Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  第八章 君に誓う言葉 
* * *
 緑の館には、清々しい木漏れ日が降り注いでいた。
 歩きながら、と言った割りに、その場所に辿り着くまで二人は無言だった。
 前後に歩くその足取りは、やわらかい草の上を踏みしめながら、やがてある場所にたどり着いた――砂漠の太陽の光を柔らかく受け止めた緑が、さやさやと優しい影をつくっている。
 古びた石の跡。
 その面に刻まれた名は、ない。
 思わず足を止めたティナの隣をすり抜けて、彼は石碑の前にたどり着いた。
「俺が知っているマリアは――もう、この世の人間じゃない」
 その石の――墓の前に、彼は膝をついた。
 ティナの目には、風になびく金の髪が光に霞んで、どこか色褪せて見えた。
「お前…彼女と話したのか」
「うん。水の巫女セレアのお姉さんで、――昔あんたが、七君主から逃げてる最中に、ダグラスの襲撃に巻き込まれて、死んだ人、なんでしょ?」
「…」
 石碑と向き合う彼の肩が、微かに動いた。
 しかし、返ってきた声は、平静そのものだった。
「お前、死人とも話せるんだな」
「うーん…。けっこう突飛な話なんだけどね…。七君主に捕らわれたところを、助けてもらったっていうか…」
「………」
「そこでね…色々話を聞いて…まあ、結果的に伝言を任されちゃったっていうかね…」
 どこまでも透明な笑みを浮かべた彼女の存在が、ティナの心のどこかに――確かに、在る。
 彼女は、本当に優しい人間だったんだろう。
 マリアは、決して一言たりとも、カイオスを責める言葉を言わなかった。
 優しくて――強い、人だったんだろう。
 実際に彼女と触れ合って、ティナはそう感じていた。
 だが、彼の目の前には、冷たい古びた石だけ――。
 その目は、何を見ているのだろうか。
「マリア、ね…。言ってたわよ。『私のことは、忘れてください。もう、いいですから』って」
「………」
「彼女って、素敵な人だったのね。ずっと、微笑ってた…」
 彼の金の髪が、さらさらと風になびいた。
 緑がさわさわと鳴いた。
 ティナはふと、髪を押さえて、空を見上げた。
 マリアはまだ、この空の下のどこかにいるのだろうか――。
「お前…なんで」
「…?」
「あの時、笑ったんだ?」
「あの時?」
 囁くような言葉が示した話題の先が分からず、彼女はふと視線を戻した。
 石碑に相対する彼は、そのまま――背中が言葉を語る。
「刺し殺されようとする、直前に」
「…ああ…。あの時ね…」
 ぽりぽりと、ティナは頬をかく。
 七君主が、死に絶えた都を吹き飛ばすと脅して、それが嫌ならティナを刺せと要求したとき――。
 実は意識がなくて、あまり覚えていなかったのだが。
「えっと…笑ったかどうか、はよく覚えてないんだけど…。あの時剣を向けられたのは、なんとなく、分かったのよねー。なんか、…うまくいえないんだけど…。あんたの目が、操られたとかじゃなくて、正気の目だって思ったら…なんか、安心しちゃって」
「…気楽なもんだな」
「………」
「七君主の側だった人間を、気安く信用していいのか?」
 彼は、視線をこちらに向けなかった。
 背中だけが、相変わらずティナの眼前にあった。
 直接面を合わせていないせいか、その語調に切り裂くような強さはなかった。
「七君主は、人の心を読む。こちらの心理も――読まれている可能性が高かった。だから、本気で殺す気だった。結果的に、うまく事が運んだに過ぎない」
「………」
 淡々と告げるその背中は、ティナと視線を合わせるのを拒んでいるかのようだ。
 今までも。
 こちらに対して、後ろ暗いところがある時、彼は決してこちらと視線を合わせなかった。
(後ろ…ぐらい?)
