――???
そこが、『堕天使の聖堂』と呼ばれていた場所だと、その日までは知らなかった。
夕暮れの時間帯に立ち込める霧が、真紅の悲しみを顕している。
無実の罪で、天の楽園を追放された天使の、悲哀にくれた聖なる地。
美しい情景は、かの天使の悲痛なる叫びに引き裂かれ、ゆがみ、深い霧に包まれた不気味な空間と化した。
「だから、この『地上』で、一番堕天使に近い場所なのよ」
自分の小さな手が、大きなぬくもりに包まれている。
綺麗な女性の大好きな手。
いい匂い。
大好きな声。
「お母さん…」
「なあに、レイザ」
「どうして、そこにいくの?」
「………」
――あのとき、あまりに自分は幼かった。
だから、隣りを歩く母の顔も、前を行く父の顔も、――父に連れられた弟の顔も――。
霧に溶け行く風景に霞んで、よく覚えていなかった。
赤い空気が、降りてくる――
霞んで、溶けて――そして、全てが黒に霞んでいく――
――レイザ。
女の声がする。
母に似た優しい声。
けれど、決定的に違う――華やかな中にひそむ、残虐な一欠けら。
無邪気な子供が、必死に地を這う蟻の隊列を、一匹ずつ一匹ずつ、指の腹ですりつぶしていくような。
――レイザ。
頭が呆然とする。
(ここは…?)
ここは、どこ?
甘い声が、全身を支配している。
差し伸べてくれた手。
私は、あなたに全てをゆだねてしまった。
全て――まるで、傀儡のように。
(私は…)
彼女は、うっすらと自問する。
私を残して――あの人は、消えてしまった。
残された私は、まるで抜け殻のように――
ぽつんと取り残されて――そして――
(左大臣様…)
そう、彼の旅に同行することになったのだった。
彼は、私が同行することを許してくれた。
素敵な人。
麗しい人。
綺麗な人。
――大好きな、人。
私のように闇に屈することなく――その意思を貫き通して――
(私…)
彼のところに行かなくちゃ…
早く行かなくちゃ。
ああ、どうして辺りがこんなに暗いんだろう。
宿屋の古びた床が、ぎしぎしと音を立てて、レイザの下で悲鳴を上げている。
(行かなくちゃ…)
意識が、朦朧とする。
彼のいる部屋は――そう、ここ。
(早く…)
ぎぃ、と軋むような音と共に、視界が開いていく。
月明かりの差し込む寝室に、こちらに背を向けて横たわる男性の金の髪が、きらきらと光っている。
大好きな人。
――レイザ。
私を捉えて放さない、人。
頭の中でこだまする声が、全身を縛り上げていた。
――分かって…いるわね?
(はい…)
彼女は、夢のような感覚の中で頷いた。
滑り込むように室内に入る。
人影は起きない。
吐息が規則正しく、夜の闇の中に響いている。
(私は…)
――私が消えたら、『属性継承者たちを消しなさい』。
(はい…)
彼女は、夢の中で剣を抜いた。
しゃらんと鈴のような音。
月明かりが、その表面を滑る。
彼は、起きない。
無防備なその後ろ姿に、一息に、刃をつきたてた。
■
「!?」
がたん、と大きな音が隣室でして、ティナは思わず飛び起きた。
闇に捕らわれたアベルと共に、虚空に消えてしまったフェイを助けるため――
極寒の大国ゼルリアよりもさらに北の地に向かう最中のこと。
北の大地に踏み入れるには、ゼルリアと北方領主の許可が必要とのことで、飛竜を使って一日。
明日には、ゼルリアの王城に着こうという日に、突然この様だ。
「何事!?」
「さあ…ねえ」
すぐに上着に袖を通したティナと違い、同室のエカチェリーナは、眠そうな目をこすってやっと上体を起こしたところだった。
「まさか、こんな安宿…賊が襲いに来たってこともないだろうしねぇ」
「…そうよね。ってあれ?」
「?」
「レイザは」
少なくとも、エカチェリーナよりも遥かに寝起きのよさそうな娘が、全く起きだして来ない。
いやむしろ…
「隣りって、男どもの寝室、だよね」
「そうね…」
カイオスとロイドが寝ている部屋だ。
何となく嫌な予感がして、彼女たちは急いで身支度を整える。
部屋を出たところで、又隣の部屋にいた、アルフェリアとクルスが同じような顔で飛び出してきたのにかち合った。
「…レイザがいないの」
「…え!」
「………」
開口一番のティナの言葉に、クルスは純粋にびっくりした顔をし、アルフェリアは眉をひそめた。
子供なクルスはともかく――将軍の脳裏には、何通りかの『可能性』が、浮かんだらしい。
レイザが何かの事件に巻き込まれたか。
もしくは――。
「いくぞ」
見合っていた時間は長くはない。
扉を破る勢いで、部屋の中になだれこんだ男女四人が見たものは。
「おーお前ら」
微妙な顔をしたロイドと、
「……」
微妙な顔をしたカイオス。
そして、彼にあたかも組み敷かれるように取り押さえられた、少女――レイザの姿だった。
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