲劇の連鎖は起こらなかったかも知れません。けれど――」
「けど?」
ティナは聞いた。
妹の受難の日々を話すときさえ、淡々と語っていた口調が、始めて、波紋を孕んでぽつんと落ちた。
水の一滴が、空から落ちたときのように。
「女王は、セレアの――私たちの、血のつながった母親でした」
「………」
「普通は、絶対権力を持つ女王と水の巫女には、血のつながりはありません。しかし、父――先代水の巫女の弟であった、直系の男の手付けとなった私たちの母は、王族とは名ばかりの、傍系末端にかろうじて連なる女に過ぎませんでした。…許されない秘め事の結果、私たち姉妹は生を受けました。――それだけならいざ知らず、不幸が重なって母以外の王位継承者は死んでしまったし、私たち姉妹以外の水の巫女の候補はいなかった」
「…」
複雑で――そして、おそらく悲劇的な背景を、まるで戯曲をそらんじているかのように、マリアは語った。
「水の巫女の血筋は、絶対純粋なものでなければならない。そして、王家の血筋も。――それが、融合してしまった――血は混じりあい、穢れてしまった――それが、今回の妹の非才と『雨』の減少につながったのではないか、と母は考えました」
「そんな」
「そして、母は、闇の商売に手を染めたのです」
マリアは、ふっとティナを見た。
瞳のない眼で見られたように――ティナには感じられた。
「砂の国で、生きるための『利益』をはじき出すため。水の巫女の非力による雨の減少のよる国力の衰退を、補うため。そして、――すべてが露見したときに、水の巫女への非難を、逸らすため」
「…え」
「彼女は、そういう人です。国益のためならば、どんなことでも犠牲にする――けれど、決して見せないけれど――あまりに母親らしい――娘のためならば、混血児や子供たちの将来すら、犠牲にするのも厭わない――そんな情愛も持ち合わせた人間です」
「………」
自分の記憶がないティナには、そこまでして子供のために動く母親の情愛は、分からない。けれど、それはきっと、セレアにとって、むしろつらいものなのではないかと思った。
母が、自分の非力のために、国と何の罪もない子供たちを、犠牲にしようとしている。
それは、紛れもなく自分のために行われていることだ。
それを、ただ見守るしかない無力さ――。
「マリア…」
「はい」
「どうして――あなたは、水の巫女を、やめなければならなかったの?」
「………」
そもそも、マリアという、強大な力を持った娘が、その地位にい続けたら――非力に唇を噛みしめる妹の悲しさも、娘を庇って他人を犠牲にする砂漠の女王の悲劇も、起こらなかったのではないのか。
責めるつもりではなかった。
ただ、不思議だった。
見つめた先で、マリアは始めて眉をひそめた。
そして、悲しげに微笑んだ。
「私が、水の巫女を追放されたのは、私の持った、特殊な能力のせいでした」
「…特殊な…」
「はい。生まれつき視力を持たなかった私は、別のものを見る力を持っていた。――『未来』という名の、現実を」
「未来…を…」
どきり、と心臓が高鳴った。
『夢』で見る、『未来』と言う名の現実。
アレントゥム自由市の悲劇。
妾将軍『カレン・クリストファ』の涙。
堕天死の聖堂。
そして、死に絶えた都の悪夢――。
それは、自分に通じるものがあるようで。
「私は、未来を視るものでした。そこで、――予知してしまった」
「何…を?」
逸る鼓動は、自分と似た力を持つ者への、期待だったのか、不安だったのか――。
マリアは、澄んだ声で、はっきりと告げた。
おそらく彼女が水の巫女を、退かざるを得なかったのであろう――決定的な夢の、その内容を。
「世界が、終わる夢、です」
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