 ティナは、胸中で一人ごちる。
 違う。
 彼女は思いなおした。
 後ろ暗いからではない。
 彼が、視線を合わせないのは、その胸中を――真意を、見せないようにする時だ。
 彼の真意――言葉を弄してティナを殺すつもりだったと吐き捨てる、その裏にあるのは――。
「…うそ」
「………」
「殺すつもり、なかったくせに」
「…随分と簡単に言い切るんだな」
 背中で応える彼の眼前には、――ティナの視線の先には、冷たい石の墓標がある。
 かつて、カイオスに関わってしまったせいで、その命を落とした女性。
「巻き込みたくないんでしょ? 私たちを――」
「………」
「だから、そんな言い方するんでしょ、わざと突き放すみたいな」
「…」
 ティナは、あえて高めの声を出した。
 最初より大分マシになったとはいえ――このテの話題へ真っ向から向き合うのは、どこか身構えてしまうところがある。
「…」
 沈黙を保ったままだった彼の、ふっと振り返った青の眼が、始めてティナを見た。
 湖面のように静かな瞳。
 そこには、覚悟していたような拒絶の光はない。
 それを見止めて、ティナはほっと安心した。
 問いかけるような視線に、微かに笑んだ。
「言葉にされなくても、それくらい私だって分かるわよ」
 しっかりと相手の目を見返して、彼女はぴっと指を立てた。
「大体、今回のことだけど…七君主が心を読むっていうけどねー、あんたに限って言えば、そうともいえないと思うのよ。だって、もしも七君主があんたの心を読めるんなら、アレントゥムで七君主を裏切ったときとか――それより、もっと前に逃げ出す時だって――それを事前に悟られてたはずでしょ? けど、そんなことなさそーだったし」
「…」
 ティナの指摘に、意外なことを聞いたように、カイオスは微かに眉を上げた。
 そんな彼の様子に構わず、彼女は続ける。
「それに今回は、あなたが狙われたんじゃない。私が狙われたんでしょ。――えっと…。助けてもらったみたいだから…。ありがとう、とりあえず」
「………」
 彼は、特に感情を動かした様には見えなかったが、微かに口元が緩んだようだった。
 何か、言うべき言葉を言いかけて、そして結局口を閉ざした。
 微かな沈黙を挟んだ後、その思いを言葉にするために、ティナは、穏やかに切り出した。
「たぶんね、もうとっくに渦中にいるのよね。闇の石板を探す旅に出るって決めたときから…ううん、もっと前かな。アレントゥムの光と闇の陵墓で、七君主を撃退するために、不死鳥を召喚するって決めたときから。それで、七君主に狙われることになっても、まあ、しょうがないわよね。自分が選んだことだから」
「…だから、そもそも巻き込んだのは――」
「全部、私が自分で、決めたことだから」
「……」
 相手の言いかけた言葉をやんわりと制して、にこっと笑うと、相手は視線を逸らした。
 ティナは、思わず言葉に出す。
「あ、また逸らしたー」
「…何が」
 彼女の指摘に、再びこちらを見たカイオスに向かって、ティナは頬をかく。
「いや…えっとね。気まずい時とか、本心勘ぐられたくないときって、大体あなたヒトの目を見ないのよね」
「………そうか?」
「そーよ」
 ティナが零すように頷いた後、再び微かな沈黙が落ちた。
 さらさらと髪を撫ぜていく風が、ティナの背中を押してくれたようだった。
 それでもその言葉を言うのに、少しのためらいがあった。
「私ね。不死鳥を――召喚できなかった。『失敗』したんじゃない。召喚は、成功した。呼べるはずだった。けど――精霊が、応えてくれなかった」
「………」
「けど…どうして、なのか分からなかった。マリアにも言われたんだけど…。やっぱりね、私の過去が問題みたいなのよね。だから…それと向き合わないといけないのよね」
 もちろん、石板を探す旅も――自分のせいで、異空間に引きずりこまれていった副船長の行方も、追わなければならないけれど。
「今まで…なんだかんだで、考えないようにしてた…ところも、あるし。でね。そんな風に自分と向き合おうって時に、いちいち仲間を疑ってたら、しょーがないと思うわけよ」
「…」
 彼は、無言で聞いている。
 それは、彼女の独白に何か感じるところがあるのか、それともただ聞いているだけなのか。
 ティナには分からなかった。
「七君主側の人間をって、あんたよく言うけどさ。それを信じるも信じないも、私の問題だと思うのよね」
 彼の心情は分からなかった。
 だから、自分の偽りのない本心を、伝えたいと思った。
「もしも、それで裏切られることがあったとしても…。それは裏切ったあなたの問題じゃない。信じた私の問題よ。まあ…あんたは、私のこと、気が置けないんだろーけどさ」
 信頼できない、という意味で、ティナはベタに間違った言葉遣いをした。
 そしてそれに自分でも気付いていなかったが――カイオスは微かに眉をひそめてから、やがて、そうだな、と呟いた。
「確かに――どちらかというと、『気が置けない』かもな。ただ、本来の意味で、だが」
「?」
 本来の意味? 
 ティナは小首を傾げた。
 何だろう、気が置けないと言うのは、――信頼できないとか――そういう悪い意味で使うんじゃないのだろうか。
 ひょっとして、いい意味なのだろうか。
「えーっと…。だってあんたさ、砂漠をキルド族の護衛しながら渡ってたとき、お前らのことなんて仲間と思ってないみたいなこと、言ってなかったっけ?」
「そう…だったか?」
「…な!」
 すっかり覚えてないように、首を傾げたカイオスに、ティナは動揺した。
 あの時は、七君主の術にかかるくらい体力が落ちていたとは言え――ああもはっきりと言い切ったことを、しれっと忘れたと言い切るとは――!
「まさか、覚えてないの? あんなはっきり――」
「あの時は――」
 まっすぐな視線が、言葉とともにティナを遮った。
 そこにあるのは、はぐらかすような態度ではない。
 思いがけず真剣に、彼は先を続けた。
「目の前のことで、手一杯だったからな。――悪かった」
「………」
 ティナは、とっさに言葉を放とうとした。
 けれど、できなかった。
 どきどきと高鳴る心臓が、それをさせなかった。
 何か大事なことを、彼は言おうとしている。
 そんな予感が、彼女の頭を占めていた。
 やがて、囁くように、やっとティナは呟いた。
「分かった。じゃあ…あの時の答え、今…教えてくれる?」

――そんなに、私らが信用できないの? そんなに、仲間が頼れない?

「…」
 もう二度と、と彼は言った。
 視線は、ティナを捕らえたまま。
 その眼を逸らすことなく、彼は続けた。
「もう二度と、お前に――仲間に剣は向けない」
 それは、彼の偽りのない本心なのか、それとも、信じていると言い切ったティナに対して、言葉尻を合わせただけなのか…。
 彼の内実は、彼女には分からなかった。
 けれど、それが真実だとティナは信じた。
 信じても大丈夫だと、そう思った。
「…それが…答え?」
「そうだな」
「…ありがとう」
「………」
 自然に零れた言葉は、彼に届いたのだろうか。
 立ち上がった彼は、特に感情を動かしたような様子もなく、そろそろ行くぞ、と歩き出した。
 そうね、と応じてティナも足を踏み出す。
 連れだって歩くその先を、木漏れ日がさやさやと優しい光の道を作っている。
 前後に歩く二人の間に言葉はなかったが、そこには確かな『同意』――今まですれ違ってきたものが、やっとあるべきところに落ち着いたような、そんな感覚を、ティナはどこか感じていた。
 やがて小さくなっていく二つの背中を、静かに、石の墓標が見守っていた。

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